トラストミー・ノットラブ 前編

王都エクバターナを目指し、王太子アルスラーン率いるパルス軍がペシャワールを発って、一度目の夜が来た。大陸航路を進むアルスラーン軍は無理のない範囲で最大限にその行軍を進め、日が暮れると野営地を決めた。食糧も物資も十分にある。まずはこれからの行程を確認し、寄せ集めた兵たちの統率を着実に固めていく。そんな夜だった。

兵たちの中には初めての遠征に緊張した面持ちを見せる者もいたし、この戦で武勲を立てて出世を狙う野心を持った者もいた。彼らは剣や弓、鎧や馬具に至るまで念入りに手入れをし、補給兵の作った夕食に手をつけていた。カナタは自分の部下となる兵たちと共に夕食を取りながらも、エラムの作った食事の方がおいしいな、と供給された食べ物に対して彼女らしい感想を思い描いていた。

「カナタさま、明日の我らの動きですが、どのようになさいますか。ご指示を」
「我らは王太子殿下直属の遊撃隊です。基本的には殿下のお側を離れぬように動きますが、詳細については先生と打ち合わせした後に…」

言い掛けてカナタは自らの口から自然と出た『先生』という呼び名にハッとする。
彼女の部下としてペシャワールから連れ立った兵たちは、チュルク軍と対峙したときのそのままの百人である。見事な策で武勲を立てて、更に王太子直属の百騎長という地位を得たカナタに彼らはもはや盲信的な忠誠すら誓っていた。当然、カナタの師匠がナルサスで、彼女が彼を先生と呼ぶことは知っている。しかし彼らの間には、ほんの数日前にカナタがその師から免許皆伝の言を受けたことも既に知れ渡っているのであった。
呼称を間違えたことに気付き、部下の前で醜態を晒してしまったと一瞬後悔したが、カナタはしかし威厳を崩さぬように素早く切り返した。

「失礼。軍機卿ナルサスさまと全体の動きについて検討した後に説明します。戻るまでに各人、体を休めていてください」
「はっ」

三年と言えば短いようにも感じる期間であるが、カナタの人生において弟子であった三年の比重は彼女自身も計り知れないほど大きかった。気になること、困ったこと、新しい発見、自分の誤り、考察した内容。どんなことを口にするときも、一言目には先生と言ってきたのだ。今更にそんなことに気付き、カナタはその存在に頼り切りだった自分を恥じるとともに、もう自分の師ではないのだと一抹の寂しさを覚えながらアルスラーンのいる本部の天幕へ向かった。
カナタは外に控えているジャスワントに挨拶をすると、天幕に入った。

「まだ先生はいらしてないのですか」

そして殿下に軽く礼をすると、開口一番ナルサスが不在であることに声を上げた。

「カナタ。ナルサスならあちらで話を済ませてから来ると言っていたぞ」
「そうでしたか。ダリューンさまとキシュワードさまは先生から既に何かお話を?」
「いや、我らもまだ何も聞いておらん。時にカナタ殿、おぬしはナルサス卿から皆伝を承ったと聞き及んでおったが…」
「左様です、キシュワードさま。私なぞまだまだ未熟者ではございますが、先生からいただいた名に恥じぬよう、これからも精進しますゆえ。何卒せんせ……」

最後まで言い切らぬうちにカナタは何かを含むようなキシュワードの表情に気付き、わっと自身の表面が熱くなるのを感じる。隣にいるダリューンも似たり寄ったりな表情を浮かべているし、その様子をおやおやと面白げな顔で見守っているのはファランギースだった。アルスラーンですらその呼び方を何度も繰り返すカナタの様子につい頬を緩めていた。
ナルサスとカナタの関係が変わったとはいえ、そうすぐに先生と呼ぶのを止められないようだ、と朗らかな安堵と一部には密やかな期待外れを感じているような空気だった。

「し、失礼いたしました。ナルサスさまのっ、教えを守ってまいりますが!今後も至らぬ点があれば、遠慮なくご指導いただきますよう、よろしくお願い申し上げます」

慌てて訂正したとてキシュワードとダリューン両名の意地悪い笑みは止むはずもないが、その空気を打ち破ったのはまごうことなき『先生』であるナルサスであった。彼は外で大方の話を聞いていたようで、二人の数倍は笑みを堪えきれぬという表情をして天幕に入ってくる。

「おい。あまりカナタをいじめてくれるな、ダリューン。キシュワード殿もどうかそれ位でご勘弁くだされ」
「先生!あっ、」

その姿を見た瞬間に再びその呼称が口から飛び出してしまったカナタの様子に、一同はもはや無理に直す必要はないのではとも思っていた。ナルサスは一瞬驚いたような表情を見せたが、先生と呼んでしまって羞恥に震える彼女の顔面を見てより一層口角が上がってしまったようだ。

「どうしたカナタ。おぬしの先生だぞ」
「ナルサスさま、からかうのはお止めください!」

声を上げて楽しそうに笑うナルサスは嬉しくて仕方ないという顔をしているのだが、すっかり耳まで赤くして抗議しているカナタにはそれは分からぬ様子だった。
そうこうしているうちに天幕には各千騎長や、アルスラーンの激に呼応した猛者と呼ばれるべき者たちが集い、明日以降の行軍について戦略会議が始まった。ナルサスは大きくなった組織を束にして崩さぬよう、殊更に声に重みを乗せて説明をこなした。

「これから我々は大陸航路を堂々と、エクバターナまで進んでいく。第一陣の一万騎は、トゥース、ザラーヴァント、イスファーン。おぬしらに率いてもらおう」

そうして有事のときには中央四千騎をトゥースが、左翼部隊三千騎をザラーヴァントが、右翼三千騎をイスファーンがそれぞれ率いるように命が下された。ダリューンとキシュワードの率いる兵は第二陣に控えることとなる。

「では、明日からの動きはそういうことだ。各自、翌朝に備えて準備を整えよ」
「ナルサスさま。一つよろしいでしょうか」
「百騎長カナタ。どうしたのだ」
「この先、チャスーム城という城があります。ルシタニアがエクバターナを占拠した後に急造したものですが、立地からして占拠は容易ではありません」

カナタは広げられた地図のある点を指差し、周囲の視線を一点に集めた。ナルサスはそこに彼女が着眼せぬと思っていたわけではないが、堂々とこの場でその存在を語る彼女の姿を想像してはいなかった。出来ればもう少し先に進み、城を見つけた時点で味方の中での情報差をつけて敵を出し抜きたかったのだ。

「どのようにされるか、今のうちに決定しておくほうが得策かと。必要なら偵察に赴きますし、見過ごすのであれば見過ごし方を決めておかねばならぬと存じ上げます。チャスーム城についてはどうお考えでしょうか」
「そうだな、おぬしの言う通り確かに攻めるにはそれなりの力のいる城だ。しかし…」

そこでナルサスはキシュワードに目配せをした。ダリューンではなく俺にということは、つまりそういうことだろうな、と。キシュワードはその視線一つでナルサスの意図を万全に汲み取り、発言した。

「カナタ殿、さすが王太子殿下の信頼厚き軍師殿の元で学んだだけある。その申し出は確かに我が軍が取り扱わずに済むものではあるまい。しかし我らが動くには軍機卿であるナルサス殿、そしてアルスラーン殿下のご判断の下にあるということ、まずは肝に銘じておけ」

キシュワードの口調は厳しかった。周囲の空気が一度に凍りつくような彼の発言は、万騎長を務められる器がどのようなものか、その場にいた新参者に思い知らしめるには十分であった。カナタはそこでようやく自分が言葉の剣を抜いてはならない場所だったということを、ナルサスではなくキシュワードの言葉に刃を跳ね返されたことで気付いた。もう王太子殿下と数人という世帯ではない。その中で自由に振る舞うには彼女にはまだ不足があるようだった。

結局チャスーム城については後日改めてナルサスが伝令を飛ばすということで決着した。軍議の後すかさずダリューンがカナタの傍に寄り、声をかける。彼とてキシュワードにあの場でたしなめる役をさせ、そのまま彼女を放置というわけにはいかぬだろうと思ったのだ。

「カナタ。おぬしは今、仮にも百騎長だ。あの場で発言をするなと言うのではないが、もう少し慎みと敬意を持たねばならん。無論殿下はそのようなことを気になさるような狭量な御方ではない。ただ、新しい者が増えたばかりでおぬしがこれまで通りに発言していては、彼らの不満も募るというものだ。今はまだ時期を待て」
「分かりました」
「ナルサスの弟子のままの方が都合がよかったか」
「いえ、まだ変化に慣れぬだけです。それにダリューンさまの仰ることは、ごもっともです。私はまだ、この世界での地位がどういうものなのかを深く存じ上げません。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」

しかし声を掛けてみれば、カナタの反応はすこぶる鈍い。何かまた思考に苛まれているのか、軽口を挟んでみても、それに応えることすら彼女には億劫に思われるようだった。申し訳程度にダリューンに頭を下げるとその場から逃げるように自らの兵の元へ走っていった。