005/転機

翌朝、小鳥の囀る声に目を覚ましたアルスラーンは、昨日のことがまだ信じきれないような心地で床を出た。ベッドの傍らには一人分の寝具がまとめられており、もしかするとダリューンが先刻までいたのかもしれない。部屋を出れば台所からふわりといい香りが漂っており、覗きにいけばそこにはエラムが一人で朝食の支度をしていた。

「エラム…」
「おはようございます殿下」
「………何か、手伝うことは…」
「ありません」

エラムの態度は冷たい。しかし、それは理由なきものではない。エラムが仕えるべき主人はナルサスであって、アルスラーンではない。そのナルサスが満ち足りたと考えている生活をしているところへ、いわば厄介事が転がり込んできたようなものだ。アルスラーンとて、それを全く肌で感じないわけではない。しかし、殿下の人柄ゆえか、彼はそのままエラムに話しかけ続けた。

「手慣れたものだな。私にはとても…」
「長いこと、ナルサス様に仕えておりますから」

やはりかぶせ気味に会話を終わらせようとするエラムであったが、少々の沈黙が続いた後、更に殿下は口を開く。

「エラムの両親は、奴隷から開放された………だったか」
「はい。ダイラムの領主 テオス様がお亡くなりになり、息子のナルサス様が相続なされた時です。全ての奴隷を開放し、自由民にしてくださいました。おかげであの三か国同盟が攻め込んできた時も手持ちの兵が少なすぎて…アンドラゴラス王を呆れさせたそうですよ」

もう出来上がりに近づいているスープの様子から片時も目を離さず、エラムは素っ気なく答えていた。その匂いを嗅ぎつけてなのか、勝手口から。カナタが姿を現す。

「エラム、おはよう。今日の朝ごはん何?あ、殿下もいらっしゃったのですね。おはようございます。昨夜はよく眠れましたか?」
「カナタ…おはよう」

昨日見た姿とは些か印象の違う、砕けた口調でエラムに話しかけるカナタの様子を見て、殿下は驚きつつも少し安心したような心地になった。

「おはようございます。今日は鶏肉のシチューにひよこ豆のサラダ、いつもの付け合せに薄パンと山菜の炒めものです」
「ありがとう。…どうなさいました?殿下」
「……エラムよ、やはり奴隷は開放すべきなのだろうか?」

殿下が発した言葉は、昨日の今日でまだ戸惑っているように見えて、後押しをしてほしいような不安定さも垣間見えるような声色だった。エラムはようやくそこで殿下の表情を見るが、すぐさま視線を鍋に移し、再度冷たい声色で「ご自分でお考えなさいませ」と言い放つのだった。

エラムの気持ちも理解できぬわけではないが、気落ちした様子の殿下を見ているのも忍びない、と。カナタは殿下に一声かけ、やんわりと食卓に誘導していった。

「すまない、カナタ…」
「殿下が謝ることではありません。エラムはあれで、警戒心の強いところがありますから、殿下にだけ特別というわけではないのですよ」
「そうか」
「それより…殿下。馬蹄の音がします。先生から合図があるまで、そこの部屋に入って梯子を上がった先へ。屋根裏へ通じています」

カナタはそう言うや否や、ナルサスの元に向かった。ダリューンと共に窓の外を見ていたナルサスにそのことを報告すれば、まさに視線の先には馬を連れた男たちが現れたところだった。

「見覚えがある。カーラーンの部下だ」
「ほう」
「お前を探してここへ来るとはいい読みをしている。カーラーンはよく部下をしつけている…」

そう言い掛けたところでナルサスの思考に一片、何かが落とされた。隠匿の身であるナルサスの居場所を知るものは確かに一定数いる。しかしただのカーラーンの部下が、昨日の今日でそう簡単に自分の居場所を探し出せるものだろうか。

「今まで聞くのを忘れていたが、ダリューン。お前ここへ来るのにどの道をたどって来た?」

どうやら我が師はまんまとダリューンの策にはまったらしい、とカナタは横目でナルサスの表情をうかがった。ダリューンはわざとカーラーンの城の前を通り、ここへやってきたのだ。カナタは師の焦る様子を見ながら、珍しいものが見れた、と不謹慎ながら心を弾ませていた。
どうやら旧知の仲であるというこの黒衣の騎士は、凡庸な武将と異なり知略にもある程度秀でているようだった。相手がナルサスだからより陰険なやり方を思いつくのだと言われても納得の仲でもあるが。

一時屋根裏に二人を避難させると、ナルサスはカナタにあることをするよう言い伝えた。やってきたカーラーンの部下たちの停めた馬に話しかけるようにということだった。カナタは言われたとおり、屋根裏から天井に登り、カーラーンの部下が屋内に入るのを見届けて、馬の様子を見に行った。

室内ではもう既に、ナルサスがカーラーンの部下を床下に喜々として落としているかもしれない。そんなことを考えながら、建物の周辺に関して熟知しているカナタは、カーラーンの部下が連れてきた馬たちのところへ足早に向かった。我が師はあの王太子殿下についていくとはやはり言わないだろう。しかしカナタとしては、アトロパテネというこの国の危機になりうる戦から、あの殿下が何か吉兆を見出すのではないかとひっそり期待もしていた。もちろん、何の根拠もないことだが。

カナタが話しかけると、馬たちはよく人に馴れていることもあり、嬉しそうに鼻を鳴らした。手で髪を梳いてやれば気持ちよさそうに目を細めている。馬に話しかける、という何やらよく分からぬ任務だが、カナタはその意図を理解していた。自分がこの世界に来たときに身に着けた『ありとあやゆる言語を理解し扱う能力』というのは、ナルサスが言うには実は馬にも通じるらしかった。
馬語と表現するのが適切か分からないが、確かにカナタが話しかけると馬は嬉しそうにするし、気性の荒い馬でもおおよそ自分を乗せて走ってくれる。そういうことで自分自身馬語というのがどんな響きかは分からないが、それを使えるということには違いないようだった。カーラーンの馬を自分に手懐けておいて何に活用するのかは不明だったが、無事任務を終えた後は建物に戻り、窓の外から様子をうかがった。

「我らが大将軍カーラーン公は、ナルサス卿を麾下に加えたくお考えでござる。貴公の知略に加え剣名もまた一流と高く評価しておられるのですが…」
「ふむ……もし私がカーラーン公の麾下となったあかつきには何を保障してくださるのかな?」

教わっている間にももちろん感じていたことではあるが、我が師は随分と高く評価されているらしい。カナタは室内で行われているやり取りを見ながら、自分の師が外部の者と接している姿を目に焼き付けていた。イアルダボート教の信徒としての権利、ダイラムの領主権の回復、そんなものでナルサスの心が動くとは思えないが、この世界での地位や権力というものは概ねそういうものなのだろう。

「ご返答はいかに?」
「この場で返答せねばならぬかな?」
「ぜひとも!」

「では、帰ってカーラーンの犬めに伝えてもらおう!腐肉は一人で喰え!ナルサスには不味すぎるとな!!」
「貴様っ…」

言うが早いか飛び出すが早いか、カーラーンの部下たちは見事なまでに部屋の中央の落とし穴にはまっていった。カナタはそれを見届けると部屋に入り、隠れていた殿下とダリューンが降りられるように梯子を用意する。ナルサスは穴に落ちた彼らを見て、どう役に立ててやろうか、と楽しげに言い放っていた。しかしそんなナルサスを横目に、ダリューンは殺気を飛ばし、殿下はすっかり落ち込んだ表情をしている。
ヴァフリーズの死は、二人にとっては唐突に齎されるにしては大きすぎる訃報だった。それが生むべきは怒りか悲しみか、どちらの色に濃く染まるかは分からないが、その大きさは計り知れないものだということに違いはなかった。