最強マルダーン計画 8

「ミレイ、本当に行かぬというのか」
「祖父の危篤を報せる文には、私に帰国を命ずるという文言は一つもございません。以前にもお伝えした通り、私はお家にとって目的を果たさぬ身。自分の意思で国に帰ることなど以ての外でございます。祖父もそれを望まないでしょう」
「…それならば、俺が」
「ダリューンさま。よもや私の境遇に同情なさるなどということはありますまい。私の見初めが誤っていたとそう仰るおつもりでございますか」

いつも以上に堅苦しい口調でミレイは言った。それは強がりでも冗談でもない、彼女のこれまでの生き様から導かれた当たり前の牽制だった。ダリューンはその場を下がり、どうしたものかと思案を巡らせる。
そうして結局行き着くのは友人の部屋、というのが何ともお決まりなのだが、ダリューンは王都において彼以上に頼れる人物を知らない。

「なんだダリューン、もう帰ってきたのか。子種は無事か」
「そんなことは今いいだろう!ナルサス、ミレイの作った料理は食べたか」
「ああ、大変にうまかった。ミレイ殿にも伝えてくれ」

険しい表情と噛み合わない質問を投げかけるダリューンを多少不審に思いつつも、ナルサスは確かにその舌を満足させた少女の料理について冷静に感想を述べた。

「では昼食の礼をしてもらおう。俺をすぐに絹の国に行けるようにしてくれ、ミレイの護衛付きとしてな」
「いきなり何だ。それが人に物を頼む態度とは思えん」
「頼んでなどおらん。礼だと言っておろう」
「やれやれ。だから一体何だというのだ、事情を聞かせろ。ミレイ殿が再びパルスの土を踏み、俺に料理を振る舞うというのなら考えてやらんでもない」

既におおよその事情を察しているような軽口を叩いて、ナルサスは余裕のある笑みを見せた。そうしてダリューンが詳細を話してみせれば、ナルサスはすぐさま陛下の下へ向かい、黒衣の騎士に今殊更に必要であろう物の支度に取り掛かった。

ミレイは夜空に浮かぶ月を眺めながら、遠く海の向こうの故郷に思いを馳せていた。ダリューンに向けて自分の口から出た言葉と、彼女の本心に違いはなかった。自分の精神に刻み込まれた家の教えに背くつもりもない。それでも自分に正義とは何かを説いてくれた、そしてダリューンのことを話してくれた祖父の顔を思い出せば、全く何も思わぬといえるほど強靭な精神でもなかった。

「ミレイはまだまだ鍛錬が足りませんね…お祖父様」

せめてここで涙を流すのは見逃してほしいと、彼女はその頬に温い液体を伝わせた。しかししばらくすると部屋の扉を叩く音がその感傷を遮り、彼女に涙の跡をごまかす間も与えず、黒衣の騎士が姿を現した。

「ミレイ、返事も待たずにすまぬ!いやそれより、聞いてくれ。おぬしに国王アルスラーン陛下より帰国命令が出された」
「ダリューンさま、一体どういうことなのですか」
「帰るのだ!祖父君のおられる絹の国へ!」

息を切らして捲し立てるダリューンの話は簡潔すぎて彼女にその前後の伝わらぬもののように思われた。しかしミレイはそんなことよりも、彼の力強い言葉に胸を打たれ、先程まで以上に自身の奥から熱いものがこみ上げてはとめどなく溢れて行くのを感じていた。


『ミレイ殿は今、絹の国からの賓客という扱いである。従って彼女に届いた書簡の内容を知った国王陛下が、その境遇を考えて帰国の命を出したとあれば、それは家の掟より優先されて然るべきだ。ただ、アルスラーン陛下が出したのは『一時帰国』ではなく『帰国』の命だ。そして密令であるからお前の立場はただのパルス兵の護衛ということにする。そのことを忘れるなよ』

本来であれば絹の国までは大陸航路を進んで行くのが早い。しかし今回のミレイの帰国にダリューンが伴だっていることは内々のことに留めておきたいという理由もあり、彼らはギランの港町から、グラーゼの協力を得て船で絹の国へと向かった。
ダリューンはギランから出る船の中で、頼もしい友人の言葉を思い出していた。絹の国まではいくら急いでも数日はかかる。元々かの国に縁のあったダリューンが護衛に付くのはおかしなことではないが、万騎長自らというのはやはり些か大袈裟なことでもあった。そこにもナルサスが用意した建前などでなく、然るべき理由を付けねばならん。そんな風に考えるダリューンは道中に着々と己の決心を固めているのだが、当然顔には出さない。
客室に入れられたミレイは、突然国王陛下から与えられた帰国に始めこそ戸惑っていたが今は違う。彼女はそういう立場で今一度自分の国に足を踏み入れようとしているのだ。その信念に惚れ込んだ殿方が、何より忠誠を誓うパルス国の王の名に恥じぬよう、そして自身の家の名に遅れを取らぬような振る舞いをせねばならぬと感じていた。

ようやっと辿り着いたその国の空気を懐かしむ間もなく、二人とパルス兵の護衛数人はミレイの屋敷へ向かった。見るからに荘厳なその門の前で彼女は門番である老人と少しばかり言葉を交わし、手に持っていた書簡をその者に見せた。どうやら老人は内部の事情にも精通している人物のようで、すぐさま彼らは門の中へと案内される。そうして彼女が急ぎ足で向かうのは、祖父がいるという屋敷の奥の部屋であった。
屋敷に入ればパルス人の護衛は不要ということで、パルス兵は別の間で待機するよう言い渡された。しかしそこでダリューンが声を上げる。

「失敬。本来ならば立ち会わざるべき事情を存じ上げておりますが、国王アルスラーン陛下の命により護衛を一名同行するよう奉っておりまする」

書簡を用意したナルサスは、いざという時ダリューンだけはミレイに同行できるような文面をそこに加えていたのだ。ミレイも落ち着き払った声で「ではそなたが同行を」と言う。彼は今護衛の兵と同じ格好に身を包んでいたため、屋敷の者もその正体がまさか大陸に名を轟かすパルスの万騎長だとは考えもしないことであった。

長い廊下を歩いて、二人はようやく大きな重たい扉に隔たれた部屋に辿り着いた。中に入れば床に伏した老人の姿がある。老人と言っても、その寝姿からは堂々たる覇気が立ち上るようなそういう雰囲気を持っていた。ミレイは駆け寄り膝をつくと、すぐさま祖父の手を取り帰国を伝えた。

「ミレイか…」
「はい、お祖父様。帰って参りました」
「鍛錬を怠ってはおらぬようだな。我が孫娘よ」
「お家の名に恥じぬよう、日々精進を欠かしてはおりません」

危篤状態とは思えぬほどしっかりとした口調で話すミレイの祖父は、それでもどこか視線を虚ろに這わせていた。

「パルスの、黒衣の騎士には会うたか」
「…お会いいたしました。お祖父様の仰る通り、己の力とその正義に均衡の取れた立派な御方でございました」
「お前が帰ったということは…、かの御仁と本懐を遂げたということか?」
「……」

いくらパルス国王から帰国の命令を受けたと言っても、ミレイが祖父に一目会いたいと思ったことに変わりはない。真実を伝えれば祖父が守ってきた家の誇りを傷付けるし、しかしここで偽りの言葉を述べるわけにもいかなかった。何よりミレイの背後にはダリューンがいる。自身が惚れ込んだ殿方の前で生き恥を晒すなど、首を差し出しても償えぬと。そういう生き方をするのが彼女だった。
せめて彼に恥じぬ行いを、とミレイは意を決して口を開こうとしたが、それは力強い声にかき消されてしまう。数歩後ろに控えていたダリューンが仰々しい言葉で沈黙を破ったのだ。

「突然の無礼を何卒ご容赦ください。ミレイの祖父君殿」

彼はやや歩みを進めてその冑を脱ぎ、短く自分の身分とその名を口にした。横になったままの老人は彼の瞳を見定めるように視線を鋭くしたが、やがてその奥に一点の曇りもないことを確認すると緊迫を解いた。

「パルスの万騎長たる男が遥々絹の国まで護衛に赴くとは、ミレイの拳もおぬしからすれば信用ならぬものであったかな」
「いえ、彼女の強さに疑うべきところなどございませぬ。己は此度、孫娘殿を再びパルスに連れ帰る許可を頂戴したく馳せ参じました」
「連れ帰る…はて、ミレイは紛うことなき我が家系に連なるもの。帰る場所がパルスだと言うには、一体どういうつもりか。ダリューンよ」

体力の衰えに反比例して気迫を身につけているのではないかというほど、年老いたその姿から発される言葉は重い。全てを見透かすような慧眼の持ち主であることはダリューンにもこの数言のやり取りで十分に伝わっていた。ミレイは二人の交わす言葉の行き先を石のように硬い表情で見守っている。
決めるところで決められるのが歴戦の戦士というもの。そうでなければおのれは平凡な男として一生を終える、ダリューンの心構えはそういうものだ。戦場ではなくとも、今がその決めるときだと、彼は見誤らなかった。

「このダリューン。ミレイを我が妻として迎え、その名を家系に譲り受けたい。意気に不足がござれば、何人の挑戦であってもお相手をいたす覚悟」

しばしの沈黙がまたその場を包み込んだ。そうして何も言わぬままかと思われた祖父は、小さく肩を震わせながら喜びの表現をしている。それを目にするとミレイは自身の奥底から嬉しさが次から次へと湧き出てしまい、それが心と体を満たした後、当然のように溢れ出ていくのを最早止めはしなかった。