009/少女

その晩、一行は洞窟の中で交代で見張りを立てながら眠ることになった。夜更けまでをダリューンとエラムが、夜明けまでをナルサスとカナタがという風に、火の番と見回りを行うことに決まる。夜更け過ぎになり見張りを交代すると、ナルサスは辺りを見てくる、と洞窟から出ていき、数分後には再び姿を見せた。

「戻ったぞ、カナタ」
「先生。辺りはどうでしたか?」
「人の気配はない。この暗闇で慣れぬ土地を探し回るほど、カーラーンの奴は阿呆ではないようだな」

隣に腰を下ろしたナルサスに、カナタは焚き火で温まった飲み物を注いで渡す。小さく礼を言うと、ナルサスはそれに口を付けようとする。しかし隣にいる弟子がいたずらげに「冷ましましょうか?」と、息を吹きかけて冷ます素振りをしながら口を出すので、思わずむせ返ってしまった。

「すみません、そんなに驚かすつもりはなかったんですが」
「いや…大丈夫だ」

申し訳なさそうにするその表情を見て、ナルサスは数年前に『異世界から』やってきたという少女が、随分成長したものだなと感じていた。エラムのことはそれこそ幼少の頃から見てきたし、あれはあれで一人前になったと感じることも多い。しかしながら、自分を師と呼び尊敬の眼差しを向けていたあのあどけない少女が、ほんの数年でこんなにも大人に近づいてしまうのかと思うと、何やら違う感傷が呼び覚まされそうになる。これは何と呼ぶべきなのだろう、近いものなら父性になるのだろうか。しかし父性というにはちと生々しい。
しかし年少者にこんな風に狼狽えさせられるばかりなのも、些か面白くない。ナルサスは勝手に、何か仕返しをしてやろう、と企んでいた。ふとこれからの旅のことを考えると、これまであの辺境の山小屋で過ごしていたばかりのカナタが、初めて広い世界へ飛び出していくことになる。そう思うとこの───ダリューンに言わせれば『上玉』という───見る人によっては既に一人の女性と見られてもおかしくないカナタに、文字通り下心を持って接してくる輩とも出会わないとはいえないだろう。
己の気持ちを満たすための悪戯ではありながら、これからの旅であり得ては困るその事態への備えと言い聞かせ、ナルサスは眠りについている仲間に聞こえぬよう、そっとカナタに声を掛けた。

「どうかしましたか?先生」
「カナタ、おぬしにまだ大事なことを伝えていなかった。これから先の旅で、もしかするとおぬしのことを利用しようと、手を出してくる輩が出て来るかもしれぬ」
「確かに…。戦略的に、相手の手の内に入り込もうと思えば、敵陣の女人を誑かすというのは古来からある方法です。して、先生はどのような心構えで対処するべきとお考えですか?」
「こういうものは、考えが何通りあってもそのときに実行できねば意味がない。例えばこのように───」

カナタが声を上げる隙もないほど見事な速さで、ナルサスはカナタの手首を掴み、肩を押し、その華奢な身体を組み敷いた。彼の流れるような蜂蜜色の髪が、はらりと一房、彼女の首元に溢れる。身動きが取れなくなってしまうのは、ただ単に身体が拘束されているからではない───カナタは目の前の、透き通るような、それでいて奥に底知れぬ星空を感じさせるアメシスト色の瞳に、正に吸い込まれそうという表現がぴったりだとそう思った。

「敵に身動きを封じられてしまったとき、お前ならどう対処できる?」

自分の瞳を覗くだけで奪っていきそうなその眼差しに、得体の知れない居心地の悪さを感じ、身を捻ろうとするもナルサスの胴体は数センチの距離で自分に寄り添っており、うまくいかない。なんとか視線から逃れられる方法は、首を少し左右に向けるくらいなものだった。

「私は、なかなかこのような経験がないものですから…どのように、かわせばよいのか」

予想以上にたじろぐ様子の弟子を見て、ナルサスはいい仕返しになった、と内心頬を緩めた。どれ、もう少しからかってやろう───そう思い、左に顔を背けたことで露わになったカナタの耳に囁きかける。

「それはいけないな…。師匠として、カナタの体にしっかり教えてやらねばならぬ」

わざと紛らわしいような言葉を選ぶのは、弟子の困った顔が見たいという困った師匠の勝手だった。しかしながら、日頃から師として敬うべき対象ではあっても、こうも唐突に体が密着することなど経験のなかったカナタには、ただただ混乱と羞恥を与えるばかりであった。何故ナルサスがいきなりにそんなことを言い出すのか、頭の中を彼の言葉が駆け巡り、耳にかかる熱い吐息のせいで何も考えられなくなる。

「私は…」
「ん?どうした」

やっとのことで声を振り絞るカナタだったが、もはや論理的に反論できるような思考状態ではなかった。ナルサスはその姿を見て、少しやり過ぎたか、と反省し、密着させていた体を離そうと肘を伸ばす。

「先生にこのようなことをされても、拒否できそうにありませんから…もう少し別の方法でご教示いただけると」

助かります、と。そう弱々しく吐き出したカナタの頬はひどく紅潮していた。
恐らく、焚き火にあたったせいではないだろうその表情を見て、ナルサスもまた己の頬を急に炎に炙られたかのように感じた。肘を伸ばした勢いでそのまま体を起こし、彼女の様子が見えないようにすかさず後ろを向いて座り込む。
カナタはようやく開放されたことに安堵しつつ、体の火照りをごまかすようにわざと焚き火に掌を当てているような素振りをした。そうしてお互いに目を合わさぬまま、二人の夜は明けていくのであった。