最強マルダーン計画 4

「ダリューンさま」
「ミレイ、その格好は…」
「いつも形式ばったお誘いになってしまうので、たまには視覚的にダリューンさまが愉しめるものが良いかと思い、趣向を凝らせてみました」

いかがですか?と微笑む彼女の顔は雅で美しい。ダリューンはその、肌が透けるような薄布で出来た夜着を纏うミレイに思わず視線を奪われた。顔つきはまだ少女と言っていいが、女性の体つきとしてしっかりと出るところは出ているし、締まるべきところは薄く筋肉がつき、綺麗に鍛えられている。その滑らかな肌に手をすべらせたら一体どういう感覚なのかと、想像せずにはいられなかった。
すると彼女はそんな思考を読み取ったかのように、笑みを浮かべたままダリューンに近づき首に手を回した。ひらひらと揺蕩う軽い心地の布が時折その肌を見せびらかすようだった。

唇が近付いてくるのにも抵抗できず、あと一寸で触れるかというところで、ダリューンは目を覚ました。
すっかりやる気になっている己の分身を確認してしまうと、彼女への申し訳無さと後悔の波が一気に押し寄せる。彼は手早く身支度を済ませると屋敷から逃げ出すように城へ向かった。


「五百三十六、五百三十七、五百三十八…!」
「陛下、失礼いたします。……あれは何です」

アルスラーンの執務室に入った途端、麗らかな昼下がりに似つかわしくない光景を目にしてナルサスが問いかける。ダリューンはそんな友の言葉など耳に入らぬという様子で、腕立て伏せならぬ指立て伏せを止める気配もない。ナルサスから書簡を受け取りつつ、アルスラーンは困惑気味に答えた。

「私にも実は分からぬ。朝ここに来てすぐ、雑念を払うために体を鍛えていてもいいかと訊かれて…許可をしたらあのようになったのだ」
「ほう…それはそれは、万騎長としては立派な心掛けですな」
「ダリューンのような戦士でも雑念にとらわれることがあるのだな」

純粋に驚きを隠せない様子のアルスラーンを見て、ナルサスは苦笑する。もうそろそろ陛下も男女のあれこれについて知識をつけていい年頃なのだが、気付いていないのであればわざわざ自分の口から言うようなことでもないか、と聡い副宰相は黙っていることにした。雑念を振り払わねばならぬほどにダリューンがあの絹の国の少女を意識しているということは、彼には手に取るように分かっていたのだが。

「ところで陛下、後ほどあやつの隊の出陣がございます。出立の際はお立ち会いの程お願いいたします」
「分かった。準備をしておく」

ダリューンがぶつぶつと何かを繰り返しながら鍛錬し続けるのを横目に見て、アルスラーンは若干心配になりながらも午後の準備に取り掛かった。

その日の出兵はダリューンにとっては定例のようなもので、取り立てて変わったことをする予定もないものだった。いつも通りに黒影号に轡を取り付けながら相棒の調子にも問題ないことを確認していた彼は、背後を通りすがった憲兵が何やら聞き逃せぬことを話しているのを耳にする。

「王宮の近くの屋敷で火が出たらしい。今慌てて防火団が向かったところだ」

どうやら付近で起きた火事について話しているその話は、聞けば聞くほど嫌な予感を生んでいった。場所の情報は確かではないがダリューンの屋敷にも当てはまりそうで、思わず彼は憲兵の肩を掴んだ。兵士は顔を青くしながらもどこかという詳しいことまでは分からぬと答えた。

ダリューンは思った次の瞬間には行動を起こしていた。黒影号に跨り、彼の屋敷へと向かったのだ。
どうして必死に駆けているのか分からない。彼女はきっと守らなくても、火事の中逃げ出すことくらいはゆうにできるかもしれない。いや、そもそも自分の屋敷が燃えているとは限らない。しかしもしあの大きく伸びやかに咲く花のような少女の身に何かあったら、手を伸ばさなかったこの時の自分を一生後悔するに違いない。

様々な考えが浮かんでは消えたが、とにかく自分が彼女のことが心配で、その無事を確認するまで出陣することはできないと確かに感じた。そこに何の気持ちもないと言えば嘘になるなとダリューンは思う。思うが、今はただ必死で屋敷に到着することに専念した。

屋敷に着くと嫌な予感は的中し、彼の自宅からは轟々と炎が上がっていた。どうやら隣の屋敷からの火が燃え移ったようである。消化活動は続けられているが、火の勢いは衰えるどころか増していく一方だった。

「ミレイ!!!どこかにいるか!!」

大声で名前を呼ぶダリューン。逃げ出してくれていれば近くにいそうだと思って声を上げたが、一瞬の間の後、刻々と燃え広がっていく火の中から少女の声がかすかに聞こえた。

ダリューンは居ても立ってもいられず、近くにあった桶で冷水をかぶり、身ひとつで今にも焼け落ちそうな建物の中に入った。ミレイの声が聞こえたのは恐らくダリューンの寝室の辺りで、彼は慣れた間取りを迷わず進みながら必死で声を張り上げる。

「そこにいるのか?!今すぐに行く!」

あまり長居できないことは明らかだった。ダリューンは必死の形相で灼熱の炎の中を走り、寝室に辿り着いた。そこまで煙を吸い込まないように口元を布で覆ってはいたが、火の勢いは刻一刻と増し、今まで以上に舞い上がる黒煙が喉に張り付くように入り込んでくる。

「ミレイ!!」
「ダリューンさま、どうして」
「説明は後だ、出るぞ」
「お待ちください!せめてこれだけでも持って、お外に…」

ミレイが何か包みを抱えているのを見ると同時に、ダリューンはその頭上に炎で崩れ落ちた柱が倒れそうになっているのを目にした。慌てて彼女の腕を引いて抱きとめると、彼の黒いマントで柱の直撃を受ける。苦痛の声を上げるダリューンを見て、ミレイは思わず悲鳴を上げた。

「おぬしの命より大切なものなど、ここには置いていない!」

衝撃と熱を跳ね除けるようにそう叫んで、ダリューンは彼女の体を抱き上げて炎の中を駆ける。外に出るとすぐに救護班が到着し、ミレイはすぐさま療養所に連れられていった。
ダリューンの背中は火傷を負ったが、特殊な繊維でできたマントのおかげで軽傷だった。彼は傷の手当もままならぬうちに城へ走り、陛下とナルサスに事情を話す。まだ出兵にはギリギリで間に合う時間ではあったが、彼の主はダリューンに休養を命じた。友人から出兵については代理の者を手配したと言われると、今度はまた慌てて屋敷に向かった。

ミレイは煙を吸い込んではいたものの、安静にしていれば問題ないということで早々に帰されていた。燃え尽きた家の前で立ち尽くす彼女の姿がそこにはあった。頬には煤けた汚れがついたままで、呆然という表現が正しくといった風に、膝をついてその場にいたのだ。

「ミレイ」
「ダリューンさま、申し訳ございません。留守を預かっている身で、かようなことを防げぬとは、…もはやこの首を持って償うほかございません」

どこから取り出したのか分からぬ小刀を携え、ミレイはそれを首に突き立てた。彼女の肝は本当に座っていて、小刀を持つ手も、ダリューンを見る瞳にも、一切の迷いも躊躇もないようだった。

「違う、俺がおぬしを守りたいと思ったから戻ってきたのだ!頼むから聞いてくれ」

懇願するダリューンの声に、彼女は目を見開いてぴたりと手を止めた。

「俺は家などどうでもよかった!とにかくおぬしが無事であればと願って駆け付けたのだ。それなのに簡単に命を捨てるというのか?勝手なことはよせ!」
「勝手は承知の上です。それでも、償わねば他ならぬ私が納得できませぬ!」
「俺はお前を守りたいのだ!何故それが分からぬ!」

目の前の少女にどうしたらとどまらせることが出来るか、ダリューンはそのことばかりを考え、言葉よりも行動を起こすに至った。
激しい力で抱き寄せられたミレイは、ダリューンの全身から加えられる圧力に体を強張らせ、手から小刀を落とす。そうしてそれから耐えきれず涙を流した。抱きしめる力が強くなればなるほど彼女の中の行き場のない気持ちが押し出されていくようであった。

「ダリューンさま、申し訳ありません、本当に申し訳ありません。どうしてこんなに胸が苦しいのでしょう」
「謝らなくていい。謝るくらいなら拾った命を役立てることを考えろ」

ひとしきり泣きじゃくった彼女の呼吸が落ち着いた頃合いを見て、ダリューンは腕に込めた力を緩めるとミレイの頬についた煤を指の腹で拭った。そうしてふと、炎の中にいた彼女が抱えていた包みは確か叔父の形見だったとダリューンは思い出す。彼女が自分の大切なものを必死で守ってくれたことに、一つ礼を言った。しかし俺の本当に守りたいものはこの腕の中に守れたのだと笑ってやる。

「…強い女子だ、家の誇りだと言ってもらえることはありましたが、守りたいと言ってもらえたのは初めてです」

泣きはらして赤くなったのとは違う紅潮が、ミレイの頬には浮かんでいた。夕陽がそれを隠してくれたはずなのに、ダリューンにもそれは不思議と伝わっていたのであった。