007/誘拐

カナタが港に着くと、ちょうどアルスラーンとその臣下たちもそこに揃ったようだった。一行は各々が打ち合わせていた通りに動く。カナタもまた、河川を塞き止めていた土嚢を撤去するようグラーゼの部下たちに指示を出し、海流に変化が加わるのを見守った。
間もなくして、海流の変化に海賊たちは気付いたようであった。二十隻ほどの船はギランの街に近付くことができず、沖合で船を止められ、退くにもひけぬ状態に陥っている。その様子をカナタとナルサスは並んで見届けていた。

「なるほど、やはり海賊たちはこの海域の海流を知り尽くしているようですね」
「ああ。その上交易船の情報が手に入るとあれば、少々知能の足りない奴らでも船を襲うことができる、というわけだ」
「しかしナルサスさま。今日は交易船を狙って、というわけではないようです。奴らの裏で手を引いている者の出した指示ではないのでは」
「そうかもしれぬな…カナタ。海賊どもを捕らえるのはダリューンに任せ、お前はギラン周辺の海域について少し調べ物をしてくれ」
「軍機卿の命ですか?」
「…それはもういい。頼まれてはくれんものかな」
「冗談です、ナルサスさま。お望みとあらば、何でも調べてみせましょう」

ナルサスもカナタもとどの詰まりは根っからの軍師なのである。目の前に敵が現れれば、二人の間に生じた亀裂など些細なもののようだ。先日のやり取りも彼らの中ではこれで和解ということになったようだった。

「ナルサス卿、そろそろいいか?」
「ああ。やってくれ」

ギーヴが高らかに声を上げると、グラーゼの部下とギランの駐屯兵たちが、油の入った樽を乗せた筏を海に流した。ギランの港から沖合に向けて急激に変化を加えられた海流に乗ったそれは、瞬く間に海賊たちの船のところへと辿り着くであろう。港と筏との間にやや距離ができると、今度は兵たちが一斉に火矢を放ち、樽に着火した。

黒い煙を上げた筏が海賊たちの船へ衝突し、あっという間に火は燃え移った。海賊の頭らしき男がなんとか火を消せと叫ぶが、その声も熱気と煙の息苦しさに虚しく飲み込まれた。そうしているうちに、グラーゼの船がダリューンを乗せて海賊たちの船へと到着し、大して刃を交えることもなく海賊たちのほとんどは縄をかけられ、海に飛び込んでいった少数の者以外は地下牢に入れられることになった。

海賊たちを捕らえ、一時ギランの街には平和が訪れたように見えた。アルスラーン王太子殿下が海賊を退治した、という噂は瞬く間に広がり、それと同時にギラン総督が解任になったということも知れ渡っていった。ナルサスは元総督のペラギウスが溜め込んでいた金貨を、銀貨二十万枚分換金すると、それをギランの街の民に王太子の名で還元した。

「銀貨二十万枚も街の人に返してしまうなんて、随分大盤振る舞いですね」
「そういうことが必要なときもあるのだ。王太子アルスラーン殿下の名を売るとともに、我々はペラギウスとは違う、民に公平性をもたらすためにいるのだ、とな」
「これをきっかけに、ギランの街がよい方向に変わっていくといいのですが」

銀貨をもらいにくる民の列を眺めながら、ナルサスとエラムは会話を交わしていた。しかしその様子をどこかから見ていたシャガードが現れ、どうにも気に食わないといった表情でナルサスに苦言を呈した。

「それはどうだろうな。あんな貧しい連中のご機嫌取りをしたところで、何になるというのだ。このギランは、俺たち商人によって成り立っている都市なんだ」
「分かっているさ。だが不平等をいつまでも見過ごしているわけにもいくまい」
「まさか、おぬしの口からそんな殊勝な言葉を聞く日が来ようとは。昔とはすっかり逆になってしまったな」
「確かに、あの頃はおぬしが何かと夢や理想を語り、俺がそれに水を差すのがお決まりだった」

ナルサスは若かりし頃の旧友との思い出を懐かしむように、目を伏せた。しかしそれも、今の彼が何にかえても譲れぬ理想の前には、蜃気楼のように揺らいで見えた。

「ともかく、これで終わりではない。どうやら海賊どもを捕まえてそれで終わりというわけでもないようだ」
「終わりでない、とはどういうことですか。ナルサスさま」
「うむ、カナタに調べさせて分かったが、あの海賊たちは港に高価な品や貴重な積み荷を乗せた船が出入りするときばかり、狙いすましたように現れている」
「海賊に情報を流している者がいるということですか」
「そういうことになるな」

冷静に語るナルサスの涼し気な顔とは反対に、それを聞いているシャガードの表情には何か敵意のような熱を持ったものが見えるようでもあった。声をやや低くして、ナルサスの旧友は切り出した。

「危ない橋だな。そいつは無事では済まないだろうよ。ああいや、本当にそんな者がいるとしたら、なかなかの策士ではないか」
「なかなかの策士?私はそうは思わんな」

見えない熱で武装したシャガードの言葉が届くと、ナルサスはその一瞬でそこに込められた確かな意図を感じた。

「誰かが富を得れば誰かが富を失う。それが世の習いだろうが」
「その者は他者を争わせ、自らは隠れたまま甘い汁を吸っているだけだ。そんな輩は策士などではない。卑劣漢というのだ」
「卑劣も潔癖もあるものか。それが商いというものだ。より多くの富を得たものが勝者となる。この港町では、それが全てだ!」
「勝者?おぬし、ギランの太陽に目が眩んで、世の矛盾を見抜く視力を失ったと見えるな!」
「…残念だよナルサス。随分な空想家になってしまったようだな。おぬしはもう少し、頭のいい男だと思っていた。カナタ殿が尊敬した師とやらは、既に存在しないようだ」

吐き捨てるように言ってその場を去っていくシャガードを、ナルサスは見送った。しかし彼の脳裏に浮かんだのは、自分は彼にカナタが弟子だったことを伝えただろうかという疑念であった。大した事のないように思われるそれがやけに思考に引っかかる。カナタ本人が直接話したのだろうか。
隣にいるエラムは、さすがに主人が旧友と気まずい雰囲気になっているのに何も思わないわけではなく、不安げにナルサスの顔を見上げる。

「あの…」
「すまぬエラム、心配をかけたな。…実は以前、俺はあの男にお前とカナタを預けようと考えたことがあったのだ」
「山を下りる前に言っていたギランの商船主とは、あの方のことだったのですか」
「そうだ。だが今は、お前もカナタも自分の意思でそれを拒んでくれて、心からよかったと思う」
「ナルサスさま…」

微笑むナルサスにほっと肩を撫で下ろしたエラムであった。
一方でカナタは、街を歩く人々にある島のことを尋ねて回っていた。一通り情報を集めきって、そろそろ日も暮れてきたからと王太子府へ戻る道を歩む。戻りながら彼女は、そういえばシャガードが連れていってくれた武器商人の店がこの辺りだった、と思い、店主に詫びを入れるために店に向かった。

「あれ、閉まってる」
「何か御用でしたか。カナタ殿」
「シャガードさま!ちょうどよかった、朝は突然に飛び出してしまい、申し訳ありませんでした」
「街の一大事を救っていただいたのです、詫びなど必要ございません。そうだ、ここの主人から剣を預かっているので、今お渡ししよう」
「何から何まで、ありがとうございます。これまで自分で剣を買うということがなかったので、良い経験になりました」
「そうか…。ところで、カナタ殿」

シャガードはゆっくりと目を細めると、カナタの身体を壁際に追いやるようにして、自身の右手を壁についた。彼のややつり目がちで大きな瞳が、一瞬にしてカナタの眼前に迫っていた。流石に剣を抜くわけにはいかず、冷静にどうしましたかと問いかける。

「貴女に近付くのに何か理由が必要だというのなら、正直に申し上げてもいいのだが」
「シャガード、さま」

左手で顎を軽く持ち上げられ、否が応でも目線がかち合う。

「どこまでも初心なお人だ。これまで、誰かを見ると胸が苦しくなるとか、他に何も考えられなくなるとか、そういう経験をしたことは?」
「ありません…」
「一度もかな」
「……分かり、ませぬ」
「今この時、俺がそうだと言ったらどうする?」

カナタの心臓は高鳴っていた。しかしそのまま唇を近付けられ、身体を強く抱かれたらと思うと、そこにあるのは期待などではなくこの場から逃走したい気持ちだった。本能的な逃走の衝動から、シャガードが己に向けてくる感情がいつのまにか紳士的な好意などではなく、何か自分を追い詰めるようなものに変化していることに気付く。
意識をシャガードに全て持っていかれそうになりながらも、何とか先程自分のものになったばかりの剣の柄に手を掛ける。

「シャガードさま、後生ですからお下がりください。私は貴方に向ける剣は持ちませぬ」
「おっと、これはこれは。本当に純真なお方だ。俺は何も、貴女に危害を加えるつもりはないのに」

そう言ってシャガードは両手を上げてカナタから離れた。彼には悪気があったわけではなかった、と自身の警戒に恥じるような気持ちを持ちながら安堵したのも束の間。すぐさま襲い来る殺気に気付いたが、カナタの反応は一瞬遅れた。シャガードの背後から、そして彼女の両脇から、海賊の仲間と思われる男三人が一挙に襲いかかったのである。

彼女は迷わず剣を抜いた。しかしその剣は、ほんの一振り海賊の男に太刀を浴びせるや否や、その刀身を幾方向にも飛散させ、ものの見事に柄だけになった。剣に細工をされたと気付いた時には、何か強い酒気を含んだ布ようなものを鼻口に押し当てられる。直後に後頸部への衝撃が加えられ、彼女は緩やかに意識を失った。