012/決戦

翌日。当初の予定通りに荷物持ちと称して男を雇い、偽の情報をカーラーンの下へ送り出すと、その後一行は目立つ街道を通って北に行く様子を見せた。全ては今夜の決戦のために行われた策だったが、カーラーンは見事に自らの思考に陥れられ、北の山岳地帯にその一千の兵を動かした。
ナルサスは兵の動向を観察し、これから行うことに何か抜け目がないかをことさら念入りに確認していた。カナタはその後ろに付き添いながら、己の目で戦を見届ける決意を固めた。

しかしながらその途端、突然何かが風を切って動く気配が感じられた。ナルサスが反応するのと同時にカナタもその気配を察知し、剣を取ったナルサスが素早くカナタの前に回り込み、カナタが同じく手持ちの短剣を構えたような姿で立った。影は物凄い勢いでこちらに斬りかかってきていたが、こちらが応戦しようと身構えたところで刃が打つかることはなく影の動きがピタリと止まった。

「驚いた、まさか女人がおるとは。おぬしら…ルシタニア兵ではないのか?」
「私たちはルシタニア兵ではありません」
「そちらこそ、カーラーンの部下ではないのか。何者だ」

この場ですぐに挙動を起こさぬということは、恐らく今こちらに向かっているカーラーンの隊とは無関係の者だろう、そう踏んだナルサスはあくまで構えを緩めぬままそう問いかける。

「俺はアルスラーン殿下に仕えるナルサス。後ろのは弟子のカナタだ」
「失礼した。───私はファランギース、ミスラ神に仕える者。アルスラーン殿下にお力添えしたく参上した。ずっとカーラーン公の部隊を尾行てまいったのだ」
「ほう、殿下に味方を!」

そこでようやくナルサスが剣を収めると、カナタもそれに従って短剣を鞘に入れた。目の前に現れた女性は、見るからに女神官とは言い難い出で立ちをした、見目麗しい美女であった。しかしその美女がどうやら敵ではないどころか味方だとわかり、緊迫は和らいだ。

「よし、さっそく協力してもらおうか」
「私を疑わないのか?」

今この場で大声を上げて居場所を知らさないということは信用に足るべきだ、と説明すれば、ファランギースは納得した表情で後に従う様子を見せた。

「後ろにいるのも合わせて、殿下にお仕えする者は六人になったな」

ファランギースの背後に潜んでいた男が自己紹介らしきものをするような余裕もなく、一行は移動を始めた。カーラーンの部下の怒号のような一声で戦が始まってしまえば、七人対千人とは思えぬほど戦況はこちらに傾いていた。地の理というのはこれほどまでに戦を左右するのだ、とカナタは初めてその目で見る光景に戸惑いと驚きを覚えずにはいられなかった。彼女も無我夢中で暗闇の中に弓を放ち、恐らく十人以上の敵兵を殺めた。弓を引く手が震えるたび、共に戦う仲間の顔を思い出してはその震えを抑え込んだ。

ナルサスの策と各々の活躍により、カーラーンの兵は退いた。ダリューンと一騎打ちとなっていたカーラーンは、最後は己の重みを支えきれなかった槍が折れ、その拍子に地面に転落し、自身の刃で左胸を刺すという結果になった。カーラーンの口から「正統の王」という言葉を聞いたのはその場にいたダリューンとナルサスの二人だけであった。他の者がその場に駆けつけたときには、彼はアルスラーンの命令は聞けぬと言い切ったきり、その口を閉ざすところであった。
アルスラーンはナルサスの口から『アンドラゴラス王が生きている』ということを聞き、しかしながらそれを喜ぶ間もなく既に息を引き取ったカーラーンの方に目を向け、また一つ決意を固めているようでもあった。

静まり返った辺りを見渡せば、カナタの瞳には嫌でも戦に敗れた戦士たちの屍が無残に転がっている様子が飛び込んでくる。これが守りたいものを守れる強さを持った結果だ。先日のエラムとの話を思い出しながら、それでもまだ触れば温かいかもしれない彼らの姿を直視することはやはり躊躇われた。

ファランギース、そしてギーヴと名乗った男が殿下に挨拶を済ませると、カーラーンの残党が戻る可能性を危惧してナルサスは一先ず場所を変えようと提案した。

「少し待ってくれナルサス。ファランギースに頼みがある」
「何をご用命でしょう、アルスラーン殿下」
「カーラーンとその部下たちの死に弔いの詞を捧げてくれないか。…エクバターナに家族がおる者もあったろう。それでも裏切りに加担せねばならぬだけの理由があったのだと思う」

アルスラーンのその申し出に、ファランギースはもちろん背後にいたギーヴも目を見開いて驚いていた。カナタは自分の心にずんと重くのしかかっていた気持ちを年下の王子に見透かされた気がして、些か罪悪感のようなものを感じる。今地に伏している彼らもまた、自分の守るべきもののために誇りをかけて戦った立派な戦士なのだ。

「ミスラ神は契約と信義の神だが、軍神でもある。どうか戦士を弔う神の詞を」
「承知いたしました」

ファランギースが弔いの詞を捧げている間、ナルサスとダリューンは新たに加わった仲間の様子を注意深く観察しながらも、いよいよ本格的に王と王妃の所在を確かめねばならないと相談を始めた。そうしてその場を立ち去ろうとする一行を見つめる不気味な存在があることを、精霊たちの報せを受けたファランギースだけが闇の中一人見逃さずにいた。

一方その頃、銀仮面卿───もとい、ヒルメスはまたエクバターナでその不気味な存在の下を訪れていた。水晶玉を覗き込むその男からは、生気というものが一切感じられない。代わりに醸し出されているのは、おおよそこの世のものとは思えないような禍々しい霧のような邪気だった。アトロパテネの一件から体力が戻りきっていないと語る男に、ヒルメスは若干の苛立ちを覚えながら問いかける。

「わざわざ俺を呼び出した用件は何だ」
「おお、それだ。───カーラーンが死んだ」

男は表情を変えず、一息で言い放った。

「裏切り者の汚名を着たまま野に屍をさらすはめになるとは……哀れなことよ…」
「…カーラーンは俺によく尽くしてくれた。彼の遺族は俺が責任をもってとりたててやろう。死因は何だ」
「アンドラゴラスの小せがれ……の一党にやられた」

それを聞いて初めて、銀仮面で隠れ切らぬヒルメスの口元が歪んだ。

「それとな銀仮面卿。おぬしに敵対する者が近くに来るようだぞ」
「俺に…?アンドラゴラスの小せがれか?」
「…いや違う。だがそれに近しい者のようだ。それと…」
「何だ。勿体ぶらずに言え」
「異界から来た者が一緒に見える。どうやらあちらの仲間のようだな」
「何だと…?!それは、お前と同じような、ということではなかろうな」

どんな方法かは分からないが、万が一アルスラーンの陣営にこのような魔道の力を持つ者がいるとすれば、それはヒルメスにとって厄介以上の何者でもなかった。声を荒げたヒルメスに、フードを深く被った男はことさらゆっくりと「そこまでは分からぬ」と言い放った。

「恐らく我らと同じではないだろう。しかし異界の者は…いずれこの世界の理を捻じ曲げるであろう。大きい、小さいにかかわらずだ。もしかすると、早めに処分しておいた方が身のためかもしれぬな」
「まぁいい、誰であれ退けるのみよ。これはいつもの礼だ」

小さな袋に詰められた貨幣を置き、ヒルメスは急ぎ足でその場を去った。残された男は怪しげな炎に照らされながら、得体の知れない笑みを浮かべているのだった。

その晩、アルスラーン一行は山岳地帯を離れ、人気のなくなった農村を見つけてそこをしばらくの宿にすることを決めた。ギーヴとファランギースの二名が加わったことでこれからの動きも相談しておかねばならなかったが、カーラーンの隊との戦闘で気力はもちろん体力も奪われているのは確かであったので、その日は全員が早々に床についた。

カナタは真夜中、何か自分の体の内から強烈な意思を感じて飛び上がるように目を覚ました。目を覚ましたばかりだというのに、すっかりと頭は冴えていて、それは今までに味わったことのないような鮮烈な覚醒だった。ふと外を見れば、昨日の晩よりいくらか月は暗く、空気は澄み渡っている。寒いという感覚も忘れてしまったような気がして、外套も着ずに薄着のまま外に出た。

まるで地上の光が全て奪われたのではないかと思うほど、空には星々が輝いていた。瞬きするたびに瞳から、身体の奥へ星が入り込んでしまうのではないかと感じる。左右上下、どこを見てもその輝きが尽きることはない。

その時、ふと建物の近くの木から何かの気配を感じ、カナタは一瞬身構えた。しかしながら、その構えは不要なものであったと、すぐに安堵の吐息を吐き出す。彼女には木の裏で、師であるナルサスが寝そべっているだけなのが分かったからだ。

「先生?」
「何だ、カナタ。眠れぬのか?」

近づいて声をかけてみると、ナルサスは身体を横たえてはいたが眠ってはいなかった。そのままの格好で視線だけをカナタの方に寄越してみせる。

「はい…ものすごく良い目覚めを迎えてしまって、星でも見ようかと外に出てきました」
「それはいいが、そんな薄着でこの寒空の下にいるのは見過ごせぬな。どれ、俺の毛布に一緒に入るか?」

くつくつと悪戯げに笑みを浮かべてそう言い放つナルサスが自分をからかっているのだと分かり、カナタはしりごみをしてすぐに建物に戻ると外套と毛布を持ってきた。そうして肩からすっぽりと毛布にくるまり、いつの間にか木に凭れて座る姿勢を取っているナルサスの横にそのまま腰掛けた。

「先生、今日はありがとうございました」

初めて目の前で動く策を見たことについて、カナタは興奮気味に話しだした。これまで頭の中だけで考えていたことが、実際になってみるとあんなにも見事に活用されるとは驚いたという話を、ナルサスは興味深く聞いていた。

「カナタ、今日のあれは、恐怖とは無縁であったか?」
「今思い出すと、確かにないとは言い切れません。弓を持つ手が震えるたびに共に戦う皆に頭の中で叱咤されているような心地でした。しかし…剣を取るには誰しも理由があり、それを冒涜しないことが私にできることかもしれない、と」

そんなふうに感じていることをカナタが話すと、ナルサスはその瞳を覗き込んでから彼女の柔らかな髪を撫でた。慈愛に満ちたその瞳に安心したのか、カナタの目には熱が集まり、じわりと温かな水を孕んだ。

「先生やエラムのことを悲しませたくありません。失いたくもありません。そして何より、私はあの殿下にこの国の未来を担ってほしい───きっと人を殺すなど考えなくてよい世の中になると思うのです。そのためには、どうしても先生のように…未来を見据えて策を実行する、判断力と強い意志を、身につけたいのです」

羨望と憧れと、それに覆い被さるようなカナタの野心の灯った瞳とその言葉に、ナルサスは背中を走る神経の束に熱い金属を流し込まれたような、そんな感情が燃え立つのを抑えきれなかった。カナタの底知れぬこの欲望は、一体どこからやってくるのだろう。そんな考えても意味のないことを頭の片隅に追いやっていると、カナタが再び口を開いた。

「先生、私も王都へ連れていってください。この世界のことをもっと知り、私は私の未来を描きます」

先程まで赤く轟々と燃えていたその瞳が、急に一点のゆらぎもない蒼い炎になったような、そんな気がした。それはナルサスにさえ、自分が育てたと言い切るには些か度を超しているように思われた。アルスラーンの姿に感化され、エラムに激励され、そういう刺激が全て彼女の真髄に一滴残らず注ぎ込まれているようだった。

こうなれば師としても、カナタにより広い世界を見せてみたい、そしてその先にあるものを確かめたい、という欲が疼いてくる。ナルサスは火傷をせぬように彼女の瞳を覗き込むと、何も言わずにゆっくりと頷いてみせた。