トラストミー・ノットラブ 中編

その後も、ナルサスはカナタのことを百騎長だと思って接することを試みたし、カナタもまた自分の立場をわきまえて大軍の中で振る舞おうとした。数日前まで「師弟」という関係に浸っていた二人の間に、歪みが生じるのは当たり前のことだった。

行軍の二日目が終わり、再び野営が始まろうとしている。カナタは冑を脱いだ途端一斉に押し寄せてくる部下の言葉に耳を傾けていた。

「カナタさま、途中で動きを変える際、うまく指示が伝わらぬことがありました。このような大軍の中での指揮はまだ不慣れでしょうから、明日もう一度ご確認ください」
「本日のトゥース様の兵に紛れての行軍は見事でしたが…些か兵には疲れが見えます。立ち位置を定められるほうがよろしいかと。もちろん、我々はカナタ様の命に従います」
「カナタさま!貴方には武勲を立ててほしいと、我々百人はそう思わずにはおられません。先陣を斬り、敵将の首を取るお力はお持ちのはずです。何卒、心得を忘れませぬよう」

順番に彼女の元を訪れて彼らが言うのは、おおよそこのようなことだった。
彼らの申し立てはカナタにとっては貴重な意見であるはずだった。しかし、今のカナタはまだ自分の立ち位置や意味を曖昧にしたまま百騎長という役割をもらったような状態で、部下からもらう言葉は、全てどさどさと乱暴な音を立てて彼女の中に積み上げられていた。

百人のカナタの部下は皆、カナタよりも戦場慣れしていた。彼女が自分に不足している部分を補おうとそういう兵を選出したからであった。その中には当然彼女よりも年上の兵も多く存在している。彼らは自分のように若く、騎士の家の出でもない女性をそれでも仕えるべき相手だと敬ったし、何かあれば逐一彼女に報告を上げてくれる、贔屓目などなしにいい兵たちだった。
しかし独立遊撃隊という与えられた役割をこれからどうしていきたいか、どうあるべきか。そういうことを考える時間が、カナタにはあまりにも足りない。ゆっくりと自分の責任を考えたり、理想を掲げるための時間が欲しい。そんな悠長なことを言っていられない状況なのは分かっているが、彼女は全てにおいて余裕がないと痛感していた。
そしてカナタには気になることがもう一つあった。それは、彼らから寄せられる意見の中に自分への確かな寛容さが見え隠れしていることだった。上に立つものが部下に寛容なことはあっても、部下に「これからできるようになればいい」と思われるような自分であってはならない。

大きな目的を果たすための軍の中のスピード感。そして役職についたばかりの自分の無力さと不甲斐なさ。彼女は奥歯を噛み締め、それでも出来ることから手を付けようとした。

指示の出し方一つでも、伝わらなかったと言われればその夜は声の通り方や言葉選び、相手の状況を把握する広い視野についてどう確保するかを寝ずに考えたし、立ち位置を定めろと言われればそれでは定点にいて臨機応変に動けぬ独立遊撃隊などに価値があるのかと苦悩し、答えを出そうと必死になった。武勲を立てることは今の彼女にとって優先順位が低いようにも思われた。

これまではカナタはそういったことを一切合切ナルサスに話したり、相談をすることができたのだ。しかし今、彼はカナタの師匠ではないし、そもそもこの何万という単位の指揮を取る軍師だ。話しかける隙もなければ、相談する暇もない。何より理由がなかった。

カナタはその夜、眠れない体を引きずって、一時的に馬を繋いでいるところへ向かった。彼女の話を今黙って聞いてくれるのは、愛馬であるシャーナズくらいなものだと、そう思ったのだ。

「シャーナズ…覚悟の決まらぬまま貴方を操る私を、赦してくれますか」

丁寧にその黒毛を撫でながら尋ねても、シャーナズは何も答えない。暗闇の中で彼女の瞳をじぃと見つめるだけだ。この反応では大方愛馬の思うところも兵たちと変わらないかもしれないとカナタは感じる。しかし今ここで吐き出してしまわなければ、明日の行軍に支障が出てもおかしくないほど頭の中で情報と気持ちが氾濫していた。彼女は言葉を続ける。

「明日もきっと、無茶な動き方ばかりして、兵を混乱させてしまうかもしれません。一体どうしたらいいのでしょう」

考えても考えても、答えは落ちてこない。何とか自分で掘り出すしかないのだ。しかしそれをするのが何故か途方もない作業のように思われて、彼女の思考はぐるぐると同じところを回り始めてしまう。

「統率力を上げること、武勲を立てること、大切だということは分かっています。でも、私は先ず百人の生命を預かっているのです。彼らが無事でいられるのであれば…それで」

それでいい、そんなはずはない。押し問答を続けても仕方ないということを分かっていながら、思考を止めずに保つためにはそんなことが必要だった。大志とは程遠いところにある自分のちっぽけな理想に足を引きずられる気がして仕方がない。カナタは朝までシャーナズに語りかけ、なんとか進む方向を明らかにしようと努めた。

数日後も行軍は順調なように見えた。チャスーム城を目前に、第一陣のイスファーンとザラーヴァントが先陣を切りすぎていること以外は、だが。
しかしそれもナルサスの策であることはダリューンやキシュワードには知らされていたため、万騎長二人はその様子に焦ることもなく、ただただ時が満ちるのを待つことに徹していた。カナタは恐らくナルサスが策を持って彼らを野放しにしていることは察していたが、その日は詳細を知らされずにいた。一先ず自分は第二陣と共に進んで有事に備えよう。そう思っていたはずだが、途中から頭のどこかに不安が過ぎる。
第一陣の彼らの前に直に見えてくるであろうチャスーム城。そこにいるクレマンスという男は、献身なイアルダボート教の信者だ。そうして異教徒のことを悪魔だと信じ込み、根絶やしにする勢いで惨殺を繰り返したという話をカナタは思い出していた。

イスファーンとザラーヴァントはナルサスの策を知らない。そしてクレマンスのことも。後を追っているトゥースも同じだ。であれば、それを察知している自分が駆け付けて、彼らの兵が誇りを踏みにじられるようなことが起きる前に防ぐことが出来ないだろうか。ナルサスの策を保持したままそれが出来るのは自分だけではないか。

しかしカナタが号令を飛ばそうとした次の瞬間、彼女の視界はぐらりと揺らぎ、一瞬にして天地が一回りした。

カナタは落馬して足首を捻り、結局あの後にはチャスーム城から出てきたクレマンスの軍と、イスファーンとザラーヴァント率いる兵とが争い、多少の血が流れた。結果的にはダリューンがクレマンスを討ち取り、ナルサスの策が成功した形になった。カナタはその間、ただアルスラーンの側に控え、愛馬が自分を振り落とすほどに激昂していたことに反省の色を示し続けていた。
犠牲が嫌だなんて、馬鹿げている。そう考えられれば少しは楽なのに、やはりカナタはその思考を己の中に持ち込めずに悩んでいるのだった。

何もないところで落馬して負傷したとあっては、兵たちに合わせる顔もなく、カナタは治療のためと言って一人離れた天幕で膝を抱えていた。挫いた足などもう痛くなかった。

こんなとき、『先生』がいれば―――そこに辿り着いてはいけないと固く決意をしていたカナタだったが、とうとう堪えきれず彼女を導いてくれる存在を求めてしまう。そうして今まで自分が抱えていた迷いも戸惑いも、全て師がこの手を引いて解決に結びつけてくれていたのだと知る。一人になった瞬間、こんなにも自分が弱い存在だと思い知らされるとは、考えもしなかった。

「カナタ」

自分を呼ぶ声は、都合のいい幻聴かと思いきや、振り返るとどうやらそうではなかったらしい。そこには確かにナルサスがいて、器の乗せられた配膳用の木の盆を持っていた。