032/薫染

何というおぞましい光景か、とカナタは目を背けたくなるのを必死でこらえ、まっすぐに前を向いた。半径七ガズ(約七メートル)ほどの円の中、周囲を燃え盛る炎と飢えたジャッカルに囲まれ、ダリューンがたたずんでいる。そして反対側にはダリューンの決闘相手となる、バハードゥルという、もはや人間と呼べる見た目ではない、体長二ガズ(約二メートル)を超える化物が、その黄色っぽい目をぎらつかせて立っていた。

神前決闘というものを、カナタは知らなかったわけではない。文献で何度も目にしていたし、実際行われた際にどういう結果になったかという例もいくつか知っていた。
大概は今回のように、己の正当性を主張するがあまり民を犠牲にする王子に困り果てた王が選ぶ手段だったり、はたまた一方もしくは双方の王子があまりに幼い場合にその宰相が画策して、己の地位をより確固たるものとするために選ぶような手段だった。
そうしてどちらかが勝利すれば結局のところ敗者が全てを奪われ、国は混乱を収めるどころか無法地帯となることもあった。だから、到底ろくなものでないことは、理解していたはずだった。

しかし眼前に広がるその異様さは想像を絶するものだった。何より彼女は、どんな相手であってもダリューンが負けることなど決してないと、そう踏んでいたのである。それが今、ダリューンの長剣は折れ、盾は半分に砕かれ、反撃をすることも許されずただ攻撃をかわすことが、長い間続いていた。
豪傑を誇るダリューン本人はもちろんのこと、まさか人間ではなく怪物と闘うことになろうとは、アルスラーンもその臣下たちも誰ひとりとして想像していなかっただろう。

「ラジェンドラ王子…あなたは…あなたはあの怪物が相手だと知っていて、ダリューンを神前決闘の代理人に選んだのか!」

バハードゥルは二本の脚で立っているが、もはや野獣と変わらなかった。ダリューンの剣がいくらその身体を切り裂こうとも、痛みを感じるということがない。どれほどの傷を受けても、死ぬまで戦う。相手を殺そうとする。そんなことをラジェンドラの口から聞いてアルスラーンは落ち着いていられるはずもなく、声を荒げた。

「落ち着け、アルスラーン殿」
「おちついてなどいられない!!」

ラジェンドラの瞳を真っ直ぐに睨みつけ、剣の柄に手を掛け怒気を孕んだ声で叫ぶ。

「もしダリューンがあの怪物に殺されでもしたら、パルスの神々に誓って、あの怪物と、あなたの首とを、並べてここの城門にかけてやる!誓ってそうしてやるからな」

生まれてはじめて、アルスラーンは人を脅迫した。彼の臣下が感じていても言葉に出せなかった憎悪にも似た感情は、そこで彼らが信じる王太子の口から吐き出された。ラジェンドラはあまりの剣幕に咄嗟に何も言い返すことができず、たじろいで見せるだけだった。

「落ち着きなされ、パルスのお客人」

その場に響いた厳しく力強い声は、カリカーラ王のものであった。その声色は到底病人とは思えぬほど、威厳に満ちていた。

「ガーデーヴィが神前決闘の代理人を選んだのは、ラジェンドラより後のことじゃ。お客人の部下は無双の勇者とか。勝てる者はおらぬか、考えあぐねての人選であろう。それほど敵から恐れられる部下を、ご主君は信じてやりなされ」

その言葉に頬を紅潮させたのはアルスラーンのみではなかった。アルスラーンが一礼して腰を下ろしている横で、カナタもまた自分が一瞬でもダリューンの身を案じたことを恥じていた。ナルサスは殿下の言葉とシンドゥラの王の言葉を聞き、大きく息を吐き出して横にいるカナタを見る。この戦いを、必死に目を逸らさずに見つめる彼女には、何かが見えていると感じていた。

ガーデーヴィがアルスラーンの様子を見て失笑するのを、父であるカリカーラ二世は身体の痛みとは別の辛い痛みを持って受け止めていた。もしガーデーヴィが、せめてあのパルスの王子にくらべて半分でも部下を大切にできる心を持っていたのであれば、迷わず王位を譲ったのに、と言い終わると彼は再び沈黙した。

ダリューンの防戦は続いていた。しかし彼と旧知の仲であるナルサスには、その終わりへの小さな兆しが見えていた。隣で恐れではない震えを表すカナタに「そろそろ終わりだ、心配するな」と低く呟く。

ダリューンは自身のマントの紐をほどき、周囲の薪から炎をまとわせると、轟々と燃え盛るそれをバハードゥルの上半身に向かって叩きつけた。一瞬にして、マントからバハードゥルのターバンにも服にも火が燃えうつり、炎に包まれたままそれでもなおバハードゥルはダリューンに襲いかかろうとする。
その時、ダリューンの右手に折れた長剣ではなく、短く煌めくもう一つの剣が見えた。ダリューンはわざと折れた長剣に固執しているように見せて、その短剣の存在を周囲に忘れさせるような細工をしていたのだ。
そしてその煌めきが一閃の光を描いた瞬間、勝負は決した。バハードゥルの首から噴水のように赤黒い血が吹き出て、彼の首はほぼ切断されていた。そうして首の重みに逆らえず、そのまま前方に倒れ込む。炎に包まれたまま、轟音を立てて。
数秒の沈黙が続き、ダリューンが見物席を見渡しアルスラーンに一礼してみせると、静寂は嘘のように去り、代わりに熱狂的な拍手と歓声がわき起こった。

勝敗は決した。しかしそこからも一筋縄ではいかず、負けを認めぬと反乱したガーデーヴィの投げた槍にバフマンは内臓を貫かれ、マヘーンドラも同じく義理の息子である王子に胴体を串刺しにされた。騒ぎが収束した頃には、アルスラーンとその臣下たち、そしてジャスワントらは死を迎えた者の口から何も聞けぬまま、あまりにも大きなものを失った空虚感だけを抱いてその場にたたずんだ。

国都ウライユールの城は、猛烈な血の匂いがまるで嘘だったかのような綺羅びやかさで一行を迎えた。王城にて、アルスラーン一行はそれぞれに一部屋ずつ豪勢な部屋を与えられ、それぞれが胸に重い物を抱えたまま、しかしその日は休息を取ることになった。

夜も更けた頃、ナルサスは静かにカナタの部屋の扉を叩いた。

「カナタ、今いいか」
「少々お待ちください。今開けます」

カナタの方から夜更けにナルサスの部屋を訪れることはあっても、師匠であるナルサスからのこうした訪問は極めて珍しかった。それゆえに、カナタは一瞬自分の割り当てられた部屋を散らかしていないか、そしてその顔に、今日の神前決闘の様子とその顛末について自身の心が動揺した跡を残していないか確認すると、いつも以上に気丈な振りをして部屋の扉を開けた。

「夜分にすまないな」
「いえ、いつも時間に関係なく先生のところに行くのは、どちらかというと私の方ですから」
「明日からの動きで少し確認しておきたいことがある。手短に済ませよう」
「はい」

ナルサスは手に持っていた地図を拡げ、明日からのアルスラーン陣営の動きについて細かな点を一つ一つ確認して行った。それは確かに夕方に打ち合わせしたよりも綿密な話ではあったが、カナタとしては、そんなこと言われなくても、自分であれば推測できる範囲のことだとも感じる。

「…ということで、バフマン殿の兵一万はダリューンが率いる。今日の神前決闘であれの強さは誰もが知るところとなったし、異論を唱える者はいないだろう」
「バフマンさまは…そうですね、亡き後を、ダリューンさまに任せるのであれば」

彼女は自分でも歯切れの悪い返答だと思った。カナタの心のどこかに、神前決闘について、そしてその後にガーデーヴィ王子が投げた槍が、バフマンを死に至らせたことについて、片付かないまま閉じ込めようとした気持ちが残っていた。
師であるナルサスは既に明日からのことを綿密に計画し、動き出している。それに比べてなんと自分は未熟なんだろう。気持ちにとらわれないようにしようと思えば思うほど、蜘蛛の巣にかかったように逆にまとわりつき、もつれて離れなくなる。

「その様子だと、やはり俺が部屋に来る前に一人で終わりのない問答をしていたようだな」
「先生、申し訳ありません。考えても答えの出ぬことを、また」
「確かにお前に、一人で考えても答えの出ぬことをむやみに考えるのはよくないと教えた。しかし、それは事実が分からないままに推測で物事をあれこれ考え、自分の思考にのまれてはいけないという意味で言ったのだ」

ナルサスは内心、どこか胸が痛む気持ちを感じていた。目の前の弟子に、自分の気持ちを抑圧させるような教えを施したつもりは当然ないのだが、結果として彼女が今そうなっているのは事実だった。ゆっくりと、しかし早急に、彼女が自身の胸に抱えている気持ちを昇華させられるよう導いてやらねばと思う。

対面する形で座っていたナルサスは、カナタの座っている三人掛けほどの広さのソファに移り、彼女の横に腰掛け、そばにあった明かりを消した。薄暗くなった部屋の中で再びナルサスが、その掌に乗るくらいの小さなランプに明かりを灯した。

左側に腰掛けたナルサスの手が、片方はカナタの肩を抱くように回され、もう片方は彼女の両目を塞ぐように顔に被さった。大きくて温かな手が瞼に触れると、目の奥がじわりと緩む感覚に陥る。
視界が奪われたのと距離が近くなった分、先ほどよりも鼓膜を犯すようなナルサスの声が低く響いて、カナタの頭の中を支配していった。

「お前が今とらわれているのは、事実を受け止めた自分の気持ちか、あるいは受け止めきれず拒否をしようとする葛藤だ。お前は、今日の決闘とその顛末を見て、何かを感じたのだろう」
「はい…」
「感じるのは悪いことではない。大事なのは、その気持ち、感情をどうするかだ。過ぎた時間、死んだ者はいくらお前が胸を痛めたとて戻ってくることはない」

戻ってくることはない。そんなことは分かっていたとカナタは思ったが、自分だけで分かっているつもりになっていたのかもしれないと、自らの気持ちの整理のつかなさを感じてハッとする。バフマンの最期を思い浮かべたカナタの瞳からは一筋の涙がこぼれ、ナルサスの手のひらを濡らした。

「神前決闘を見て、どう思った。バフマン殿の最期を見て、どう思った。事実は炎のように風にゆらめき、人の思惑によって見え方は変わる。風を止ませ、炎と一対一になり、四方八方から覗いて見なさい」

そう言うと同時にカナタの顔からナルサスの手が退かされた。カナタは目の前のランプの炎を、最初はぼんやりとした瞳で見ていたが、その揺らめきを見ているうちに、少しずつ自分の焦点が定まってくるのを感じた。どれくらいの時間、その小さな灯りを見つめていただろう。何かを決意したように、カナタが口を開いた。

「先生」
「どうした」
「神前決闘というもの、私はやはり好きません。バフマン殿が何を知っていようとも、あのお方の死に場所は、あんなところではなかった」

迷いなくはっきりと述べてみせるカナタを見て、ナルサスはもういいか、とその肩に回していた手を離した。

「今はそれだけです。でも、近いうちに必ず、私の未来をお話します」
「ああ、楽しみに待っている」

今日はもう遅いから、眠りなさい。そう優しく微笑まれてカナタは大人しく自分のベッドへ向かった。眠りにつく彼女の瞳には、先ほどの灯りが入り込んだような、小さいながらに確かに燃える何かが宿っているようだった。