006/忠誠

「ナルサス様。朝食の用意ができておりますが、いかがいたしましょう」
「や、忘れていた。まずは腹ごしらえといこう」

すっかり重くなった空気を切り裂いたのはエラムの一言だった。これはこれで、彼なりの気遣いだった。用意された朝食をいつも通りに頬張るナルサスとカナタ、そしてその横であまり食が進まぬといった様子のアルスラーンとダリューン。
なかなか皿の空かない二人を見かねてエラムは何か他に料理を作ることを提案するが、どうやら味の問題ではないらしく、ダリューンはそれを丁寧に断った。アルスラーン殿下は食事の最中にも、俯いてヴァフリーズのことを考えている様子だった。途中、なんとかして這い上がってきたカーラーンの部下にナルサスが皿を飛ばすことがあったが、エラムに皿を粗末にしないでくださいと叱られてしまうのみで、一行は彼らのことについては何も触れなかった。

「エラム、こいつに何かをしてやる必要はないぞ。この悪党のおかげで新しい隠れ家を探さなくてはならないのだからな」
「だから世捨て人などやめて、殿下にお仕えすればよい」
「だまれ裏切り者!俺は平和と芸術に生きたいのだ!」
「ナルサス、私からも頼む。ダリューンと共に私を助けてくれ」
「ありがたいお言葉ですが……」

ナルサスの返答は依然変わらない。

「ではこうしよう。私はおぬしの忠誠を求める代わりにおぬしに十分な代償を支払う」
「『代償』…父王のように金貨でもくださると?」
「いや、金でおぬしの忠誠心が買えるとは思わぬ」
「すると地位ですか。宰相とか」

金銭や地位を理由に己の器量を求められるのにはとんと嫌気がさした、と言わんばかりにナルサスは面倒そうに相槌を打っていた。

「そうではない。私がルシタニアを追い払い、パルスの国王となったあかつきには───」

殿下の表情が変わった、とその場で気付いたのはカナタだけだったかもしれない。何かを見据えたような、覚悟したような表情だった。

「ナルサス卿。おぬしを宮廷画家としてむかえよう」

エラムにダリューン、それに当のナルサスまでもが、鳩が豆鉄砲を食らったような表情でしばし硬直した。硬直の後に、ナルサスは面白くてたまらない、といった表情を隠すようにひとりごちて「気に入った、なかなかどうして…」と呟いた。

「どうだ、聞いたかダリューン!殿下のこの君主としての度量!」

これほどまでに楽しげなナルサスを見るのは久しぶりだ、とカナタは呑気にもそんなことを考えていた。

「芸術に縁のないみじめなお前と心性の豊かさにおいて雲泥の差!」
「放っておいてもらおう。どうせみじめならせめてお前の芸術とくらいは無縁でいたい」

呆気にとられていたエラムも、この辺りでようやく正気を取り戻したようであった。

「殿下!ナルサスを宮廷画家になさるなど、パルスの文化史上に汚点を残すことになりますぞ!ただでさえ弟子など取ってでかい面をしておりますが、昨日殿下も見たでしょう!こやつの絵を!」
「いいではないか。ダリューン。私は、ルシタニアの高名な画家に死に顔を描かれるより、ナルサスに生きた姿を描いてもらいたい。おぬしもそうだろう?」

殿下の発言にナルサスはうっとりとして拍手を送っていた。

「殿下。ダリューンは死ぬのも嫌だが私に肖像を描かれるのも嫌というところらしゅうございますな。これだけでも私としてはお引き受けしたいところですが……」

先程までの浮かれきった顔はどこへやら、一瞬にして周囲の空気を張り詰めさせると、ナルサスは再び口を開く。

「ルシタニア軍に国土を踏みにじられるのを傍観している訳にはいきませんな」

自分が殿下に力を貸すこと、それは即ちアンドラゴラス陛下の不興をこれまで以上に殿下が背負うことになる覚悟を必要とすることでもある、とナルサスは改めて殿下の決意を問うた。それに対してアルスラーン殿下は、これまでに見せたことがないくらい強い瞳で無論だと答える。その瞳には少年の弱さも、敗戦の惨めさもない。ただ己のやるべきことを見据えたばかりのひたむきさと強さが宿っているだけであった。

「わかりました。このナルサス、アルスラーン殿下にお仕えいたします」

ナルサスが膝をついている姿など、一体いつぶりなんだろうか。カナタとエラムは顔を見合わせて、すぐにでも旅の準備をせねばと思惑を巡らせる。しかしその前に、彼らの師であり主でもあるナルサスの許可を得る必要もあろう。