029/愛嬌

「カナタは馬語を操る、と以前にナルサスが言っていたが、もしかしてアズライールとも話せるのだろうか」
「鷹とですか。さて、どうでしょう」

アルスラーン殿下の肩に誇らしげにとまっているアズライールの名をカナタが呼ぶと、アズライールは甘えたような声で鳴いてカナタの腕に飛び移った。もちろん馬と同じで言葉を介しての意思疎通ができるわけではなかったが、カナタは殿下にゆったりと笑いかけながら「アルスラーン殿下と共にシンドゥラの地を見られるのが、楽しくてしかたないと申しております」と伝え、それを聞いた殿下も嬉しげに微笑んだ。

シンドゥラの都ウライユールへ向かうアルスラーンとその部下、ペシャワール城にいた兵たち、そしてラジェンドラと彼の率いる軍は、途中カーヴェリーの大河を渡り、ガーデーヴィの軍にいくつか遭遇しながらも、順調に足を進めていた。ラジェンドラの言動や行動は見れば見るほどに胡散臭く、なんとも誠意のない印象を与え続けていた。ナルサスは一層それが面白く感じられるのか、信用できぬと言い立てるダリューンに「毒蛇でも、財宝の番をするのに役に立つこともある。そう思っていればよいさ」と言ってのけた。

途中でパルス式の新年の儀も済ませ、アルスラーンの陣営では祝年の宴が催された。その折、半ファルサング(約二・五キロ)ほど離れたシンドゥラの陣営から、ラジェンドラ王子が五十騎ほどの護衛だけを伴いやってきた。
天幕の中に豪奢な敷物をしき、酒や料理をならべて、アルスラーンはシンドゥラの王子を歓迎した。ラジェンドラ王子はファランギースとカナタの顔を見て大きな口で笑って世間話を交わしたりはしたが、その隣の席に座ろうという気は持っていないようで、二人と対面するような形で腰掛けていた。宴がいっそう賑やかになると、ふと先日のペシャワール城での宴のことを話し始める。

「そういえば、カナタ。先日の宴のときには、見事なシンドゥラ語を話していたな。あんなにパルス訛りのないシンドゥラ語を操れるとは、一体どうやって我が国の言葉を学んだのだ」
「全て我が師から教わりしことですよ、ラジェンドラ王子」

カナタはふわりと、しかし隙のない笑みを浮かべてやや短く答えた。あまりそれについて聞かれると面倒だと思っていたからである。

「我が師…ねえ。あのときも確か、結婚するなら師匠よりも賢い男じゃないと考えられないと言ってのけたな、おぬし!立派な師匠なのだなあ!」

そこに何の陰りもなく、ラジェンドラは変わらず大きな笑い声を上げた。カナタの隣でナルサスが葡萄酒を豪快に吹き出した。カナタが呑気に「染みになるだろうな」などと考えているうちに、エラムがナルサスの衣服を濡れた布で拭いた。ラジェンドラ王子がパルス語で言ってしまったカナタの理想は、当然周囲にもざわめきを起こすものであった。

「カナタ、おぬし本気か?!悪いことは言わぬから、ナルサスより絵がうまい男とかにしておけ!」
「それはあんまりですダリューンさま。せめてダリューンさまと互角に渡り合える男、くらいでしょう」
「エラム…それはそれで数多の男の首が吹き飛んでしまうぞ。いいのか」

男三人は口々に好きなことを言ったが、ナルサスはその呼吸を整えるのに忙しく反論する暇もなかった。嫁に行くとか、行かないとか。そういった話題に疎いアルスラーンもさすがに「ナルサスよりも賢い男」という条件の無慈悲さは理解できたのか、「ナルサスよりも賢いなど…そんな者が存在するだろうか、カナタ」とやや的外れな声を寄せた。カナタはそれに苦笑いを浮かべるほかない。

「ナルサス卿のあの動揺っぷり、あの御仁にあんな姿をさせられる女性はおぬしくらいじゃろうな」
「宴席で言い寄られた時の対策としては優秀だと思ったけど、先生がいる場所ではもう使えないね…」

カナタは先日の口論から少し落ち着いて考えられるようになった頭で、心底そう感じていた。
自分の一言で一同が何故そんなに動揺しているのか分からないまま、どさくさに紛れてラジェンドラ王子はファランギースに結婚相手の理想を聞いていた。ファランギースは大して興味もなさそうに「わたしよりも酒に強い男」と言ってみせる。勝ち目がないと思ったのか、ラジェンドラ王子は大袈裟に咳払いをして殿下に話しかけた。

「ところで、わが友にして心の兄弟たるアルスラーン殿。折り入って相談したいことがあって、まかりこしたのだが……」
「どうぞ、何なりとおっしゃってください」

そう応じてからアルスラーンはラジェンドラの表情に気付き、部下たちには席を外すように命じた。ラジェンドラが提案してきたのは分進合撃の戦法であった。別行動をとることでガーデーヴィを心理的にも軍事的にも追い込み、どちらが国都に早く入れるか競おうという持ちかけだ。もし自分が国都に先に入れたら何をもらえるかと問うと、ラジェンドラ王子は提案に賛成してくれるのかと探りを入れた。しかしアルスラーンは生真面目に、部下に聞いてそれから決断したいと言う。
アルスラーンが部下に相談してくることをラジェンドラは渋々ながら承諾した。話が一区切りつくとアルスラーンは一度天幕から出て、ラジェンドラから部下をつけ上がらせてはいけないなどという提言やその後にも多少のやり取りがあったことまで、外で待っていた部下に子細に伝えた。

「それで、ラジェンドラ殿にどう返事をしたらよいだろう」

ダリューン、ギーヴ、そしてファランギースとエラムも、四人の意見は一致していた。ラジェンドラ王子には殊更信用性に欠くところがあり、我らを囮に使うか、別行動を取り出した瞬間にガーデーヴィに我々の進路を事細かに伝えるか、ガーデーヴィ軍と争わせて消耗した後で奇襲をかけようと考えているか、兎に角提案を断るべき理由が多すぎるというのが彼らの主張である。アルスラーンはそれを聞いて考え込んだが、ふと目線を上げた時に自分と同じく顎に手を当てて考え込んでいるカナタが目に入り、その意見を求めた。

「うーん、そうですね」
「よい、カナタ。申し上げろ」
「まずは殿下、おめでとうございます」

ナルサスに後押しされてカナタの口から出た言葉は当然ながらアルスラーンを驚かせた。無論その場にいた仲間をもである。

「なぜなら殿下の部下に、思慮の浅いものは一人もおりませぬようですので。ダリューンさまも、ギーヴも、ファランギースも、エラムも。実に的を得た具体的な意見を述べてくれました。ラジェンドラ王子は恐らく、わがパルス軍を徹底的に利用することが目的です。いつかはこのように申し出てくるのではないかと思っておりました」
「では、ラジェンドラ殿の提案は、断るべきなのだな」
「いえ、私はご承諾なさってよろしいかと存じます」
「はい、ご承諾なさいませ、殿下」

最後の決定はナルサスに任せ、しかしカナタは素直な意見を述べた。一同の視線が一挙に二人に集まった。ナルサスは気にせず続ける。

「理由を申し上げましょう。ラジェンドラ王子は、鉄でできた良心をお持ちの御仁。このような人と同行していては、いつ背中から斬りつけられるか、知れたものではありません。この際相手から提案してきたのですから、少し距離を置いて行動したほうがよろしいかと存じます」
「わかった。そのようにしよう」
「ただし、条件をおつけになってください。十分な糧食と、それを運搬する牛馬、詳しい地図と、信用のおける案内人。それらを要求なさいませ」
「地図はラジェンドラ王子が持っているものを描き写させてもらいましょう、私がやります」

二人の提案に、殿下は思わず口元をほころばせた。

「少し欲をかきすぎではないか」
「なに、これくらいは要求したほうがよいのです。ラジェンドラ王子は欲が深いので、殿下が欲深く見せたほうがかえって安心するのです」

自分と同じ、と思い込ませておくほうがよい、というナルサスの説明にすっかりアルスラーンは納得したようだった。

「殿下、私が地図を描き写す際に、ラジェンドラ王子の進路もくわしく聞かせていただきたいと付け加えてくださいませ。そしてその進路をガーデーヴィ王子に知らせてやればよろしゅうございます」
「しかし、それはすこし悪どいのではないだろうか」

アルスラーンのためらう様子を見て、ギーヴは相変わらず人のよい王子だ、と声に出さずにつぶやく。

「ご心配なく。どうせラジェンドラ王子が、正直に答えるはずがございません。そうすれば、結果としてガーデーヴィ軍を迷わせることができます」

ガーデーヴィが迷って戦力を分けるようなことがあれば、こちらは各個撃破すればよい。おそれをなし国都に立てこもったとすれば、こちらは国都までの道を安全に進むことができる。どちらに転んでもパルス軍に損はなかった。