035/親鳥

「カナタ、ここにいる馬を順に撫でていけ」
「ナルサス卿、一体何を…?」

付き添ったキシュワードは訳が分からないと言わんばかりの表情でナルサスを見つめる。カナタは師匠にその場で理由を聞くよりやってみた方が早いか、と、ナルサスに言われた通りに馬たちを一頭ずつ撫でていった。通常であればカナタが撫でればどんな馬でも嬉しそうに嘶いて擦り寄ってくるはずだが、今回は撫でてもカナタから視線を逸したり、牧草を食んだり、首を振って不機嫌そうな声を上げる馬ばかりであった。

「なるほどな。ここにいるのがいつも兵を乗せる馬ということだな」
「そうですね、数日の間に私を乗せてくれた馬もいます」
「してキシュワード殿、あちらの一画にいるのはペシャワールの誇る歴戦の馬、ということでよろしいですな?」

ナルサスは馬小屋の中でも少し離れた一画を指差してそう尋ねる。

「ああ。しかしどの馬も今は戦いに耐えられるほどの体力のない、年の多い馬です。荷を運んだり、馬車を引いたりということが殆どですな。数々の戦で武勲を成し、現役を退いた凄腕の老戦士といったところでしょう」
「俺が思うに、カナタ。若く体力に溢れた馬は、お前の気持ちに圧されてしまうのではないかな」
「キシュワードさまやダリューンさまほどの戦士ならともかく、馬が私の気持ちに圧されるなんてこと、あるでしょうか。これまで旅をしていても、そんなことは一度もありませんでしたよね」
「まぁ、騙されたと思ってそこの馬たちにも同じことをやってみろ。これ以上パルスの若き優秀な戦馬たちに恥をかかせては失礼にあたる」
「はぁ…」

カナタは先程若い馬にしたように、今度はキシュワードに『凄腕の老戦士』と言われた馬たちをまた一頭ずつ撫でていった。すると馬たちはカナタに擦り寄ったり嬉しそうな声を上げたりということこそないものの、撫でられるとじっとカナタの瞳を覗き込むような素振りを見せた。

「キシュワード殿、カナタが馬語を操るという話はご存知でしたかな」
「聞き及んではおりましたが…単に、馬に好かれやすいという類のものと思っておりました」
「恐らくそこの、歴戦の猛者たる馬たちは、カナタの頭の中を覗いているのでしょう。そうして、気にいるか気にいらないか、品定めをしているに違いありません」

何頭目かの馬をカナタの手が撫でようとしたとき、見事な黒毛のその馬は、手が触れる前におもむろに彼女の髪の毛を食んだ。ナルサスが後ろで笑いをこらえながら、どうやらその馬に決まりのようだ、と言う。

「本気ですか?!確かにその馬は歴戦の馬ですが、もう十歳はこえていますぞ」
「馬の一年は人の四年に値すると言うから、人間にすると四十歳。まだまだ働き盛りではありませんか」
「キシュワードさま、この馬に名はありますか?」

すっかりその馬を気に入った様子のナルサスとカナタの様子に負け、キシュワードはその馬の名を告げた。

「その馬はシャーナズと言う。王の誇りという意味の、カナタに引けを取らぬほど勇敢な馬だ」
「ありがとうございます。明日からよろしくお願いします、シャーナズ」

恭しく淑女式のお辞儀をすると、名を呼ばれた馬は顔を上げたカナタの頬をべろりと舐めた。
カナタは馬に食まれた髪を洗うため浴場に向かうと言い、二人と別れた。執務室に戻りながら、ナルサスはキシュワードに先程の出来事について説明をした。

「新しいことを学ぶときは常々なのですが、カナタは限界を超えて全力でそれにのめり込む癖があるのです。恐らく今あれの意識は、キシュワード殿やダリューン卿から一つでも多くのことを吸収すること、そして私の政事や用兵の術についても同じく。そうなるといつもの二倍以上、気力も体力も使わねばなりません。一般的にはそこでどちらかが疎かになったり、一方を後回しにするところですが…どちらも諦めきれない性質で、尚且つ人並みならぬ理想を持っています。高い志を持ったとき、人は自分の持つ力の何倍も高く飛ぶことができる。そういう、並の戦士とはまた違う、異様な情熱を持った者の影響を直に若い馬が受ければ、もしかすると重圧に押し潰されてしまうのではないか、とつまりはそういうことです」

一息で言い切ったナルサスの隣でなるほどなと頷いて見せるキシュワードだったが、正直なところ途中から一つの疑念が頭の中に浮かばずにはおられず、ナルサスの説明の内容が入ってこなくなっていた。その様子に気付かないナルサスは執務室の扉を開け、中に入ろうとしながらも、きっと頭の中を覗いた若い馬たちは混乱しただろうとか、そんな言葉をまだ続けていた。キシュワードはそのまま自分の寝室に向かうつもりであったので、慌てて彼に声を掛ける。はっと我に返ったような表情をして、ナルサスは振り返った。

「失礼した、考え事をするとたまにこういうことがあるのです」
「ナルサス卿も頭を休める暇がないであろうから、仕方のないことでしょう。しかし…」
「どうかなさいましたか?」
「いや、カナタのことを随分大切にしているように見えたが、二人は良き仲なのではござらんか?」
「なっ…キシュワード殿!あれはまだ子供です、そういったことは全く…」
「子供という年齢でもあるまい。それに、あるものを証明するのは簡単ですが、ないというのを証明するのは難しいと言いますな」
「ないものはないと言うしかありませぬ。私にとっては可愛い弟子だというだけです」
「ほう…我が隊には当然ながら若い男どもが多いですから、その返事は正々堂々であれば狙っても構わぬと受け取ってよろしいのであろうか」
「キシュワード殿…勘弁してくだされ」

すっかり反応を見てからかわれていることに気付いたナルサスは、その場で頭を抱えて大きな溜息を吐くしかなかった。

「ははは、おぬしのその珍しい表情に免じて、今日のところは許してしんぜよう。だが、既婚者である俺はいつでも若者の恋を応援しておるぞ!」

心底面白そうに笑うキシュワードの姿を見送ると、ナルサスは自分の机へと戻りながら、また一人いやな味方ができてしまったと呟いてすっかり肩を落とした。

シャーナズという黒馬を愛馬としてから、カナタの騎手としての腕は以前に磨きをかけて上達した。キシュワードやダリューンの指揮を見て学ぶだけではなく、時折は彼らの兵から少数の騎兵を引き連れて偵察や散策を任せられるようになり、彼女はますますそれにやりがいを感じていた。
しかしながら、当然ナルサスの持っている政事や用兵、土地の整備などの仕事も手伝いながらという風ではあったので、明け方出兵の支度をし、昼に戻ってくるとエラムの作ったパンを片手に書類を作り、夕方にはダリューンやキシュワードを見つけて剣の稽古を頼み、暗闇での立ち回りを練習するといってまた馬に跨り、戻ってくると執務室に足を運び、眠気と戦いながらまた書類を作成し、時折そのまま机に伏して寝てしまうこともあった。
とにかく気力と体力を奪う、しかし充実した日々をカナタは送った。ようやくその日々も一月を数えるようになり、その日はなんとか自力で部屋に戻り床についた。カナタが部屋に戻ると間もなくして、アルスラーンがナルサスの執務室を訪れた。

「ナルサス、少し聞きたいことがあるのだが、よいだろうか」
「殿下。ご足労お掛けし申し訳のないことです」
「今日はカナタはおらぬのだな。ダリューンやキシュワードから、最近は彼女の話ばかり聞いているよ」
「我らが万騎長二人のカナタへの評価はいかほどですかな」
「二人とも歴戦の戦士だというのに、すっかり頭を使わされてしまうようで少し困っていたかな。でも、とても嬉しそうであった」
「あれには何か人の脳の中を吸い出してまで学ぼうとするような貪欲さがあります。教える側として何故かそれが癖になる、というのがまた性質が悪いのです」

部屋にエラムもいるせいか、アルスラーンはリラックスした様子でナルサスとの会話を楽しんだ。

「ところでナルサス、シンドゥラからここに戻ってきた時におぬしがカナタについて話していたことだが、本当に決行するのか?」
「チュルク方面へ兵を連れて偵察に行かせる、とお話したことでしたら、予定通りに行うつもりです。そのために殿下に許可をいただく書面をお渡ししたのです」
「かの国は内政が乱れていたるところで反乱が起きていると聞いたが、その、やはり危険ではないだろうか」
「不肖の弟子の身を案じていただくこと、過ぎたお言葉としてお受け取りいたします」

ナルサスはその場で軽く一礼すると、エラムには少し席を外すように伝える。内心でその先の話を知りたいと思わないわけではなかったが、言われて引き下がらないわけにはいかず、エラムは執務室の扉の外に出た。ナルサスは、チュルク国は確かにアルスラーンの言うとおり内乱で荒れているが、今は国内のことに必死で国境を侵すようなことはしないはずだと説明する。

「殿下。この先十年、二十年…カナタを私の弟子のままにしておくことはできません。あれのやりたいことは、なるべく叶えてやりたいという親心のようなものもございます。しかし親ではなく師匠である私は、谷から突き落とした弟子の這い上がってくるのを信じて待つ、という古典的な方法を選ぶほかありません」
「ナルサスは余程カナタのことを大切にしているのだな」
「あれもエラムも私の大切な教え子にござります。今、カナタには這い上がる力がついた。私にしてやれることは、せいぜい突き落とす崖の深さを見誤らぬことだけです。数日の間一人でも兵を率いて、無事にペシャワールに戻ることでしょう」
「そうか、分かった。カナタもエラムも、ナルサスの下で学べて幸せだろうな」

屈託なく微笑むアルスラーンに向けて、殿下も私にとっては同じようによき生徒であらせられますよ、と冗談めかして言うナルサスの瞳は優しかった。

それから数日して、いつものようにくたびれた雑巾のようになって執務室に辿り着いたカナタは、疲れた時特有の興奮からか、何やらペシャワール城の近くにある小さな山間の地図を引っ張り出して、印をつけていた。

「カナタさま、おかえりなさい。何をなさってるんですか?」
「ただいま、エラム。ここにね、温泉が出そうなところがあるの見つけたんだ」
「また何を言い出すかと思えば…そんなことしてないで、書きかけの手順書仕上げてください」
「温泉だと?カナタ、本当か?」
「あっ!ナルサスさまも、食いつかないでください!」
「先生、本当です。実は先日散策のときに見に行ったんですが、水たまりかと思ったらぬるま湯で、地面もじんわりと温かかったんです」
「この山なら城からそう遠くない。開墾した土地を一望できるし、夕日が沈むのを眺められるな」
「自由民になった者たちが、育てた作物や自分の家を眺めながらここで汗を流すなんて、彼らにとって最高の癒やしの場になるにちがいありません」
「お二人とも!……はぁ、こうなると本当に人の言うことを聞かないんですから…」

エラムの深い溜息が、彼らの耳に入ることはなかった。温泉掘りましょう!というカナタの言葉が早いか、ナルサスがペンを取り出すが早いか、二人の目の前には「ペシャワール自由民のための天然浴場計画」という名の付けられた書類が瞬く間に出来上がっていった。ランナーズ・ハイという言葉がぴったりな、疲れに狂った二人が作成した、誰もが馬鹿馬鹿しいと思っても仕方ない名前である。ただしそれは二人にかかれば極々綿密な計画書になり、それが実現するのが当たり前になるほどの知識と論理で塗り固められていった。
エラムが「温泉が出た!」という自由民の叫びを城内で聞くのは、それから間もなくのことであった。