013/潜入

王都ではルシタニア兵が大きな顔をし、街中のいたるところで兵達が奴隷に威圧的にしている様子が見られた。思えばカナタはその時、この世界に来て初めて『奴隷』というものを間近で見た。自由を奪われ、人としての尊厳を奪われた彼らの瞳には仄かな反骨心こそ宿っているものの、一寸の光も見えなかった。

外套のフードを目深に被って、ダリューンとナルサス、それにカナタはエクバターナの中心地を歩いていた。敵地に赴いていることには違いないが、ダリューンもナルサスも王都の地図などすっかり頭に入っているので、そこらのルシタニア兵よりも抜け道や隠れ家には詳しかった。中心地で火の手が上がっていたため何かと思って来てみれば、イアルダボート教の大司教と名乗る男が楽しげにパルスの建国以前から千年にわたって蓄積されてきた千二百万巻の書物に油を注ぎ、たいまつを投じたところであった。おおよそ人のやることとは思えぬその光景に、カナタは言われようのない嫌悪感を覚えた。その光景を見たパルスの人々からは、押し殺しきれぬ怒りと悲哀の声が漏れた。それには勿論あとの二人も似た感情を抱いたところだったが、それは嫌悪感や悲壮感どころではないれっきとした殺意であった。珍しく一片の迷いも見せずにあの男は俺に殺させろと言い放つナルサスのその何も遠慮せぬ表情が、全てを物語っている。

夕暮れになってもまだその炎は消えず、日が落ちてようやく燻った煙を出すようになったようだった。すっかりルシタニアへの敵意を抱いた一行はそれを最後まで見届けることはせず、本来の目的はアンドラゴラス陛下とタハミーネ王妃の居場所に関して情報収集をすることであったと、足取りを下町の方面へと向けた。

「イアルダボートとは、もともと古代ルシタニア語で『聖なる無知』の意味なのだそうだ」

下町を慣れた足取りで移動しながら、ナルサスがおもしろくもなさそうに説明した。彼らの神話によれば、もともと人間は苦悩も疑念も知らず幸福に暮らしていたが、神の禁じていた知恵の実をかじったばかりにその楽園を追放されてしまったのだという。一体そんな神話のどこにどんな信憑性があるというのか分からないが、それを信じているという輩がこの世には一定数存在するのだ。

「私は、そんなものは、ただの理由付けに過ぎぬと思いますが」
「しかしなカナタ。彼らは生まれた時からそれが何より正しいと教えられている。自分の大切にしているものをただの理由付けと言われればどうだ?」

どんな世になっても宗教というものは廃れぬものだな、と思うと同時に、カナタはそんな根拠も理由もないものが簡単に人の支えとなってしまうことから、いかにこの世界に生きる日々が人々にとって不安定なものかを察した。

「要は彼らの聖典によれば、彼らの神は信徒たちに世界でもっとも美しく豊かな土地をあたえると約束したそうだ」
「だからパルスのような豊かな国は、当然ながらに自分たちのものであると?」
「そうだ、彼らにしてみれば、俺たちこそが不法な占拠者ということになるのだ」
「勝手極まる話だな」

それを心から信じているか、信じるふりをして自分たちの侵略を正当化しているのかは不明だ、とナルサスは加えた。
三人は通りの中でも一際賑わっている酒場に入ろうとした。しかしそこで、カナタが何かに気付き足を止める。

「どうかしたのか」
「いえ…私は後から合流します。すぐに戻りますから、先に行っていてください」
「おい、カナタ!」

言うが早いか、後でこの酒場で落ち合いましょう、と言い残してカナタは路地へ入っていった。確かに彼女は地図の上では王都を知っているし、ここに来るまでにこの辺りの地区の説明もしているから、危険なところへわざわざ足を踏み入れることはないだろう。弟子の行方を気にしつつ、ナルサスは酒場の扉を開けた。

「追わなくていいのか?」
「あれにも思うところがあるようだ…俺たちは先に用を済ませよう」

酒場からよろめき出てきた一人のパルス兵がこちらにぶつかると、カーラーンの部下であることを自ら名乗った上、ダリューンの顔を見て青ざめて逃げていった。手間が省けたと言わんばかりに、自らが食えない餌となって情報を引き出すのだった。

一方、路地に入ったカナタは、一人の故買屋のところへ足を運んでいた。商品を仕入れてきたのだろう男の引いていた荷車に、何か見過ごせないものを見た気がして、後を尾行ていたのだ。男は寂れた小屋の中に商品を運んでいた。その運ばれていく商品の中に、どうやらカナタのお目当てのものはあった。パルス語で書かれ荘厳な装丁のなされた書物を数冊見つけていたのだ。どう考えてもこの場に似つかわしくない、そして男には価値も分からないであろう代物ものだった。

「少し見させてもらってもいいでしょうか」
「ほう…お前さんのような若い女子が、こんなところをうろついているとは…まぁ、もらえるものがもらえれば何でもいい」

男は頭の先からつま先まで、カナタを品定めするような目で見ていた。カナタはそんな男の視線を物ともせず、雑多に積まれた本の中から一冊の本を引きずり出すと、やはりそれが目当ての物であったため、男に銀貨の入った袋を差し出した。しかし男はその袋を眺めたまま受け取ろうとしない。

「…足りないと?」
「いや、お前さん、この界隈のことを何も知らぬようだな。その本はパルスの書物庫から儂が盗んだ。それに価値を見出す者が、ここでどんな風に扱われているかを知っ」

言い切る前に男の喉元から血が吹き出した。噴血がカナタの頬を濡らす。
判断が早急であったかと一瞬の後悔が頭を過ぎったが、叫ばれる前に殺らねばならなかった。誰に言い訳するわけでもなかったが、カナタはそれでも男を斬ったことに何も思わぬわけではない。自らの手で起こしたことに責任を持てと頭の中で己を叱咤しながらも、ナイフを持つ手と唇が未だに震えている。

男の脇に銀貨を数枚置くと、カナタはそこにあった書物を掻き抱くようにして小屋を後にした。

「…随分血生臭い小娘だな」

酒場に戻ろうと路地を早足で駆けていると、闇夜を切るような鋭く低い声が耳元に届く。明らかに自分に向けられているであろうその声に、ひとりでに足は歩みを止めてしまった。獰猛な肉食獣に見つめられた小動物のような、どう考えても立ち向かってはいけない、しかし一目散に逃げ出すこともできない壮絶な緊迫がカナタを襲ったのだ。
カナタはその声の主をその瞳に捉えると、得体の知れぬものではなく恐らく一人の人間であるということを理解し、ようやくそこで唾を飲み込んだ。この場から立ち去らねばならない。そう頭では理解しているのに、脳からの指令を全身が拒否している。

「な、何者だ…!」

幾重にも重なる拒否の後、ようやく声が出た。その震えた問いかけに、闇夜に照らされて怪しく光る銀仮面の男は低い笑い声を上げてみせた。声を出したことで震えた脚を制したカナタは、その不吉な声に、明らかに相手が自分の敵だということを悟った。

「随分情けない声しか出ぬようだな、小娘。我が名はヒルメス」
「ヒルメス…?」
「貴様に恨みがあるわけではないが…アンドラゴラスの小せがれの前に、貴様を葬っておかなければなるまい。異界から来たというお前が、何か事を起こす前にな」

ヒルメスと名乗った銀仮面の男の口から、カナタが異界から来たという言葉が放たれ、そこからはどうしていいか分からず走り出した。異界から来た私が事を起こす前に、と言っていたが、その何かを知っているような口ぶりではなかった。兎にも角にもカナタの存在を排除したい―――そんな意思を感じる言種だった、と油断すると口から溢れ出しそうになる恐怖を押さえ込むように直前の記憶を辿った。

全速力で走っても、すぐに追いつかれてしまうに違いない。カナタはそう悟ってはいたが、王都に来る前にナルサスとダリューンから聞いたこの下町の構造を必死で思い出した。銀仮面の男は屋根を伝ってこちらを追ってくる、であれば、こちらの移動を悟られぬよう、屋根の下をくぐっていけるようなところを走るのが得策だろう。そう長くは保たないかもしれないが、ナルサスとダリューンが敵を誘い出すのに使いそうなルートも予め聞いている。そこへ誘い出せば或いは、彼らのどちらかに出会うことができるやもしれない。彼らに出会わなければ、いっそ酒場に駆け込んで騒ぎを起こすという手もあろう。走馬灯の見えそうな危機の中、カナタは持てる限りの全ての考えを振り絞って必死に駆けていた。

何度目かの角を曲がったところで、カナタは勢いよく何か大きなものにぶつかり、その反動で膝から崩れた。その頃にはすっかり涙目になっていたカナタの歪んだ視界に、こちらを心配そうに覗き込む、紛れもないダリューンの姿があった。