036/捷利

ペシャワール城の掲示板前に、何やら人だかりができている。兵士たちがこぞって覗くそれは、カナタのチュルク国境近くへの遠征に同行する者を集うという、アルスラーンのサインがなされた正式な書面であった。

「カナタ、どうやら五百人は集まったそうではないか。立派な遠征になりそうだな」
「キシュワードさま。ありがとうございます。しかし実は、百人を超えたところから兵たちには断りを入れたのです」
「どうしてだ、お前には五百人の騎兵を指揮するなど、訳もないだろう。何か理由があってのことか?」
「遠征の日まで時間も少ないですし、五百人となると私もさすがに顔と名前を覚えられません」

なるべく特徴的な人物を選んだ、と話すカナタに、普通ならより多くの兵を引き連れて安全策を取れと言うキシュワードも、その時は目の前の彼女が言うことに豪快に笑い出すほどに信頼を寄せていた。
カナタが遠征に赴くのは、ペシャワール城からチュルク国境付近の警戒という名目だった。最もチュルクはしばらくの間激しい内戦状態の続く国で、彼らが国境を越えペシャワールに攻めてくることは考えにくい。敵と対峙するとすれば、地方の盗賊程度である。カナタが率いる兵の人数を最低限にしたのはそういう理由もあった。

数日後には、シャーナズに跨ったカナタが、百人の騎兵と少しの食糧隊を率いてペシャワール城からチュルク国境に向けて出発した。行程は三日間の予定で、特に何もなく一日目は予定通りに進み、二日目の夜にはトゥラーン国にほど近い、チュルク国境付近に到達していた。途中に盗賊と出くわすこともあったが、カナタは百人の騎兵を巧みに指揮して彼らを退けた。

「隊長、今夜の野営地はいかがなさいますか」
「そうだな…ここから一ファルサング(約五キロ)ほどのところに、小高い丘があります。今夜はそこに留まり、明日早朝にペシャワールへ戻るとしましょう」

兵たちは丘に到着すると、手際よく火を焚き、天幕を張って翌朝に備えた。カナタは何とか瞳を閉じて体を休めようと考えていたが、どうにも自分で思うより緊張しているのか、なかなか寝付くことができずにいた。昨夜はそれでも無理やり瞳を閉じて過ごしたが、二日目ともなればそれも苦痛に思えた。仕方なく体を起こし、何とはなく愛馬の下へ向かう。

「シャーナズ、起きていたんですね。私が眠れないのを見抜いていたのでしょうか」

優しく声を掛けると、シャーナズは嘶いて首を左右に振った。その場で足踏みをするような様子で、どうにも落ち着かないようだった。カナタはいつもと違うシャーナズの様子を不穏に思い、ふと横にいた馬の様子を見る。かつてカナタを乗せたことのある若くて逞しいその馬も、何度もカナタの顔を見て嘶いては前脚を上げた。

何か起こっているのではないか。カナタは駆け出して、丘の高いところから辺りを見渡した。目をこらして見れば、チュルクとの国境の方面に、ちらちらと灯りが動いている。全身の血が氷の粒を含んで駆け巡るような感覚に捕らわれ、一刻の猶予もないことを悟った彼女は、すぐさま兵たちを起こし作戦会議を開いた。

「チュルク軍と思しき連中は、こちらに気付いて向かってきています。数は千騎ほど。我々は撤退せずここで戦い、奴らを退けます」
「お待ちください、カナタさま。急ぎペシャワール城へ戻り、キシュワードさまやダリューンさまの持つ大軍で迎え撃つ方がよいのではありませんか」
「そうですね、私もそう思うのですが。ただ…」

カナタは口ごもった。自分の判断で、ここにいる兵を失うかもしれないという重圧が当然のように彼女を襲う。

「お前たちの誰も失わない方法を考えたら、二日走り続けた馬でペシャワールまで戻るより、ここで私の策を投じる方に天秤が勢い良く傾きました。お前たち百人、私は顔も名前も、どんな馬に乗っていてどんな剣を振るうか覚えています。ただ一人欠けたとて、引き返してチュルクと戦争を始めてしまうやもしれません」

どうか我が師匠ナルサス卿の知略を受け継いだ私を信じてくれ、と、カナタは師匠の名前を持ち出すことに些か狡さを感じつつ、今は使えるものは何でも使ってとにかく兵の士気を上げることに専念した。
兵たちは見事に鼓舞され、大声でカナタの名前を叫んだ。実際遠征に同行した兵たちの中には、男ばかりの中に一人飛び込んできたカナタのことを、密かに天使だ癒やしだと崇めているものも少なくなかったので、彼らは部下への愛を感じる彼女の言葉に感銘を受けたようだった。

丘の下には、複数の隘路が合流し、また少し広めの二本の道に別れるような地形が広がっている。カナタは百人の兵士たちをまた十人ずつの小隊に分け、一つずつに指示を出した。大丈夫、相手が千だとして、こちらに策さえあれば七で勝ったではないか、とカーラーンの隊を戦ったときのことを思い出して平静を保った。

一方、丘の上に灯りを認めてこちらへ近付いてきたチュルク軍は、そこに近付くにつれ少しずつ丘から灯りが離れていくのに気付いていた。彼らがその下に着いた時には、いかにもまだそこにいるような風に天幕も松明も残されていたが、チュルク軍はそれを罠だと判断し、代わりに足元に残された馬蹄の跡を辿った。複数の跡が五本の隘路に分かれて進んでおり、馬がようやく四頭か五頭横並びで通れるかという道を進んでいく。およそ二百ずつに分断された彼らを見て、カナタは乾いた唇を舐めた。

「パルスの小賢しい兵どもめ、チュルク国が混乱しているのをいいことに、我が物顔で国境をうろつきよって。このまま全員八つ裂きにして、その首を関所に並べて思い知らせてやる」

チュルク人らしい様々な格好をした兵たちの中で、一際磨き上げられた冑を身に着けた男の姿を認め、カナタはあれが大将だと判断すると静かに兵たちに指示を出す。合図に従い、五本の隘路のうち、敵の将が通っている以外の道には彼らの進行方向から勢いよく水が流された。隘路は入り口と出口の間が沈下した形になっており、敵はわずかにできた水溜まりを前に怯まず進もうとするが、次の瞬間に頭上から飛んできた火矢を見て悟る。

「おい、引き返せ!!これはただの水じゃない、油だ!油が混ざってる!」
「上から岩が来るぞ!!さがるな、進め!!」

前方には火の海、後方からは落石に見舞われ、一瞬にしてチュルク軍は混乱に陥った。ただ一本、水の流されなかった道を進んでいた敵の大将率いる隊も、壁越しに聞こえる兵の叫びを聞いてただ事ではないことを察知するが、既にその退路は岩石によって封じられていた。

「怯むな!敵はこの先にあり!全軍突撃ーーー!!!」

そう言うと無事に残った二百の兵を連れ、敵将は五本の隘路が合流する地点に到達した。そこから道は更に二手に分かれているのだが、一方には数十頭の馬の足跡があり、一方には何もない。暗闇の中でそれを見た敵将は、合流地点でじっくりと考えを巡らせると、何もない方の道を選んだ。

「何度も同じ手を食らうと思うなよ、パルスの愚兵どもめ!」

先程足跡に誘導され騙されたことを苦々しく思いながらも全速力で進むチュルク軍は、やがてその眼前にパルスの旗をとらえた。カナタと二十騎ほどの兵は、チュルク軍から逃げるような格好をして疾走していたが、やがて袋小路になっているところに追い詰められてしまう。ここで言う『追い詰められた』という表現はあくまでチュルク軍から見たものに過ぎないのだが、彼らはそんなことを疑う余地もないと思い込んでいた。

「おいおい、なんだ。その女が大将だっていうのか。パルス人はそんな小娘に兵を率いらせるほどルシタニアにやられちまったのか」
「おや、チュルク人は女だ男だ、と小さなことを気にするのがお好きなのですか。そのうちにチュルク人の中で誰がチュルク人なのかを疑い始めて、国の中で戦争でも始めそうですね」
「減らず口を!どう見てもお前らは追い詰められているんだぞ!たかがそれだけの兵を連れて、どうしようって言うんだ!」
「私がここでどうかしようと思っていたのは、その密度の足りない脳味噌が詰まったあなた方などではなく、国など関係なしに可愛い馬たちだけです」
「馬だと…何を言っているんだ」

カナタの跨るシャーナズが、大きく嘶いてみせた。次の瞬間、突然何かに襲われたように、チュルク軍の馬は膝を折りその場に座り込み始める。痛みや恐れではない、何か気の抜けたように座り込む馬たちは、兵が声を掛けても叩いても立ち上がろうとはしなかった。

「この辺りには、馬に催眠と麻痺の効果を持つ薬草がありまして。さっきあなた方が通った合流地点に、よーくそれを煎じて敷いておきました。馬たちは気化したそれを吸って、今頃気持ちよくなってきたのでしょう。二本の道のどちらかを選びあぐねたのであれば、その間に薬草を食んだかもしれませんね。私は敵を斬るのには慣れましたが、どうにも馬を斬るのは心が痛みます。皆の者、放て!」

すっかり動く気をなくした馬を置いて逃げる者、その場で剣を持って戦おうとする者、どちらも関係なく、崖の上に控えていた兵士たちの狙いをつけた矢の餌食となった。みるみるうちに敵の数は減ったが、カナタはそれでもいよいよここからは、自分の力で何とかするしかない、と、目前にあるかのように見える勝利がまだ数段高いところにあると感じていた。

敵将の跨る馬は彼に檄を飛ばされ走り出した。剣を振りかざして、こちらにやってくる。カナタは周囲の兵に目配せし、自分も剣を構えた。この時あまりは、自分の体が潰れそうな程の息苦しさに襲われ、目の前の光景が殊更ゆっくりと流れていく感覚に陥った。相手の巨体からして、何度も剣を交えるのは好ましくない。カナタは手綱を持っていた左手を離し、太腿に一層力を込めた。

彼女の右手の長剣は、大きく弾かれる。体勢を崩した彼女の頭を横から真っ二つにしようと、敵将の長剣が翻る。しかしあと一寸というところで、シャーナズが急に姿勢を低くし敵の刃をかわした。カナタの頭が二つに割れる代わりに、敵将の首にはカナタの左手が持っていた短剣が、柄まで刺さっていた。落馬するかと思われた彼女の身体は、歴戦の戦馬により何もなかったように体勢を立て直させられていた。

周囲から大きな歓声で包囲され、カナタは勝どきをあげた。