031/精選

グジャラート城を一時ながら自軍の城としたパルス軍は、その日は休息を取っていた。好んで滞在したというよりは、彼らの置かれた状況から滞在せざるを得なかったのである。

アルスラーンの率いるパルス軍は、グジャラート城にいる。その南方に、ガーデーヴィとマヘーンドラの軍がいる。さらにその南方に、ラジェンドラの軍がいる。そうしてそのさらに南方に国都ウライユールがあり、そこにはガーデーヴィの兵たちがいる。
対立する二つの陣営がそれぞれに兵力を二分されてしまい、位置だけからすればアルスラーン軍とラジェンドラ軍がガーデーヴィ軍を挟み込んだように見えるが、敵軍の兵力はこちらの兵を全てあわせたよりも大きい。

ガーデーヴィ陣営にまともに指揮を取れる者がいるのであれば、元々戦うために兵を引き連れた彼らであるから、三日も経たぬうちにあちらから動き出すだろう。一先ずナルサスはいつでも城から出撃できるよう準備を整え、バフマンに指揮を取るように頼んだ。

「先生、お茶をお持ちしました」

カナタはナルサスとダリューンの部屋に赴き、地図を眺めている二人の前に緑茶を置いた。ダリューンは一瞬固まった。カナタが淹れた茶を見て、先日彼女の手作りの料理を食べたというギーヴが苦悶の表情を浮かべているのを思い出したのである。ナルサスがその様子に気付いて、からかうように言った。

「俺の可愛い弟子が持ってきた茶を飲まぬのか」
「ダリューンさま、私もさすがにお茶くらいは淹れられます」

まぁこれはエラムが淹れたものですが、と付け加えるカナタは不満そうな顔だった。ダリューンは些か申し訳なさそうに緑茶に口をつけた。

「殿下が側に来て手伝うと言ってくださったので、器を用意していただきました」
「エラムも殿下と過ごされるうち、随分角が取れてきたな」

今ではナルサスに政事や用兵を、ダリューンには剣や弓を教わる兄弟弟子であり、命の危機を救いあったことからよき友人のようにさえ見えるようになった二人の姿を、その場にいた三人は思い浮かべた。パルスの社会制度からいえば決して交わることはない身分の二人がそうしていることに、彼らにとっては何か希望のようなものが感じられるようでもあった。

「将来、アルスラーン殿下が国王となられ、エラムがそれを補佐すれば、よい政事が行われるのではないかな」
「そうだな。遅くても十年先にはそうなってほしいものだ。そうなれば、おぬしも俺も、憂世の義理から解放されるだろう」
「ナルサス、そうなる前にカナタをお前の弟子から解放してやらねばなるまいな」

ナルサスがそれに関して何か言おうとする前に、ダリューンは勢い良くその場で立ち上がった。彼の目に、城壁の上を歩くアルスラーン殿下の姿が飛び込んだのだ。先日のペシャワール城での一件もあり、居ても立ってもいられないという様子でダリューンは部屋を飛び出した。後を追いかけようとするカナタを、ナルサスが呼び止める。

「殿下も何かお考えになるところがあるようだ。とりあえずダリューンに任せておけ」
「…アズライールも何か異常を感じてはないようですし、今日のところは」
「そして俺もそろそろ考えねばならんな」

瞳をうっすらと細めたナルサスの視線に、カナタは首を傾げた。まだその意図は分からなくてもいい―――そう身勝手に思う師匠は、カナタに向かって今日はもう寝なさいと呟いた。

翌日の夜、ガーデーヴィの軍がついに動き出したとの報がパルス軍にもたらされた。ガーデーヴィが率いる十五万の全軍のうち、二万がグジャラート城のパルス軍にそなえ、残り十三万が、ラジェンドラ軍との間に戦端を開いたのであった。

結果として戦いは多くの死者を出した。そうして、パルス軍の加勢とナルサスが考案した戦像部隊への対抗策の功績により、ラジェンドラ軍が勝利を収め、ガーデーヴィは国都へ退却した。一点気にかかるのは最後にガーデーヴィを馬に乗せ、砂塵に消えていったのがジャスワントであったことである。ファランギースが彼を射ろうとしたところをアルスラーンが静止したので、彼は二度命を救われたことになった。

国都に攻め入ろうと勢いを増していたラジェンドラ軍に、国王陛下であるカリカーラ二世の意識が回復したという報せがもたらされたのは、神の悪戯とも思えるほどのタイミングであった。このまま国都に押し入り、勝利の勢いのままにガーデーヴィ軍を攻撃すれば、時を待たずして国はラジェンドラのものとなるはずだったのだ。

しかし二人の王子は父のもとに呼び寄せられ、それぞれがお互いの悪口を散々に言い放った。カリカーラ二世は床に伏しているからといって、耄碌しているわけではなかった。自分が二人の王子、どちらを後継者をするかを決めていなかったばかりに、シンドゥラの兵や民がどれほど犠牲になったかと思うと、もはやここで責任を取るほかなかった。

カリカーラ二世の言い渡した「神前決闘によって、わが後継者をさだめることにする」という言葉は、瞬く間にシンドゥラ中に知れ渡った。当然アルスラーンとその臣下もそれを耳にし、ほとんどの者があまりいい顔はしなかった。

「シンドゥラの王様は、よっぽど自分で責任を取るのがお嫌いらしいな。えらそうな口を聞いて、結局は神々に判断を押し付けておいでになる」

ギーヴは痛烈な批判の言葉を口にした。パルスの神に仕える立場にあるファランギースも、その顔に皮肉をたたえて言い放つ。

「シンドゥラの神々が、どちらの野心家をひいきするか。敗れた方が素直に神々の意思に従うか。いずれにしても観物じゃな」
「神前決闘というのは、結局のところ強い者が正しいと、そういうことになるのだろうか。それが果たして、本当の正義に結びつくのか…」

ギーヴやファランギースほどの棘はないものの、アルスラーンもまたその形式に疑問を抱かずにはいられないようであった。

「カリカーラ王も苦肉の策というところでしょうな。殿下、神前決闘には立派な長所があるのです。このまま両軍が衝突すれば、どちらが勝っても多くの死者が出ることでしょう。ですが、神前決闘であれば、死ぬのは敗者のみ。相打ちになったとしても二人で済みます」

ナルサスがそう言うと、アルスラーンは頷いた。

「ところで、今回の神前決闘は代理人を立てて行うということでしたが…ラジェンドラ王子は、ダリューンさまをどうやって説得するおつもりでしょう」

ラジェンドラ王子が誰を代理人に選ぶかというのは、その場で満場一致するところだった。黙々と長剣を磨いているダリューンは、カナタの言葉に眉ひとつ動かさずにいる。そのうちにラジェンドラ王子はアルスラーンの本営を訪れ、予想通りの言葉を吐き出した。ダリューンを神前決闘の代理人に、という申し出である。

結局ダリューンはその場ですぐに引き受けず、殿下のご命令がなければ自分が動くことはないと主張した。ラジェンドラ王子は十歳年下のアルスラーンに、大袈裟に頭を下げて頼み込んだ。彼にとってはそこで頭を下げることに大した躊躇いもないだろうが、アルスラーンは快諾できる気持ちでなくとも、そこで拒否をするわけにもいかなかった。

こうしてダリューンは、正式にラジェンドラの代理人となって神前決闘にのぞむことになる。