027/宴席
「さあ、酒をいただこう!アルスラーン殿、おぬしも子供だからとて遠慮する必要はない」
宴が始まればラジェンドラは水を得た魚のように一層賑やかになった。酒を飲み、肉を食い、大声で喋り、シンドゥラの民謡を歌う。ギーヴはあれは歌などではない、水牛のいびきだと怪訝な顔をしてみせたが、とにかく王子は口を動かし続けていた。
やがてラジェンドラは自分の席を立つと、カナタの隣に腰を下ろした。実のところラジェンドラのことを最終的に捕らえたのはカナタであった。彼がやたらに装飾をつけた白い馬から落ちた後、背を地につけたその身体を甲冑ごと踏み付け、一寸の曇りもなく磨き上げられた剣先をその喉元に突きつけたのだ。
そんな風にして捕まえたのであったから、よもやラジェンドラ王子が自分の隣に座るなどとカナタも想像していなかった。些か居心地の悪さを感じてはいたが、もう片側にはナルサスが座っていることもあり、カナタはそのまま王子の酒坏に葡萄酒を注いだ。
「先程俺を捕らえた美人はおぬしであったな!いやあ、屈強な戦士に踏まれたのでなかったのは運が良かった」
「ラジェンドラ王子。先刻は非礼を働き、誠に何と申し上げてよいのやら。王子たる者の剣技に私のような者が立ち向かうには手を抜くわけに行きませんでしたので、どうぞお許しくださいね」
「よいのだよいのだ!おぬし、度胸だけでなく愛嬌もあるのだな、気に入ったぞ!」
大きな口を開けて奥歯まで見せながら豪快に笑うラジェンドラは、カナタの酒坏にも溢れんばかりに葡萄酒を注いだ。カナタは嫌な顔ひとつせずそれを享受するが、酒坏の端に口をつけただけで一滴も飲み込みはしなかった。
「ラジェンドラ王子の快活なご様子、見ていて楽しい気持ちになってまいります。よろしければシンドゥラの話をお聞かせいただけませぬか?」
自分の手の動きに合わせてラジェンドラの酒坏が傾き、その喉にしっかりと液体が落ちていく様を眺めながら、カナタはラジェンドラに話しかけた。これはナルサスの入れ知恵だが、とにかく祝宴で何かに困れば、情報収集をするつもりで臨めばいいとそう言われていたのだ。相手が酒坏を傾ければ、自分もそれを傾けるふりをする。相手の見えぬところで自分の酒坏を適当に空のものにすり替える。そのうちに自分が酒坏を傾けると、今度は向こうが傾けるようになる。ナルサスの教えをきっちりと守ると、十五分も経たぬうちにラジェンドラの頬が紅潮してきて、三十分も経てばその口はより一層滑らかに動くようになっていた。
「なるほど、シンドゥラ国の王都はそのようになっているのですね」
「そうなのだ。どこから攻められてもよいようにな、南にある拠点と西の兵舎とに戦力を分散させているときもあれば、その配置を少し変えてやるようなときもある」
「古い書物で目にしたことはありましたが、今もそのやり方は変わらないのですね。シンドゥラの民は伝統を重んじるよき民なのでしょう」
「わかってくれるか~!」
こうも見事に相手に情報を与えてしまうのが一国の王子かと思うと、周りにいたアルスラーンを含めて仲間たちは気の毒にすらなってくるのだった。カナタの様子を隣で心配していたナルサスも、ついには呆れ返った様子で葡萄酒を口に運んでいた。そのうちに酔って気が大きくなったラジェンドラ王子はファランギースを隣に呼んだ。そろそろ代わってやってもよいか、とファランギースはしなやかに歩み寄るとラジェンドラ王子の隣に腰を下ろした。両手に華という状態になりますますラジェンドラの機嫌の良さは限界を突破しそうな勢いであった。その様子を当然面白く思わないギーヴは、ファランギースとともにちゃっかり席を移動し、麗しい女神官の隣で酒坏を仰いだ。
「ああ、なんと美しい。どうだおぬしら、シンドゥラ国とパルス国とが盟約を結び、俺とアルスラーン王子が国王になれば、国境など容易く行き来できるようになろう。ところで、俺には正妻がおらぬのだが――」
両の手を二人の女性の肩に回して何の遠慮もなくそう言い放つラジェンドラだったが、ファランギースはその手を何の躊躇もなく払い除けた。カナタはその手に嫌悪感を覚えたが、今日はあくまで宴席での振る舞い方を師匠に見てもらわねばならぬと思っていた。横目でちらりとナルサスを見ると、彼の瞳はすっかりラジェンドラに対しての興味を失っているようだったので、カナタはもういいのかと遠慮なく反撃に出ることにした。
「ラジェンドラ王子、大変ありがたいお申し出ですが…」
そこから先、カナタが何と言ったかは、その場ではシンドゥラ語を理解するラジェンドラと背後のナルサスにしか分からなかった。
そうして彼女はすっかり出来上がった王子に向かってにっこりを微笑んでみせると、ちょうどよく部屋に戻るという殿下を送り届けてくると言ってその場を素早く立ち去った。
殿下を部屋に送り届けて、カナタは自分もそのまま部屋に行くつもりだった。きっとあの後もファランギースとギーヴあたりはあの陽気な王子と酒坏を交わしているだろうし、自分が戻る必要もないだろう。
宴での振る舞いはナルサスの教え通りにしたが、今日のあれでよかったのだろうか。少なくともラジェンドラからは気になっていたシンドゥラ国の地理についての情報も聞き出せたし、葡萄酒を飲むふりも相手のペースを早める方法もうまくいったと思う。カナタは一人で反省会をしながら、そういえば砂だらけの戦場から戻って湯浴みをしていないことに気付いた。
風呂に入り、再び部屋に戻ろうとしたそのときである。ちょうど廊下を歩いているエラムとナルサスの姿を見つけ、カナタは二人に駆け寄った。
「先生、エラム」
「カナタさま。浴場に行かれたのですか?」
「うん、砂まみれだったからね。ようやくさっぱりしたところ。宴はお開きになったの?」
「ええ。きっと今頃あの口の軽い王子とギーヴあたりが、酒に呑まれて地べたを這いつくばっているところでしょう」
「はは…さすが、ファランギース…」
そんな二人のやり取りを横に、ナルサスは複雑な表情を浮かべていた。
「カナタ、ちょっと来なさい」
エラムも、と短く付け加えたナルサスの声色を、二人は知っていた。ナルサスが彼らの師として、主人として、何か彼の思想を教示するとき――平たく言えば説教をするときに使うそれだった。
ナルサスとエラムが充てがわれた部屋に入り、カナタはナルサスの指示通りカーペットに座った。もちろん正座である。エラムはカナタのやや後ろに控えるように座った。
「今日の宴席での振る舞いについては、上出来だ。飲み込みの早い弟子を持って幸せなことだ」
「先生、そのように険しい顔で申されましても、素直に喜べません」
「何が言いたいか分かっているだろうな、カナタ」
「あの席でシンドゥラ語を使ったのがよくなかったでしょうか」
「使ったことではなく、その内容が問題だ」
依然として険しい表情でそう言い放つナルサスを見て、あの場にいたがカナタがシンドゥラ語で話した内容までは分からぬエラムは、まさかカナタの発言がこの先のシンドゥラ軍との関係性に何か致命的なものを産み落としてしまったのかと身体を強張らせた。
「ナルサスさま、カナタさまはあの場で何と仰ったのですか。私が聞いてもよい内容などではないのかもしれませんが…」
「おいカナタ。エラムに聞こえるように、もう一度言ってみなさい」
エラムはその身体に更に緊張を抱いてカナタの顔を伺った。しかしカナタはどういうことか、自分が責められているということを自負して少々申し訳なさそうにしているところはあるものの、どこにも悪びれる様子はないように見えた。ナルサスのきつく尋問するような口調とカナタの様子とに翻弄され、エラムは固唾を呑んでその言葉を待ち構えた