007/試練

「お待ちください!」

声を挙げたのはカナタだった。一片にその場の視線が自分に集まるのを感じ、その中でも特段ナルサスの瞳を強く見つめて言葉を続けた。

「当然、私とエラムも連れて行っていただけるのでしょう?」
「うむ……そのことだが」

ナルサスはしばし自分の顎に手をあてた後、ゆっくりと言葉を選ぶように話し出す。

「『ギラン』の港町に知人がいる。お前たちはそこに預けるつもりなのだが…」
「えっ?!」
「そう揃いも揃って驚くな。そいつは商船主でな。もしルシタニアが侵攻して来ても海上に逃げられるし、さらに異国に渡ることもできる。手紙をしたためておく。旅費と生活費も渡しておくからそこへ…」
「いやでございます!」

先にきっぱりと拒否の声を出したのはエラムだった。エラムはナルサスに大恩があると熱弁し、ダリューンからもその気配りや、弓や短剣の扱いに関しても役に立つのではないかと言われる。エラムを置いていっては今後の食事に関しても不安が残るとの一言があり、エラムを連れていくことに関して一同に反対意見はなくなっていた。

「先生!では私も…」
「待て、カナタ…。やはりお前を連れて行くわけには…いやしかし、あの男の元へ一人でやらせるのもだな…ううむ……」

先程の思い切りのいい提案から打って変わって、ナルサスは深刻な面持ちでカナタをどうするのか悩んでいた。

「カナタは弟子だと言ったが、これからの旅の最中にナルサスに創作を存分にさせてやれるとは思えん。アテがあるのであれば、カナタだけでもその知人とやらに預けたほうが良いのではないか?」
「ダリューン…それはそうなのだが」
「ナルサスさまはカナタさまを一人でどこかにやるということに耐えられないだけなので、ご心配なさらず、ダリューンさま」

エラムが冷静にそう言い放つあたり、恐らく日常的なやり取りの一つなのだろう。
ナルサスはカナタが芸術において己の弟子をしている訳ではないと言うこともできず、言葉を選びあぐねていた。

「ナルサス、それは杞憂というものでは…カナタは自立した立派な女性だと、私は思うが…」
「ぬう…しかし殿下。カナタは年頃の娘なのです!港町は確かに景気がよく、先程お伝えしたようにいざという時にも逃げる手段はありますが、万が一に他国の富豪の目にとまって求婚されたりしたらどうするのです!このナルサス、その輩のことを地獄まで追い回さずにいられる保証なぞ到底できませぬ!」
「ナ…ナルサス?それは、たしかに大変なことだ…」

あまりの剣幕にアルスラーンは冷静な判断を失ってしまい、あやふやに相槌を打つことしかままならない。

「殿下、お見苦しい姿を見せてしまい、申し訳ありません。ナルサスさまは、カナタさまに関してはかなりというか、度を越して過保護なところがありまして」
「先ほどはギランに預けると提案をしたくせに、おかしな奴だな」
「あれは!エラムと二人であれば安心だと思って言ったのだ。カナタ一人ではいくら知人といえど任せることは…」

狼狽するナルサスを見て、カナタはそっとひとつ溜息をつくと、次のように提案をした。それは師であるナルサスに向けてではなく、他でもないアルスラーンに膝をついての申し出だった。

「アルスラーン殿下。私から一つ提案がございます」
「どうしたのだ、カナタ」

突然の申し出に驚きながらも、アルスラーンはその目の奥に固い決意のようなものを感じていた。自分の申し出に対してあくまで真摯な態度で向き合うその姿に、カナタはナルサスがいつか話していた『君主の度量』という言葉をぼんやり思い出していた。

「実は…私は、ナルサス先生の下で予てから芸術の修行ではなく、兵法の修行をしているのです」
「カナタ、一体何を…」

これまで殿下に率直にお伝えすることができず、申し訳ございませんでしたと深々と頭を垂れるその様子は、師であるナルサスの許可も得ずに自分の情報を勝手に打ち明けてしまった謝罪をしているようでもあった。
しかしカナタは、他でもないナルサス以外のところでこの世界を過ごすことを望まなかった。そのための切り札になるのは、自分の知恵くらいのものだと思ったのだ。
案の定ナルサスの瞳は大きく見開かれ、カナタの言葉を止めに入ろうともしたが、ダリューンが何も言わずそれを静止した。彼はナルサスがこの少女に兵法を自ら仕込んでいたと知るや否や、旧知の友がただの世捨て人などにはなれるはずがないとそこでやはり確信し、仄かな充足を感じていた。
そしてどうせならこのままカナタに全てを語ってもらうほうがいいだろうと判断したのだ。

「旅のお供というのであれば、エラムほどではありませんが弓も剣も扱えます。しかしながら、私を連れて行ってくだされば、僭越ながら、先生からお教えいただいた兵法を以てしてお役に立てるのではないかと存じ上げます。
どうか、この山から出る策を私めに講じさせてはいただけませんか?」

策を講じるとは一体どういうことか、とアルスラーンはカナタの様子を唖然とした表情で見ていたが、事を理解するのにそこまで時間はかからなかった。要はカーラーンの部下の包囲網から逃れる術を考え、自分が足手まといにならないということを証明して見せたいという申し出なのだ。

「わかった。そこまで言うのであれば、おぬしに任せたいと思う。ダリューン、ナルサス、良いだろうか」
「一人でも仲間が多い方が心強いのではないかと思いますぞ、殿下。エラムもカナタの弓や剣の腕に関しては問題ないと申しているようですし」
「…殿下のお気持ちが決まっているようであれば、私から申し上げることはございません」

申し上げることはないと言いつつ、言いたいことは山ほどありそうな表情のナルサスであったが、流石にその場では潔く身を引いた。そうとなれば、カナタは手早くエラムに身支度を整えること、近くの洞窟へ馬を移動させることを指示し、殿下とダリューンには自らが案内人となって洞窟へと導いた。