011/不足

一行は山を下りてしばらく馬を走らせると、人目につかないような古い家屋を一時の隠れ家とした。やはり王都の様子が分からないのが不安なのか、アルスラーンの表情は決して明るいものではなかった。

「殿下のご不安な気持ちはお察しします。エラムを偵察に行かせましたので、今はまずそれをお待ちください」
「ナルサス…すまぬ、私は気持ちが揺らいでばかりで」

どこまでも優しいこの少年は、この国の数奇な運命を背負っていくにはあまりにか弱く、今にも折れてしまいそうに見える。しかしそれは決してアルスラーン個人に至らぬところがあるわけではない。今日までの環境がそうさせたのだ。ここでは誰もがその横顔を見つめるだけで、咎めたりはしなかった。

エラムは偵察から戻ると、王都が完全にルシタニアに陥とされていたこと、アンドラゴラス王の行方に関しては、街の者もカーラーンの部下も知らぬ様子であったこと、アルスラーンを捉えようとカーラーンが千騎以上の隊を率いて城を出たことなど子細に話した。アルスラーンの存在を手に入れれば、ルシタニア側にとっても、それに抵抗する勢力にとっても、大きく戦況が左右される。

「カーラーンは私がここに隠れていることを知らないはずなのに、どうやって見つけ出すつもりなのだろう?」
「私がカーラーンで一刻も早く殿下を捉えようと思ったら───まず、どこか適当な村を襲って焼きます」

ナルサスは研ぎ澄まされた氷のような鋭さと冷酷さをもって殿下の問いに応えた。村を焼いてそこからどう動くかは幾通りも考えられるが、殿下が姿を現さない限りそれを続けていくだろう、とも伝え、殿下はみるみるうちに氷柱を突き立てられたような青ざめた表情になっていった。

「まっ 待て!カーラーンがそこまでするだろうか?あれでも彼は武人だ!」
「王と国を売った模範的な武人ですな」

そう思いたいのか、それとも本気でそう思っているのか。どちらにせよ今に及んでそのような考えを持つ殿下に、ナルサスは最後の刃を飛ばした。すっかりその刃に己の支えを砕かれたアルスラーンは、しばし沈黙してから、絞り出すような声でカーラーンがどこの村を襲うのか分かるかと尋ねた。

「カーラーンめがどの村を狙うか、もちろんわかります」
「どうやって?」
「彼の部隊が案内してくれます。後ろに付いて行けばよろしい。そうなさいますか?」

ナルサスの問いかけにアルスラーンは決意の表情で固く頷くと、声を張り上げ出立の意を表明した。
エラムに導かれながら拙い動作で馬に鞍を着け、一刻でも早くこの場所を発とうとしていた。そんなアルスラーンを横目に見ながら、ナルサスとダリューン、カナタは会話を交わす。

「カーラーンほどの男が、白昼あからさまに隊を組んで王都を出るなど…」
「『殿下を誘い出す罠』か?ありうることだな」
「…と思ったらなぜ、お止めせぬ」
「ダリューンよ、どのみちカーラーンの口からでなくては、裏面の事情も知りようもない。もちろん、こちらとて何も策を練らぬわけではないしな。カナタ、調べはついているか?」
「はい、先生。先程エラムから聞いた情報から、カーラーンの進路を数通り考えてみたので、この後は一先ずこちらの村付近に向かいましょう。恐らく…私達の足取りを、あちらはペシャワールに抜けていくか、ダイラムへ向かうかと考えているでしょうから、この印をつけた辺りの村から狙うのではないかと」
「なんと…この短時間で、よくそこまでの見当がつくものだな」
「うむ、カナタの予測通りで問題ない。しかし…いつもは熟考するおぬしが珍しく即決したものだな」
「カーラーンの隊と鉢合わせになっては勝ち目もありませんし、先回りできるルートを絞っていった結果多くは残りませんでした。それに…殿下のあのお顔を見ていたら、のんびりと考えている暇はありません」

そう語るカナタの表情は穏やかに微笑んでいたが、瞳にはいつも以上にぎらぎらとした興奮を湛えていた。村が焼かれると聞いて居ても立ってもいられず自ら動き出すアルスラーンの姿を見たことが、彼女の闘争本能のようなものを揺り動かしたのだろう。
そう思うと、ナルサスはあの王子の器量にますます期待を膨らませるとともに、これまでに見たことのない表情を引き出されたことに少々の嫉妬心と寂しさのようなものを感じるのだった。

「ダリューン!ナルサス!カナタ!早く出よう!こうしている間にも、村が襲われているかもしれない!」

アルスラーンのその言葉に、三人は目を見合わせて頷いた。



カナタの予想通り、カーラーンの隊はすぐに彼らに見つかることになる。むしろ向こうも、見せつけるようにわざと群れをなして歩いているようにすら見えた。隊を見つけ、彼らの野営地を見つけ、一行は再びそこから策を巡らすことにした。何しろ相手は千人、こちらはたったの五人だ。その人数差を埋めるため、そしてカーラーンという切れ者を策に陥れるためには、それ相応の準備が必要だった。
再び地図と睨み合うカナタのことを、既に他の者は信頼と期待の目で見ていた。しかしナルサスだけがその様子を怪訝そうに眺め、彼女の傍に歩み寄る。

「カナタ、見当はついたか?」
「ええ、おおよそは…。先生、カーラーンの兵たちは一千と申しておりましたが、その者たちは元々パルスの兵士なのでしょうか」
「多くはパルスに家や家族を持つものだ。カーラーンの元々の部下も多くいるだろう。…それがどうした?」
「いえ…どうにも。先日山を下りるときにはダリューンさまがほとんど一騎駆けで敵を退かせてくれました。血もさほど流れずに済んだでしょう。ただ…」

そういうことか、とナルサスは小さく唸ってみせた。確かにこの世界に来たばかりのカナタのことを思い出せば、虫も殺せぬような優しい―――と言えば聞こえはいいが、意気地も覚悟もない少女だった。少しずつ近場で小さな動物を射止めて持ち帰るようになったり、時にはエラムと大物を捕まえてきてその捌き方を習っている様子もあったが、人を殺めたということはこれまで経験がない。ナルサスが意図せずともエラムがそうさせなかったし、二人ともが少女に護身の剣は教えたとしても人を殺める方法を教えはしなかった。
それが今回の策でいきなり千人の、彼女にとっては何の恨みもない人間を亡き者にせねば自分が生き残れないという事実に怯えるのも訳はない。その小さな手が小刻みに震えているのを、ナルサスほどの者が見逃すはずはなかった。

「昨日から頭を動かしすぎだ。今回の策については、俺から殿下に伝えよう」
「先生、待ってください。私から伝えさせてください!」
「駄目だ。任せられん」
「しかし、私とて殿下のお役に立ちたいのです!」

カナタがナルサスの弟子になったばかりの頃、なかなか解けないような難題に出くわすと知恵熱を出してまで頑なに考えを止めないことがあった。その頃の表情と全く同じそれを見せるカナタは、半ば意固地になっているだけだとナルサスは理解していた。そしてこの状態になっては何を言っても聞く耳を持たないことも、師である彼が誰より知っている。長引かせず、カナタを諦めさせるにはやはり真理を突きつけるしかなかった。

「ならん!己の気の迷いで味方を惑わせる策士がいるとすれば、それはどんな強大な敵よりも厄介だ!」

すっかり熱の入ったナルサスの言葉にまだカナタは何か言いたげであったが、彼女の目の前から地図は奪われ、ナルサスは何も言わずその場を後にした。

「情報を二段階で落とし、信じ込ませます。人はただ見たものや聞いたものより、自分の頭で判断して正しいと思ったものを疑わない性質があります」

月明かりの下、ナルサスの話す言葉に一同耳を傾けていた。山を下りるときに用いたような単純な手では、カーラーンを欺くことはできない。そこでカナタは、わざとこちらが「偽の情報を流した」と思わせ、一行の後を追って不利な地形へ誘い込むことを提案していた。

「殿下、ここは北の山岳地帯に敵を誘い込みます。明日の朝から動き出しますゆえ、今晩はしっかりとおやすみください」
「ナルサス、しかしカナタが、」

先程の二人のやりとりは全て筒抜けだったし、初めてあの光景を見たアルスラーンはカナタのことを心配しているようだった。あれからしばらく時間が経っているのに、まだ何か言いたげにしているカナタの様子を見て、アルスラーンが焦って口を挟もうとする。

「殿下、恐れながら甘い考えを持っていては足元を掬われます。此度の戦は決して楽なものではないと、殿下においてもご理解いただけているはずです。よろしいですな?」
「……分かった。皆も、十分に休んでくれ」

しかしながら、有無を言わせぬようなナルサスの物言いに押し負け、その場は解散となった。カナタは誰とも会話を交わすことなく、煮えたぎった頭を持て余しながら野営地へ馬を走らせた。

その日は見晴らしの良い高原での野営になった。一行は大きな岩をくり抜いたような場所で焚き火をし、寒さを凌ぐために夜通し火をくべた。カーラーンの陣営と場所が離れていることもあり、その日はダリューンとエラムが交代で見張りをし、あとの面子は出来る限りの休息を取ることになった。

「ダリューンさま、交代しましょう」
「エラムよ、しっかり休めたか?まだ交代の時間には早い気もするが」
「火に当たってここにいるだけなら、休んでいるようなものです」

その返答にダリューンは軽く口元を緩ませると、明日のために心身を休めようとすぐに休息に入った。エラムは簡単に周囲を散策し、戻ってくると少し弱まったその火に薪をくべ始めた。パチ、と時折はぜる木の音だけがその場に響く。

「…ム、エラム」
「カナタさま。どうかしましたか?」
「声が大きい、静かに」
「………明日のために休むように、と、殿下も仰っていたでしょう」
「火に当たってそこにいるだけなら、休んでいるようなものでしょう?」
「全く、あなたというお方は…」

いそいそと毛布を被ったままの姿で隣に腰を下ろす姿を見て、エラムは一際大きく溜息をついた。しかしながらすぐに荷物の中から鍋を取り出すと、同じく取り出した水と茶葉をその中に入れた。

「これを飲んだら寝てくださいよ」
「ありがとう、エラム」

邪気なく微笑むその表情を見せればエラムがそれ以上何も言わぬことも知っていた。この世界に来てから、ナルサスとはもちろんだがエラムとも同様に長い付き合いであるし、何なら気取らずに話を交わす回数の多いエラムの方が、カナタのことを知っている部分も多かった。

「今日ね、先生に叱られて、弟子になったばかりの頃を思い出したの」

独り言のように話し始めるカナタを横目で見ながら、エラムは相槌も打たずただ傍で薪をくべ続けていた。

「エラムは…初めて人を殺めたときのこと、覚えてる?」
「覚えていますよ。どんな顔の奴だったかということは忘れてしまいましたが、その時の感覚は今でも」
「怖かった?」
「あの頃は…まだ幼かったこともあって、怖いという感情よりも、達成感で満たされたようではありました。目的を達成するのに、それだけが手段ではないことはナルサスさまが教えてくださいましたが、何も持たぬ者にはそれが全てになり得てもおかしくない――と、今でも思っています。それに恐らく、カナタさまのいた世界と違って、この世界では恐らく人を殺す、殺されるということ自体が身近なのでしょう」
「そうね…私のいた世界では、人を殺したらケーサツっていう組織に追われて、捕まればその人は殺されるっていう制度があったもの。先生に言われて思ったけど、私には一つ一つの命が重すぎて、何も考えられなかった」
「その様子からするに、随分頭も冷えたようですね。まぁ、それがカナタさまの良さといえばそうだとは思いますが、敵を殺さずにいればカナタさまが代わりに殺されます。考えられないことですが、例えばナルサスさまがそうなったとしたら―――私は無駄だと言われても、手にかけた者を地の果てまで追いかけて、同じ目に遭わせるでしょう」
「守るために必要だ、っていうこと?」
「そこまで分かっていただければ大丈夫でしょう。私からすれば、今日のあれはいつもの師弟喧嘩の延長のようなものでしたよ。違いと言えば、珍しくカナタさまが言い返さなかったことくらいです」

目を合わせずにそう言っているエラムが、憎まれ口のように見えて密かに自分を元気づけようとしていることはもちろんカナタにも理解できた。

「私には難しいことはわかりませんが、ナルサスさまはどうでもいい相手にはあんな風に真剣に声を荒げたりしません。それをカナタさまがそう受け取ったのであれば、これからそのお考えを持って何かをなせばいいのでしょう」

手厳しい、それでいて優しい激励に、カナタは思わず嬉しくなるのを必死で抑えながら、渡された茶にゆっくりと口をつけるのだった。

「ナルサス…おぬし、起きているのがバレるぞ」
「ダリューン!声を出すな、今いいところなのだ!」

そんなやり取りが彼らの背後でなされているとは程知らず、ナルサスの弟子と待童はただ燃え尽きてゆく薪とその炎のゆらめきを眺めていた。