トラストミー・ノットラブ 後編

「夕食も禄に取らなかったと、お前の兵が心配していた。温かいうちに食べなさい」
「申し訳ありません、ナルサスさま。そんなことをさせてしまって」
「師弟関係を解消したら、おぬしの心配もしてはならんのか。つくづく損なことをしてしまったな」

カナタがそんなことはないと抗議の声を上げると、ナルサスは食事を彼女の目の前に置いた。まだ湯気の立ち上るそれは、どこか懐かしい匂いがして、急に空腹を思い出したようにカナタは鶏肉のシチューを口に含んだ。
この味は、と目を見開いた彼女の様子をナルサスは見守っていた。食べた瞬間に分かる慣れ親しんだ味に、ナルサスがわざわざエラムにこれを作らせて自分のところへ持って来たのだと一瞬でカナタは悟る。シチューを一心不乱に口に運びながら、彼女はぐずぐずと涙を流した。じきに器の底が見えて手を止めると、堪えきれなくなった様子で突然に口を開く。

「もう、ナルサスさまの弟子ではないのです。一人前になったのです」

急に放たれたその言葉は独り言のようにも聞こえたが、確かにナルサスに向けられたものであった。
そのはずなのに、うまくいかない。そう続けたい気持ちをぐっと抑えていることは、ナルサスにはよく分かっていた。カナタがナルサスの名前を呼んだ。己の名前で呼ばれたはずなのに、先生、と縋ってくるような彼女の姿に、彼の中で満たされてはいけない卑しい情欲が、とぷんと音を立てる。

「でもついこの間まで、ずっと貴方を先生と呼んできました。頼ってきました。甘えてきました。…私には本当に、一人で立つ力がありますか」

突き落とす深さを、見誤ったつもりはなかった。
しかし、カナタの問いかけは鋭くナルサスの心に刺さる。もしかすると自分はこの弟子だった少女に、情愛を注ぎすぎたのではないか。そして結果として重みを増した彼女は転がり落ち、行き過ぎた情愛は再び這い上がるための自己肯定感を奪ってしまった。不思議なのはそれを見て心のどこかで安心している自分がいるのを、はっきりと自覚できることだった。

ナルサスの中には永遠に彼女の師として目の前で揺れる瞳を閉じ込めて、寵愛を注いでいたい気持ちがないわけではなかった。無理だと、無駄だと、そんなことは理解している。理解したからこそ手を放したのだ。
それなのに寧ろ、彼女に免許皆伝を言い渡したことを、彼女の不調を差し引きしたとしても、たったの数日のうちに後悔することさえあった。
呼ばれなくなるのが寂しい。導いてやりたいのに歯がゆい。愛おしい。離れたくない。自分のことを必要としてほしい。色々な気持ちが生まれては葬られ、しかし埋めても燃やしても消えて無くなることはなかった。

この気持ちは師弟愛などと綺麗な言葉で表せるものではない。幾年もかけて落ち葉や動物の死骸が堆積した、新たに湧き出る水すらもすぐに濁らせてしまう泉のように思われた。

目の前の少女に澄み切った水のようであれと願うのに、自分がずっと彼女に与えてきたのはドロドロとした、それと真逆のものだったのかもしれない。支えを失った彼女に自分の中に渦巻く感情をそのままに与えれば、その心を永遠に捕らえておけるかもしれない。そう、彼女の問いに「判断が早急だった」と言うだけでいい。

嗚呼しかし。ナルサスは自分でその返答を否定した。小さな籠に目の前の弱った姿のまま閉じ込めるより、やはりその翼を広げ、大空を舞う姿が見たいと願わずにはいられないのだった。師でなくなって以来初めてそこで、彼女が自由に飛び回れるだけの空を用意するべく口を開いた。

「カナタ、今のおぬしの迷いは何だ」
「自身の立場と、理想と、現実との間に、正確な秤がありませぬ。兵たちの犠牲を尊しとせぬことを己の芯に据えようとしても、他のことに苛まれ、心を動かす手が定まりません」
「それは『犠牲にしたくない』のではない。百人の兵に『失望されたくない』という、己が可愛いだけの感情ではあるまいか」

言葉だけを取れば厳しいが、彼の瞳は穏やかだった。弟子であった彼女を諭すときとは異なる、しかし軍師としての矜持をやんわりと説くその姿を見ているうち、カナタの瞳から溢れる涙は勝手に止まっていた。
チュルク軍との戦いでもこれまでの行軍でも、兵を一度も死なせなかったことは確かに名誉だ。ただそれは、お前が百人の理想に染まっていくこととは違うはずだ。彼らにお前が合わせていって結果どうなる?お前のやりたいことはできるのか?理想は叶うのか?そうやってナルサスは一人の将としての彼女に問いかける。
ナルサスから放たれる質問に、カナタは自分の頭の中を覗かれているような気持ちになった。

「…と、結果がどうだとか理想がどうだとか、これは俺の言葉ではない。お前の兵たちが不安に思って、わざわざ俺のところまで進言しに来たのだ」
「部下たちがですか?」

大きく声を出して問いかけると、ナルサスは素早く頷いた。見透かされていると感じたのは目の前のナルサスにではなく自分の部下たちにだと思うと、カナタの中にはどうしようもない気持ちが漂った。

「自分たちの百騎長が悩んでいる。それを見守りたいと思っていたが、どうにも誰かが手を差し伸べねば彼女が折れてしまいそうだ、と。自分たちは彼女の思想に惚れ込んでいるのだから、やりたいことをやってくれた方がいい。それを俺から伝えてくれぬかとな」

大方そこにいるお前の愛馬も同じことを考えて、お前の頭を冷やすために馬上から落としたのかもしれんな、とナルサスは天幕の入り口に目線をやった。外からは確かにシャーナズが鼻を鳴らす声が聞こえ、二人の会話の顛末を見届けようとしているようだった。ナルサスは目線とともに話を戻す。

「何故俺からか、と問えば、カナタが全幅の信頼を寄せているからだと宣うのだ。そうして自分たちもまた、カナタに同じく無類の信頼を持っているとも。だから俺から言ってほしい。そうして立ち上がったお前に、明日からも変わらず仕えたい。カナタ、お前の部下はお前によく似てきたな。なんせ軍機卿である俺の立場にも一歩も退かぬといった様子で申し出てきたのだぞ。それくらいの覚悟と信頼を持ったあやつらを、お前は信じてやれぬというのか」

カナタはそれに対してすぐに出せる言葉を持っていなかった。部下がそんな風に考えていてくれたというのに、自分は立ち止まって悩んでいただけなんて、と今更に情けない気持ちが湧き起こっていた。口を開こうとしないカナタに、ナルサスは続けて話しかけた。

「何でも一人でできると思い込むのは、悪い癖だ。俺のことだっていつでも頼れば良いのだし、甘えていいのだぞ。皆伝したからといって、急に全知全能の神にでもなったのか。他人の意見を求めるのに何を躊躇う必要がある」
「それ、は。私はナルサスさまの、優しさに付け込んでいるだけではないでしょうか」
「否、俺がお前の弱みに付け込んでいるといった方が正しい。本当はお前のことをズブズブと甘やかして、依存させてしまいたいのだからな」

こんなことを彼女に伝えては、もしかすると崇高な師というイメージが崩れてしまうかもしれない。ナルサスはそんな風にも一瞬考えたが、もうその関係でないカナタに遠慮する必要などないと無駄な思考を片付けた。

「しかしお前は、俺が認めた弟子なのだ。いくら俺に頼ったとて、甘えたとて、最後は自分で立つ。そう信じたからこそ手を放した」
「私はナルサスさまの思うほど、強い人間ではありませぬ」
「お前は強い。出来ない自分受け止め、這いつくばってでも活路を探せ。お前を心から信頼してくれている兵百人を余すことなく使え。それがどれだけみっともなかろうが、周囲から滑稽だと揶揄されようが、俺はいくらだって手助けをする」
「何故、そこまで私にしてくださるのですか…」
「何せ俺はアルスラーン殿下にお仕えする軍師なのだ。おぬしの矜持が兵を誰一人使い捨てにしないということであれば、それを甘いなどとは思わぬ。全ての兵を見事に役立ててみせるがいい。将であろうが兵であろうが、持てる力の特徴を活かした策を立てるのは、当たり前のことだと教えたであろう?」

ナルサスの言葉に裏はなかった。もう彼は彼女の師匠ではなかったから、教え導く立場は退いた。しかして今度はただ一人の軍師と将として、彼女に説いた真理に、出来るだけのことをする意思に偽りはない。そこに特別な感情が含まれていたとしてもだ。

情愛でカナタを縛ってはいけない。自由に飛ばせたいと願ったのに、自分が彼女の首に縄をかけ、一瞬手を引いて巣に戻らせようとしたことを、ナルサスはもはや過去の出来事だと笑ってやった。つい先刻まで自分勝手な欲望を押し付け、危うくその羽をもいでしまうところだったのに。
彼女に注いでいいのは濁りのない愛情だけだ。そう結論付けて、ナルサスはカナタの瞳を覗いた。すっかり光も色も失ったように見えたそこには、再び遠い彼方にあるような小さな星の光が戻りつつあった。彼女が何かを決意するときは、いつだってどんなものよりも美しく見えることを、ナルサスはよく知っていた。
強い口調でカナタは言い放つ。

「ナルサスさま。どうかこの先も私のことを信頼してください。貴方の信頼があれば、私はそれに応えます。私の甘えも弱さも、そしてナルサスさまの中にある私を甘やかしたいという感情ですら、消え去るほどの活躍をお見せしてみせます」

ナルサスは深く頷いた。そうして少女は新たな決意を持って、大陸航路を自らの意思で進むのであった。

翌日、カナタは元気になった姿を兵に見せるとともに、百人を召集して次のように語った。もちろんそこには彼女の相棒である黒馬も同席した。

「皆、聞いてください。これから私が進みたいと思う道は、険しい道です。貴方達には、それを話しておきたい」

彼女の言葉に兵たちは注目し、期待を込めた目で見守っている。

「私は…知略を尊しとする兵団をパルスの中に築き、武力の衝突による結果を根絶することを目標としています。そのためには、やはり私自身が道を示すしかありません。この戦で武勲を立て、策を持った集団がいかに強靭かを見せつけ、そして軍の中で確固たる発言権を手に入れたい。
欲張りだと思われるかもしれませんが、私の求める速度で進みたい。…そのために、貴方達百人には、余すことなく働いてもらわねばなりません。これは、私からの各人への指令書です。誰一人として同じ内容はありません。ですから、一名でも欠けたところで私の道は断たれます」

一人一人へ宛てた指令書を手に持ちながら、これが自分なりの信頼の形だと言い切った彼女には、派手ではないがその発言を深く認めるような拍手が送られた。彼女はそれを誇らしく受け止め、もう一度息を大きく吸い込んでから次の言葉を放った。

「それから、貴方達に心配を掛けたこと、申し訳なく思っています。あの時シャーナズに振り落とされたのは、気持ちが迷っているのを見透かされた結果でしょう。彼は私に立ち止まって考えろと言いたかったのかもしれません。
これは百騎長としてではなく、私個人としてお礼を言います。いつも、私の見えぬことまで見ていてくれて、ありがとう」

これからまた無茶をするが、ついてきてほしい。兵たちにそう声を掛けた後には、百人とは思えぬほどの巨大な歓声がカナタを包んだ。
もっと強くなってみせる。そう彼女は決意した。それが未来への足掛かりになり、何よりナルサスや他の皆との間に信頼を築く一歩になると信じて。

その日、カナタはナルサスの命令に属さず行動したいとアルスラーンに申し出て、名前だけで彷徨っていた「独立遊撃隊」の役割を早急に確立させた。彼女は軍機卿ナルサスが各騎長へ下す命令を聞き、その動きを見定め、自身が一番に必要だと思うところに赴くことを要求し許されたのだ。彼女の隊の動きに対して命令を下せるのは、他ならぬ許可を与えたアルスラーン王太子殿下のみということになった。
キシュワードとダリューン、そしてナルサスは変わらず後方のアルスラーンを取り囲む形を取っていたが、三人の視線は第一陣で奔走するカナタの姿をとらえていた。

「あれでよかったのか、ナルサス卿」
「新参者の溜飲が下がったわけではありませんな。なに、あと数日でルシタニア軍と遭遇すればカナタはその役割を果たし、武勲を立てるでしょう。嫌でも彼らの気持ちに決着がつきます。問題にはならぬかと」
「並の兵士ならあれで自暴自棄になってもおかしくないが、カナタは一つ一つの感情を乗り越えていっているように見える。それも、凄まじい速度でな」
「そんなに簡単に潰れるようには育てておらんよ。何せカナタは俺の…」

そこまでナルサスが言いかけると、キシュワードとダリューンはそらきたと言わんばかりに目を見合わせた。軍師が気配を察知するが早いか、万騎長二人が口を開くのが早いかといったところだったが、今回は悪い友のようになった二人に軍配が上がったらしい。

「俺の何だ?」
「可愛い何だ?」
「全く、揃いも揃って…」

相変わらずニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべてキシュワードとダリューンがからかう。ナルサスはそれに対して反論するのを諦めた。彼らは純粋に面白がっているだけなので、反応してわざわざ喜ばせる必要もないとそう思ったのだ。
そうしてナルサスは「俺の可愛い…まあ、可愛いのは確かだな」と彼の頭のなかで一先ずそこまでは認め、カナタへの気持ちに濁ったものが混じらぬよう努めるのだった。

End.