030/得手

アルスラーンは部下たちの意見にしたがい、ラジェンドラ王子に十分な糧食と、それを運搬する牛馬、詳しい地図と、信用のおける案内人、そして地図はカナタに描き写させ、その際に進路も詳しく聞かせてほしいと伝えた。欲のなさそうなアルスラーンからそのような要求をされると思っていなかったラジェンドラは一瞬戸惑っていたが、目の前のアルスラーン殿下とやらも所詮ただの欲深い王子様だったか、と内心で笑みを浮かべた。

それから二日ほどは、平穏な行軍が続いた。ときどき山道で休憩をとると、ナルサスは紙と絵筆をとりだして風景を描いていたが、けっしてカナタとエラム以外には見せようとしなかった。

「カナタもエラムも、ナルサスの絵を見て平気なのか?」

ダリューンが訝しげに問いかけるも、二人はすんなりと慣れてますと答えるだけであった。ダリューンが別に言いふらしたわけではないが、ギーヴもファランギースもそのやり取りからナルサスの画才のほどがどうなのかはある程度理解しているようだった。

「ナルサスさまが絵まで天才でいらしたら、かえって救いがありません。あの方は、絵はあれくらいでちょうどいいのです」
「先生の絵は、数百年あるいは数千年後に、物好きな金持ちが金貨何万枚も喜んでさしだすような絵だと思ってますよ」
「どちらも褒め言葉にはなっていないようじゃな」

そんなやりとりがされているとは知らず一人筆を走らせているナルサスに、カナタは昼食の差し入れを持っていくと言い出した。既にその手には紙袋が用意されていたが、エラムが制止をかける。

「カナタさま、まさかとは思いますがそれに手を加えてはいないでしょうね」
「いやいや、さっきエラムも食べたでしょ。薄焼きパンにお肉と野菜挟んだやつ。確かに中身は私が詰めたけど…」
「中身を詰めたというのが問題です。あれほど料理には手を出さないでくださいと言ったじゃありませんか!一度見させてもらいますよ」
「信用ないなあ。おいしそうなもの詰めたから、大丈夫だって」

エラムが包みを解いて中身を確認すれば、まずは何を詰めたらこんな毒々しい色になるのかというくらいの、内側を鮮烈な紫色に染められたパンが顔を出し、そして挟んである具材はやたらにぬるぬるとして異臭を放っていた。

「むしろどうやったらこうなるのか聞きたいくらいです。ナルサスさまはこんなもの召し上がりません!」
「何、カナタの手料理?珍しい。軍師殿が食べないのなら俺がいただこうか」
「遠慮せずどうぞギーヴさま」
「なっ……!!お゛う゛えええええ!」

大きく開けた口にエラムによって無慈悲に詰め込まれたカナタ作の料理は、偶然通りかかったギーヴの口内と食道を即座に侵食した。その雄叫びに何事かとダリューンは剣の柄に手をかけたまま走り寄ったほどだ。ファランギースが汚物を見るような目でギーヴを見ていたが、実際ギーヴは汚物を吐き出す寸前でなんとかこらえているところだった。アルスラーンがギーヴの傍でどうしたらよいかとおろおろと慌てている。

「カナタさま、台所には立たぬようにとあれほど言ったではありませんか!」
「いやぁ、今日は台所じゃなくて野原だったし平気かなって」
「そういう問題じゃありません!」
「カナタおぬし、何かが壊滅的に下手だというところまで、師に倣う必要はないのだぞ」

ダリューンにそう言わせてしまうほど自分の作った料理は不味いのだろうか、とカナタは首を傾げる。こうしてナルサスは無事、エラムの作った昼食を取ることができたのだが、そこにギーヴの尊い犠牲があったことは知らぬままだった。

アルスラーンがラジェンドラと二手に別れるという選択をし、そしてラジェンドラの教えた偽の進路をガーデーヴィに知らせたこと。それは結果としてガーデーヴィ陣営に大きな問題としてのしかかっていた。
ラジェンドラの率いる軍と、パルス軍、どちらを先に片付けるべきか、兵をどこに集中させればよいのか、混乱の収まらぬ様子であった。
世襲宰相であるマヘーンドラはその知恵をもって一時は場を落ち着けたが、彼もまたナルサスの策に落ちていることにそのときは気付かなかった。

夜も更けた頃、兵たちが休息を取るなか、ナルサスとカナタは二人で作戦会議をしていた。

「ジャスワントの正体、ですか」
「左様。カナタ、お前にはあの男がどう見える」
「ただの案内人、という可能性は低いと見積もっているのですが、彼がラジェンドラ王子に忠誠を誓っているわけではないとも思います。むしろラジェンドラ王子のことですから、自分の陣営にいて怪しきと思われる人物を我々に寄越したのかなとも」

弟子の口からするすると出て来る言葉にナルサスはどこか満足気であった。

「剣もかなり扱えそうな人物ですし、もしジャスワントが信用に足るのであれば、ラジェンドラ王子は望んで自分の護衛にでもしそうな気がします」
「そうだろうな。するとジャスワントがどちらの王子に忠誠を誓っているかはっきりさせるためにも、そろそろ動き出すとするか」
「そうですね。グジャラート城塞を攻めますか?」
「力で攻めてもいいが、ダリューンがここのところのつまらぬ戦にどうやら退屈しているようだ。少し楽しませてやるとしよう」
「ダリューンさまはどうも力でねじ伏せるだけの戦いに魅力を感じないようですね。あれだけの武勇に富んだ戦士は、平和な世の中になってしまったら退屈で死にはしないでしょうか」

真面目な顔をして考え込むカナタを見て、ナルサスは笑いをこらえきれずに小さく息を吐き出した。グジャラート城塞を攻めることに関してはナルサスが策を講じ、カナタもそれを興味深げに頷きながら聞いた。

翌日、朝からアルスラーン陣営は慌ただしく動いていた。グジャラート城塞に届くようわざわざ自らの進路を知らせ、その報告をうけて城から出てきたプラケーシン将軍率いる軍を打ち破る。
パルス軍の勇猛ぶりを見せつけられてグジャラード城塞のゴーウィンとターラという両将軍が籠城を決め込んだところへ、無血開城を求める使者としてギーヴを送り込む。ガーデーヴィ陣営についている両将軍に、ラジェンドラ陣営に味方をすれば王子が王になった暁には望むものをなんでもくれてやる、と条件を出す。

全てナルサスの手のひらの上で行われている芝居と見破れるはずもなく、同行していたジャスワントはすぐさま二人の将軍に使者が言ったことは何の根拠もない出まかせだと告げに行き、将軍らと結託してアルスラーン率いる軍を襲うよう動き出す。

予測の範疇から外れたことは起きず、一行はナルサスの策によって敵の裏をかき、両将軍を討伐した後にグジャラート城を占領した。たったの三日でグジャラート城が落とされたというその噂は瞬く間にシンドゥラ国を駆け巡った。

落城の報告を受けたガーデーヴィ陣営は、国都の北方を守る要である城を奪回せねばと動き出していた。ラジェンドラ率いる軍がパルス軍と合流する前に城を取り戻す必要があると、即座に兵を送り込むことを決めた世襲宰相マヘーンドラの判断は正しいように見えた。

グジャラート城塞の中では、ジャスワントがその裏切りにより縄をかけられ、アルスラーンの前に引き出されていた。彼は命乞いをすることなく、自分はシンドゥラに忠誠を誓っただけのこと、と言う。しかし彼の首に白刃が到達するかと思われた瞬間、アルスラーンがそれに静止をかけた。そうしてナルサスの助言も受け、アルスラーンはジャスワントを解放したのであった。