038/浴場

「なっ、なな、なんでと言われても!先生!見ないでくださいそして隠してください!」

カナタは短剣を握りしめたまま、驚くほど素早くナルサスから見えないよう岩陰に隠れた。呆然と立ち尽くすナルサスは、突然飛び込んできたカナタの姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。ようやく我に返ると、自分の腰に綿布が巻かれていることを確認し内心で胸を撫で下ろす。隠せと言われたのはどの部分だったのかが気になりつつも、動揺をなるべく悟られぬようカナタに声を掛けた。

「剣を向けて悪かった。キシュワード殿から鍵を借りてここを独占していたのだが、まさかカナタが入ってくるとは思わなんだ。すぐに出るから、ゆっくり戻ってきなさい」
「い、いえ…私こそ、先生だとは知らずに咄嗟に構えてしまって、どうか無礼をお許しください。そ、それと」

待ってください、とカナタの口から懇願する声が吐き出される。

「どうかしたのか?」
「先生、ありがとうございます。チュルク軍との戦いで、私が勝てたのは先生のおかげです」
「…俺は何もしていない、というわけではないが、俺が教えたことをお前が自分で考えられたから勝てたのだろう」

風呂から出ていこうとしたナルサスだったが、いつになくあらたまった態度でに礼を言うカナタの声を聞き、再び湯に体を浸けた。二人とも剣を仕舞い、カナタは岩を背に入り口を見、ナルサスはその岩の反対側で壁に切り取られた星空を見る。浴場の真ん中でお互いに背を向けながら、湯と壁に反響する声を聞いていた。会話を交わすうちに気持ちも心拍数も落ち着いてくるのを感じていた。

「今日の私の策、何か改善点があれば聞きたいのですが」
「敵将の討ち取り方だな、あれはお前個人の、というか馬の武に頼ったものだっただろう」
「確かに、シャーナズがいなければ今頃頭が半分なかったかもしれません」
「気をつけろ。俺が蓄えてきた十万の兵が、五万になってしまうところだった」
「でもきっとあの将相手なら、私以外の誰が対峙しても討ち取れる可能性は高かったと思います」

自分の手だけではまだまだ掴めぬものがある、とカナタは独り言のように呟いた。

「そうか。なぁカナタ。俺は最近お前に更に強くなってほしいと思うのに、それがどこか侘しいような気がすることがある」

ナルサスの言葉は、珍しく自身の気持ちを語るものであった。彼が気持ちを語るとき、それを何か行動の理由にすることはないわけではなかったが、単純にこう思ったということだけを述べるのは稀だった。カナタは突然の師の言葉に驚きつつも自分なりに正直な感想を述べる。

「先生は、身勝手です」
「身勝手とは、師匠に向かってあんまりな言葉ではないか」
「いいえ身勝手です。私だって、もっと強くなりたいと思うのに、一人前になれば先生の元を離れなければならないと思うと、気が迷うときがあります」

ここが浴場で、お互いに顔の見えぬときでよかった、と二人は心底感謝していた。しばらく何も話さぬままだったが、互いの言葉がいつまでも頭の中で反響していた。

次にカナタが何か口を開こうとしたとき、ふいに浴場の鉄の扉が開く音がした。誰かが入ってきた。そう思うと同時にカナタの腕は強く引かれ、ナルサスによって入り口から見えない岩陰に体ごと連れ去られる。

「鍵が開いててよかった、来た甲斐があったぜ」
「昼間に忘れ物したって?そんなの残ってるかよ」
「大事な物なんだ、探すのを手伝ってくれるって約束だろ」
「しょうがないな…」

入ってきたのは恐らく日中にここを利用している自由民の男二人だった。会話を聞くに何やら忘れ物をしたようで、二人で脱衣所を探し回っている。カナタは入った時に鍵を閉め忘れていたことにそこで気付いた。
ナルサスもカナタも出来る限り意識を自由民二人の挙動を探るのに使おうと努力していたが、密着した肌と肌の感触が二人の思考をことごとく奪っていった。湯の中でかいたどちらのものとも分からない汗が、その場の熱気を更に激しいものにしているような気分だった。

カナタの背中にはナルサスの厚い胸板が押し付けられ、彼の、女性のものとは明らかに違う逞しい腕の一本はカナタの胸を押しつぶすように、もう一本は左肩の後ろから回され、右肩を掴むようにして身体を抱いていた。嫌でも感じるナルサスの引き締まった大人の男らしい体つきと、抱きしめられる圧迫感に一気に思考が奪われ、心臓の鼓動が自分の耳に届くのではないかと思うほど速まった。
一方でナルサスはといえば、女性にしては筋肉質なカナタの身体が思った以上に柔らかく、そしてその小さな肩や背中、何より自身の腕で押しつぶした胸や自分の太腿の上に乗った尻というどうしても女性特有の柔らかさを感じずにいられないところに同時に触れ、もはや目の前の彼女を『可愛い弟子』と考える余裕など微塵もなかった。

少しでも身体を動かせば、嫌でも相手の感触が伝わる。お互いの間に距離を持たなくなった二人は、とにかく探しものをしに来た自由民の彼らが去ってくれることをただただ祈った。

「おい、これじゃないのか?」
「お?ああ!それだ!」
「見つかってよかった。さっさと戻って寝ようぜ、明日も早いし」
「ちょっと待て、これも忘れ物じゃないのか?」
「なんだ、それ」

これも、と言って自由民の男が見つけたのは、カナタが脱いだ服を入れて置いておいたものである。二人の会話を聞いてカナタは、身体はこれ以上ないくらい熱いというのに冷や汗をかいた。まずい。男たちは袋を忘れ物として届け出ようかと相談しているが、着替えを持っていかれては非常に困る。とはいえ、カナタもナルサスもこの場で彼らの前に姿を現し、彼らのための浴場に夜な夜な身分の高いたちが出入りしているという噂を立てられるのも本懐ではなかった。

二人の男が、見つけた袋をどうしようかしばらく話し込んでいると、カナタは何か臀部に違和感を感じる。何か固いものが当たっている、と最初はそう思っただけだった。しかし状況を考えれば、そういった経験のない彼女にも『それ』が何かは明らかだった。理解した瞬間に、全身の血が荒れ狂う獅子のように駆け巡り、彼女の皮膚の薄いところは瞬く間に紅色に染め上げられた。
ナルサスは己が男であることをこれほどに呪いたいと思うことは、後にも先にもないだろうと思った。どうしようもない後悔を感じると同時に、もはや羞恥という感情が頂点に達していた。存在感を増していく『それ』を、収めようと思えば思うほど、カナタの感触に、匂いに、夜空の光に照らされる濡れそぼったうなじに、微かに見える上気した薔薇色の頬に翻弄され、何もかもが逆効果になって自身の昂ぶりをより一層激しいものにしていくのが分かる。

「そんな袋、置いとけ。届け出でもして俺達が夜中にここに入ったって知られたら困るだろうが」
「それもそうか。俺みたいに取りにくるかもしれないしな」

そう言うと二人の男は再び鉄の扉を開き、浴場を去った。ナルサスはすぐさま弟子の身体を持ち上げると、精一杯紳士な動きで自分から遠ざけた。今更そんな態度を取ったところで、やはりただの男でしかないことは既に彼女に知られてしまっただろうし、彼自身が一番よく知っていたのだが。

「カナタ、後生だ。先に城に戻っていなさい」
「は…分かりました」

足元がおぼつかないのは決して蜂蜜酒を飲んだせいではない。もはや城での祝宴が遠い昔のことに感じられるほど、カナタの頭の中は直前の出来事でいっぱいだった。ナルサスの言う通りに一目散に脱衣所に向かい、身体を拭くのも半ばで服を着ると、背後から強大な羞恥心に追われるかのように、ペシャワール城までの道を全速力で駆けていった。