028/悶着

ラジェンドラ王子との酒宴の中で、カナタがシンドゥラ語で言い放ったという言葉。腕を組んでしかめっ面をしているナルサスと、それでも怒られる理由はないと言わんばかりの表情を浮かべるカナタ。そんな二人に囲まれてエラムは今一時、問題になっているその言葉の内容を待っていた。
張り詰めた空気を切り裂くように、カナタがようやく口を開く。

「ラジェンドラ王子、大変ありがたいお申し出ですが…『結婚をするとしたら、私の師以上の知略を持った者でなければ考えられませんので』と、言っただけです」

何も咎められることはないはずです、と付け加えたカナタの不貞腐れた表情を見てとうとう「お前をそんな弟子に育てた覚えはない!」とナルサスは声を荒げた。

「そんなことを言ってどうするのだ?!お前は一生独り身でいるつもりか?!」
「酒宴の席でどうでもいい男に言い寄られたときの断り方を考えておけと仰ったのは、先生ではありませんか!」
「ではその発言は建前で、本心ではないと受け取っていいのだな」
「いいえ本心です。馬鹿な男と結婚するくらいならその男の存在を闇に葬って違う人生を送ったほうがましです」
「お前は頭の出来もいいし見目も良いくせに、どうしてそういうところで可愛げがないのだ!第一、師匠に対して詫びの一言もないとはどういうことだ!」
「頭を下げるのは自分に非があるときだけだと、そう仰ったのは先生です!」

あまりに唐突に始まったその攻防にエラムは開いた口が塞がらなかった。つまりナルサスは、自分以上に賢い男でなければ結婚など考えられないと言ったカナタの発言がどうにも気に食わないということだった。理想が高すぎて嫁に行けない娘を心配する父親―――そうエラムは頭の中で片付けた。そして気付く。これは取るに足らない師弟喧嘩だ、と。

「ナルサスさま、カナタさま」
「エラム!お前はこいつの不届きな理想をどう思う。何か言ってやれ」
「エラムに意見を求めないでください先生。今は私と話しているはずです!」
「ナルサスさま!カナタさま!」

エラムの声には、白熱した二人をピタリと黙らせるような気迫がこもっていた。あ、これ怒られるやつだ、とナルサスとカナタは察したが、そこで何か弁解しても無駄なことは知っていたので、やはり大して反省する色も見せずに、ただ口を噤んだ。

「お二人とも随分元気が余っているようですから、枝葉末節な言い争いをしている暇があるなら、少しは生産的な議論でもなさったらいかがですか。ここにはお二人の大好きな地図やこの辺りの文献もありますし、私は今夜はダリューンさまたちの部屋に行きますので、ごゆっくり」

一息にそう言い捨てると、少年はベッドに置かれていた枕と毛布を手にさっさと部屋を出ていった。扉の閉まる音がやけに大袈裟に響き、ナルサスとカナタは目を見合わせる。

「先生、そう言えば殿下からこの城にいる奴隷解放について案を求められていたのを思い出しました」
「ほう、その泥水を沸かしたような頭で何を考えられるというのだ」

エラムにあの態度を取らせた以上、そのままの話題で口論を続けるわけにはいかないことはお互いにわきまえていたが、それを正当な理由のある議論にすり替えてでも、二人はお互いの収まりきらぬ熱を結局ぶつけ合わずにはいられないようだった。エラムが部屋を去ってから数時間、もう空が白んでいるというのに、その熱は冷めるどころか辺りに火の粉を飛ばさんとする勢いであった。

「だから、用水路をどこにひくとか、何の種をどこに植えるとか、お前は何でも決めたがりが過ぎる!」
「先生の方こそ、何の知識も持たぬ奴隷たちに大して放任すぎます!こちらで調べて分かりきっていることをあえて彼らに話さないのはそれは持つものとしてあまりにも無責任というものです!」

結局、ペシャワール城の奴隷を解放して屯田制を導入するという案は、一夜のうちに羊皮紙何十枚にも及んでまとめられた。それを目にしたアルスラーン殿下は興奮気味に「すごい!ナルサスとカナタが協力すれば、一晩で小さな国ができてしまいそうだな!」と二人を賞賛していたが、一晩中議論を続ける間、お互いに譲りきれぬところに妥協を続けなければならなかった二人は、それを手放しに喜べる様子でもない。殿下の嬉しそうな姿で無理矢理に溜飲を下げたというところであった。