008/解答

「ナルサス…先程からカナタはああして地図を睨んでばかりいるが、大丈夫なのか?」
「ああ、あれは癖のようなものだ。直に解を見つければ筆を走らせ出すだろう。心配はいらぬよ」

洞窟の中で周りの音など聞こえぬといった様子で、穴が空くのではないかという程に一枚の地図を眺める少女の姿を見て、ダリューンは些か不安そうにナルサスに呟いた。しかし師であるナルサスは全くもって悠然と構え、それどころか彼女の出す解を楽しみにしているようにも見えた。

ダリューンとナルサスが会話をしている間も、カナタは二人の様子など気に掛ける様子もなく、やはり神妙な面持ちで地図を眺めているのみだった。カーラーンの部下は徒歩で山を下りた、というエラムからの報告を受け、ようやくカナタは地図に印を書き入れ、これから辿る予定の道筋を、何の迷いもなく一筋の線で描いた。

「どうやら整ったようだな、カナタ。こちらに来てそのまま話を聞かせてくれ」
「お時間を頂戴し、誠に恐縮です。では、これからの動きを私からお話いたします」

剣の手入れをしていたダリューン、不安げに眉尻を下げていたアルスラーン、両人はカナタの話とはどんなものだろうかと興味深げに近くに寄った。色分けして印を付けられた地図を見れば、それは到底年端もいかぬ少女がつけたとは思えぬほど、しっかりとした戦略図になっているように見えた。

「まずは、一旦彼らは徒歩で山を下りたということでしたから、今日中に麓へ着くのは難しいでしょう」
「熊や狼に出会わぬとよいがな」

ダリューンは本心からそう思わぬような口調でそう言ってのける。

「我々が今すぐに山を下りても無駄にカーラーンの兵と戦うことになりましょう。ダリューンさまの人並みならぬ強さは予てより耳にしておりますが、今後のことを考えると温存できるものは温存しておきたい、というのが私の考えでございます」
「殿下も気の休まらぬままでしょう。しっかりと計画を立て、最小限の消耗で包囲網を突破できる状態が整うまで、この洞窟にこもってやり過ごしましょう」
「わかった。しかし、どのようにして包囲網を突破するのだ?」

カナタとナルサスが続けて方針を述べる最中、やや強張った面持ちを見せ始めたアルスラーンだったが、緊張に飲まれそうになりながらもしっかりと理解を及ばせているようだった。

「そうですね…これは先生に初歩として教えていただいたことですが、まずは『自分たちの望む場所に敵の兵力を集中させることが、戦法というものの第一歩』です。難しそうに見えますが、これはよく知る土地であれば誰でもできることです」

アルスラーン殿下は興味深げに頷いた。カナタは話を続ける。

「恐れながら殿下。もしも殿下が私たちと敵対する将だとしたら、この中で一番に誰を狙いますか?」
「それは、恐らくカナタ。そなたを狙うのではないだろうか」
「そうですね、当然の選択です。私を狙うのは何故でしょうか」
「そなたは女子であるし…、見た目には戦いに秀でているようには見えないから、だろうか」
「左様です。一対一の戦闘であればそうやって、相手を選ぶことも、それに合わせてこちらの戦力を変えることもできるでしょう。しかし知略というものは、最も優秀で武勲に優れた者が実行しても、最も無能で無力な者が実行したとしても、結果の変わらぬものでなければならぬ…と私は考えます。そして、結果としてその両者が等しく生き残ることが、策士の在るべき理由というものです」

すっかりカナタの話に引き込まれていくアルスラーンの様子を見て、ダリューンはいつのまにか剣を研ぐ手を止めていた。

「カナタの申す通りですな。いかに武勇があろうとも無理せず、それを使いきる前に勝利をおさめることが戦法の価値です」
「ダリューンは私のために大軍の中を突破してくれたが?」
「あれは個人の勇です」
「ダリューンさまのような勇者は千人に一人もおりません、殿下。だからこそ価値があるわけで、軍の指揮官たるものは最も弱い兵士を基準として、それでも勝つように策を練らねばなりません」
「これが一国の王者ともなれば、最も無能な指揮者でも敵軍に負けぬよう方策をめぐらすべきなのです。申し上げにくいことながら、兵の強さに溺れて敵をあなどり戦法を軽んじた時…… ひとたび事態が狂えばどうなるかはアトロパテネで経験なさったことでしょう」

二人の言葉に顔の筋肉を緊張させながらも、アルスラーンは意識を一心に集中させてその会話についていこうとしていた。ナルサスとその弟子が滔々と語る様子を見てエラムとダリューンは、ナルサスはこの機に然るべきして世捨て人を辞めたのだと満足気にお互いを見やった。その様子を怪訝に思ったのか、一瞬ナルサスは眉を顰めてなんだと呟いたが、ダリューンの気にせず続けてくれという言葉で再び彼の持説を展開した。

「アンドラゴラス王は敗北を知らぬお方でした。そしてその自負が”なんでも戦いで解決しようとする政治に無関心な王”を生み出してしまったのです。
貴方がそのような意味においてアンドラゴラス王の後継者たらんと思われるのであれば、私は宮廷画家の地位をいつでも捨てますぞ、アルスラーン殿下」
「うむ。肝に銘じておく」

あまりの緊張からか額に汗を浮かべ、それでも瞳に宿った炎を決して揺らさぬままアルスラーンはそう答えた。その様子を見るナルサスの瞳は、炎によって温められたような優しい色をしていた。

「それでは殿下。これからの作戦ですが…まず、動き出すのは」

そこからはカナタが、カーラーンの包囲網を突破するための作戦を説明した。単純な策ではあったが、先程話した通り最低限の消耗で敵を突破するには最善の策のように思われるその内容に、アルスラーンはもちろんダリューンとエラムにも感心の声をあげさせた。ナルサスは何も言わずその場で満足気に頷き、ダリューンには万が一カーラーンに出くわしても命を奪わぬように、とだけ釘を刺した。