037/帰還

カナタが国境付近に突如出没したチュルク軍を倒して帰ってくる―――その話は一人の兵によってペシャワール城にもたらされると、瞬く間に城中を駆け巡った。当然、アルスラーンを筆頭に彼女の仲間たちはその報せを聞いて各々に喜びと安堵の表情を浮かべた。当初の予定よりも半日遅れて、彼女は九十九名の兵を引き連れてペシャワール城の門をくぐった。

「アルスラーン王太子殿下。万騎長補佐、カナタ。殿下に命じられし任務より、ただいま帰還いたしました」
「カナタ、よく無事で戻った。それに同行した兵も、合わせて百名よくぞ無事であった」

アルスラーンの側にはダリューンとキシュワードが控え、右側に視線を移せばファランギース、ギーヴ、ジャスワント、エラム、そしてナルサス。全員が喜びと賞賛をたたえた瞳で、カナタを見ていた。わずか百騎の兵で千騎の敵を退け、そして自らの手で敵将を討ち取ったことは高く評価され、カナタには褒賞が与えられた。もちろん同行した兵たちにもである。その日の夜には大規模な祝宴が催されることになり、ペシャワール城は久々に人々の熱気に包まれた。

カナタは甲冑を脱ぎ、すぐに身を清めると馬小屋に赴いた。彼女が他でもない功績者と認めるシャーナズに会うためだった。シャーナズは今やカナタを主と認めているのか、その姿を見ると貫禄のある声で嘶いてみせた。カナタは林檎を小さく切って蜂蜜をかけたものが入った木桶を、シャーナズの口元に近づけてやる。

「シャーナズ、昨日はありがとうございました。あの時敵将の一撃を貴方がかわしてくれなければ、短剣を使った策はうまくいきませんでした」
「おや、シャーナズ。おぬしカナタから良いものをもらっているな」
「キシュワードさま」
「カナタ、ご苦労であったな。まさかチュルク軍と出会うとは予想だにせぬことであったが、戻ってきた兵たちが興奮冷めやらぬ様子でおぬしの策のことを話しておったよ」
「そうでしたか、何やら嬉しいような恥ずかしいような、複雑な気持ちです」
「それにしてもおぬしが不在の間、ナルサス卿が落ち着かなさそうにしておったぞ。行って差し上げなくていいのか」
「先生がですか?…いけない。私、出立の前にやり残したこと、戻ってきたらすぐ取り掛かると伝えていたんでした。それが滞っていてご迷惑をかけたかもしれません」

失礼いたします、と早口で言って立ち去ろうとするカナタの髪の毛にシャーナズが口を近づけたが、カナタの腕に押し返されてしまった。また来ますから、と小さく呟いて去っていく彼女の後ろ姿を見送って、キシュワードは「お互いに意識していないわけではないと思うのだが、おぬしはどう思う?」とシャーナズに問いかける。歴戦の黒馬は何も言わず、目の前の桶の林檎に口をつけた。

カナタが走って執務室に入れば、そこにはいつも通りの位置にナルサスとエラムが座っている。息を切らして扉を開けた彼女の姿に二人して驚くが、何事かとナルサスが問いかけた。

「申し訳ありません、出立前に用水路の図面を途中にしたまま、戻ってきたらやるとお伝えしていたのにすっかり忘れていました!」
「それなら、私が目を通して専門の者に製図を依頼しておきましたよ」
「ええ?エラムが?本当に?キシュワードさまから、私が不在の間に先生が落ち着かない様子だったと聞いて飛んで来たんだけど…」

そう聞いて急いで来たのに、カナタの思うところの問題は既に解決しているようだった。何か別の問題があったのかと、カナタは改めて師に問いかける。ナルサスは慌てているその様子がおかしいのか、小さく息を吐き出して彼女に椅子を勧めた。

「まずは落ち着け、カナタ。エラム、茶でも淹れてやれ」
「かしこまりました。お疲れでしょうから座っていてくださいね、カナタさま」

エラムも内心微笑んで一旦部屋を出て行く。カナタは椅子に座るや否や、自分が不在の間の進捗をナルサスに確認した。当初の予定通りにやるべきことは片付いているようで、彼女はほっと胸を撫で下ろした。

「不在の間に大きなご迷惑を掛けなかったようで、安心しました」
「元々三日間はいない予定で立てていたのだ、特に大きなことは起きんさ。最もカナタ、お前の方は大きなことが起きたようだったな」
「チュルク軍を見つけた時はどうしようかと焦りましたが、兵たちの協力もあって、皆無事に戻ってこられました」
「お前が自分のやり方で武勲を上げたこと、師として誇りに思う。よくがんばったな、我が弟子よ」
「はい!先生!」
「…ところでどうやら、チュルク軍に勝利した名軍師の話を直接聞きたいと集まっている者がいるようだ。エラム、入ってこい」

ナルサスのその言葉に、扉の前にいた面々はぎくりと肩を震わせながら、緑茶を淹れて戻ってきたエラムの後ろからそれぞれの表情で部屋を覗き込んでいた。アルスラーンをはじめ、彼女の仲間というべき六人はその後、執務室でカナタの指が羊皮紙の上を行き来するのを眺め、彼女の策に見事だと歓心を寄せた。

その夜の祝宴はペシャワール城の広間で行われ、多くの兵たちが好き好きに酒を飲み、食べ物を食べた。酒は葡萄酒だけではなく、麦酒や蜂蜜酒なども用意されていた。カナタはなんといっても今夜の主役だ。宴が始まるや否やひっきりなしに彼女の元には兵士たちが訪れ、共に出兵した兵たちは喜びの声を伝えたし、城にいた兵たちはどんな策を用いたのかを直接聞きたがったりした。また、次に出兵するときには是非とも自分を!とカナタに売り込む者もいた。そんな彼女の元へ、パルス軍の兵から女神と崇められているファランギースが歩み寄ると、周囲からはわっと歓喜の声が上がる。

「カナタ、珍しく酒を飲んでおるようじゃの」
「なんだか皆の熱気にあてられたのか、楽しくなってきて、お酒が飲みたいなって思ったの。蜂蜜酒だけどね」
「今宵は何と言ってもおぬしが一番の功績者なのじゃ、好きなだけ飲むといい。良い気持ちで飲む酒はどんな美酒よりも格別な味がするし…もしおぬしが酔ってしまったら、私が部屋まで連れて行こう」
「いつかのときみたいに?」
「さよう、いつかのときのようにな」

そうして笑いあって、二人は静けさを求めてテラスに出る。広間の賑やかさが遠くに聞こえるそこで、夜風に当たりながら酒坏を交わした。春にはまだ早いが、火照った頬を掠める冷気を孕んだ風が心地良い。

「そういえばおぬし、ここから少し離れたところに浴場ができたのは知っておろうな」
「完成したのは知らなかった。あれは先生と私で考えた、自由民の汗を流すために作った浴場です」
「なんと、カナタが考えたのか。夜空に瞬く星々を眺めながら入浴ができる、あれはよいものじゃ」
「えっ、ファランギース、もしかして入ったの?」
「夜更けに行って、入り口にキシュワード卿から借りた鍵をかけてな。私はまだ鍵をもっておるゆえ、おぬしにも貸してやろう。自分の考えたものがどうなったか見に行ってみるがいい」

キシュワード卿には私からそのように伝えよう、と言い、ファランギースは浴場の鍵をカナタに渡すとその場を去った。温泉、という文字が頭の中を駆け巡り、結局好奇心を抑えきれず、カナタはそっと宴会場を抜け出して浴場施設に向かった。

浴場は高い壁に囲まれ、重厚な鉄の扉を開けて入るようになっていた。ファランギースから借りた鍵を使って中に入ると、カナタはその奥から漂う温泉の匂いに、居ても立っても居られずに服を脱いだ。脱衣所を作るように指示はしていたが、そういえば脱いだ衣服をどうするかを書き忘れた、と思いながら、脱いだ服は持ってきた袋にしまって適当に置いておいた。

ファランギースの言うとおり、夜空には今にも降り注ぎそうなほどの星が浮かび、四方の壁に切り取られたように見えるそれは一層幻想的だった。片足を浸してみると、湯は少し熱く感じる温度だったが、まだ冬を感じさせる空気の中ではかえってそれが体に染み渡るようであった。

しかし体を半分ほど湯に沈めたところで、カナタは何かの気配を感じた。風呂の奥の岩陰に潜むそれを確かめねばと、携えていた短剣を抜いて一歩、また一歩慎重に歩みをすすめる。
一方、岩陰に潜んでいた方も同じようにカナタの気配を感じていた。水面の揺れる音で相手の気配を察知しながら、双方ともに鋭い気迫を保ったまま、相手の姿を確かめようと動く―――どんな相手でも恐れることはない、そう強く剣を握り締めた次の瞬間、カナタの瞳には見知った人物の見たことのない姿が飛び込んできた。

「なっ、あ、先生?!」
「カナタ、お前、なんでここに!」