最強マルダーン計画 5

ダリューンが一番に守りたかったものは守れた。とは言っても彼の屋敷はものの見事に焼けてしまい、当面はそこで寝食を行うことは不可能だった。一先ず彼は元々屋敷の管理をしていた自由民の夫婦に、しばらくの間は好きに過ごしてくれという言伝とともに銀貨の入った袋を渡す。

「ミレイ、おぬしはどうする」
「私の希望は、ダリューンさまと共に在りたい。それだけです」

ダリューンに真っ直ぐな言葉をぶつけられようやく罪の意識から解放されたのか、ミレイはいつもより控えめに花が綻ぶような笑顔でそう言い放った。その姿を見て彼もまた安堵した。

屋敷がなくなれば彼が行く先は一つしかないのだが、そこにミレイをどう置いておこうかとしばしの間悩み、結局は友人を頼ることを決める。

「…と、いうことでナルサス。ミレイをしばらく城に住まわせたいのだ」
「ああ、いいぞ。おぬしの女中として扱えばな」
「話を聞いていたのか」
「聞いていたさ。しかしなダリューン、それでミレイ殿が食い下がるのか?」

ダリューンが申し出たのは「万騎長の自分の名前で、絹の国からの賓客として一つ部屋を用意してほしい」という内容だったが、ナルサスはそれに首を縦には振らず、彼が提案したのはダリューンの付き人としてミレイも同じ部屋に入るということだった。

「確かにあやつのことだ、俺と同じ部屋がいいと言うに決まっている。だが俺には気持ちの整理をする時間が必要だ。それはミレイとて同じことだ」

何せ当たり前に住んでいたところが燃えるという経験をした後なので、ダリューンはとにかく彼女に精神的にも肉体的にも休養を取ってほしかった。執務ばかりで疲れたし少しからかってやろうかと考えていたナルサスも、その申し出には正当性があることを認め二人それぞれに部屋を用意することを承諾した。

城で過ごすようになってから、ミレイは賓客としての振る舞いをそつなくこなした。この辺りはさすが良家の娘というべきか、城の中での彼女の立ち振る舞いには何の落ち度もなかった。そして部屋から出ては軍の演習を眺めたり、賓客という立場の彼女を歓迎をしたいと申し出てきた者と茶を飲んで過ごしたりしていた。…と、ダリューンも思っていたのだが。

「ふう、さすがに疲れたな…」

出陣を終え、報告書をまとめ上げたときにはもう日付が変わろうという時刻になっていた。ダリューンは体力仕事では大した疲労を感じなかったが、書類作成は率いる兵が多くなればなるほど要求される項目が増え、そこに使う気力も増大する。執務を出来る限り避けたい気持ちもあったが、立場上そんなことを言っていられる場合でもないので、とにかく頭を悩ませながらも彼はそれをこなした。
空腹を満たすよりも眠りたいほどの疲れに襲われながら、それでもダリューンは久し振りにミレイの手料理が食べたい、とぼんやり考えていた。そんな彼の鼓膜に聞き覚えのある声が響く。

「ダリューンさま、お腹が減っていませんか?何か召し上がりますか?」
「そうだな、あの鴨肉を焼いて肉汁で作ったソースをかけた料理が食べたい。白身魚を香草と煮たものも美味かったし、あとは…………おい待て」

なんでここにいる、といるはずのない存在をその目にとらえ、ダリューンは慌てて正面からミレイの肩を掴んで揺すった。ここは城の中の自分の部屋で、彼女は別の棟に用意された客室にいるはずだった。夜中は警備の兵も配置されているし、そもそも彼女はダリューンの部屋を知らぬはずであった。一体どこからどうやって忍び込んだというのか。

「エクバターナの城は誠に広うございますね。ダリューンさまのお部屋を突き止めるのに数日もかかってしまいました」
「お前…体は大丈夫なのか?」
「はい、すっかりよくなったとお医者様も仰っていました。ダリューンさま、触って確かめてくださいますか?」

胸元をはだけさせてそういう風に言ってくる彼女に、相変わらずだという残念な気持ちを感じて、ダリューンは深く長く息を吐き出した。肺がすっかりへこみ切ると、意を決したように大きく息を吸い込み力強く言うのである。

「触らぬ、しまいなさい!」

左右にずれた衣服をぐいぐいと元の位置に戻され、ミレイは不服そうに唇を尖らせた。

「ダリューンさま、私のどういうところがお気に召しませんか。夜の営みをしていただけるよう、城に来てからも誠心誠意、努力研鑽しております。こうして貴方様のお部屋も探し当て、危険を承知で参ったのです。どうか理由をお聞かせください」
「強いて言うのであれば、そういうところだ…」
「そういうところとは」

理解できない様子の彼女にダリューンは頭を抱える。ただそれすらも愛おしいと思う心が自分の中に生まれつつもあり、かなり侵食されているなと出来ることなら再び頭を抱えたい心境であった。

結局夜中に一人で出歩かせるのは憚られたので、ダリューンは早朝ミレイを客室まで送り届けた。見張りの兵に姿を見られてしまうのは心苦しかったが、もし何か関係を揶揄されることがあれば切り刻むこともやむなし、というようなダリューンの険しい表情を見てそういう気を起こす兵などいなかった。


「国王陛下が、私に謁見のお許しを?何かの間違いではないのでしょうか」
「いえ、確かにそう仰っておりますので。本日昼刻頃お迎えに参ります」

客室として与えられた部屋に訪れた、ぽかんとするミレイをそのままにして宮女は去った。彼女は突然のことに驚きを隠せずにいる。まさかパルスに来て国王陛下にお会いすることになるなどとは、人生とは何が起こるか分からぬものだと深く感心した。
しかしながら、自分は絹の国からの賓客という立場であるし、何より国王陛下と言えばダリューンが忠義を誓い尽くしている張本人だ。ミレイは覚悟を決め、昼頃と言われたその時に備えて精神統一のための瞑想を行った。

王との謁見とは思われぬほどの警備の薄さだと彼女は思う。部屋に案内されると、扉の前にシンドゥラ人らしき見た目の男が一人、そうして扉の先には玉座の双方にダリューン、そしてナルサスと、その傍らにはミレイと同じ年くらいの少年エラムが控えていた。

何も臆することなく陛下の前で膝をついた彼女は思う。ダリューンが心からの忠誠を誓うアルスラーン国王陛下とは一体どんな人物なんだろう。その人となりが少しでも知れたなら、もしかするとダリューンに昨日言われた「そういうところ」の意味も分かるかもしれない。とやや見当違いな考えを抱いて彼女はその場にいた。

「ミレイ殿。私はパルスの国王、アルスラーンだ。突然呼び立ててすまない、どうか楽にしてくれ」
「私のようなものの名前を存じていただいておるとは、恐縮至極にございます。失礼のないよう努めますがこの国の言葉にはまだ不慣れゆえ、どうかご容赦ください」
「よい。おぬしのことはナルサスから聞いた。何でも彼の国の武芸の達人たる家の者だとか」

エクバターナの城下町でミレイに会って以来、ナルサスは知人に出会うたびに彼女の話をしているようだった。それが外堀から埋めていってやるかという迷惑な親切心なのか、ただ単に執務に飽き飽きした彼の憂さ晴らしなのかは分からないが。

「左様でございます。幼き頃から私自身も古武術、縄術、馬術に、抜刀術や実践向きの体術や剣術、一通りの武術は習得しております。あとは絹の国にいた頃は式典で演武を披露することも多くございました」
「演武か!それは一度見てみたいものだな」
「陛下。今日は何かお話があったのでは」

エラムが声を上げると、アルスラーンはそうだったなと落ち着いた様子で答えた。

「ミレイ殿。おぬしは先日の城下町での火事の際、ダリューンの叔父であるヴァフリーズの遺品を運び出したと聞いた」

あれは私にとっても大切なものだ、だから守ってくれたそなたに礼を言おうと今日ここに呼んだ。とアルスラーンは端的に述べた。ミレイはまさかそれに対して国王陛下から礼を言われるなどと思っておらず、ぱっとダリューンの表情を伺った。そこには主君への確かな信頼を携えながら、自分への慈しみが込められたような顔付きの黒衣の騎士が確かにいた。

「勿体なきお言葉にござります、陛下」
「そなたは今、絹の国からの賓客ということになっている。何か困ったことがあれば何でも言ってくれ」

何でも、と言われてミレイはたじろいだ。表面上のやり取りであることは理解しているのだが、どうにもアルスラーン陛下の声色や表情からするに本当に何でも受け入れそうな気配をひしひしと感じるのだ。彼女はそれでも国の名に恥じぬ行動をと、本当に言いたい言葉を押さえつけた。

「いえ、十分によくしていただいています。これ以上望むものなど何もございません」
「ミレイ殿。アルスラーン国王陛下は、貴殿が本当に望むことを口にしたとて、それに憤慨するような狭量な御方ではござらん。我が国の王をそのような器と決めつけ、侮るような態度を取るのが、絹の国流の礼儀と受け取ってよろしいのか」

ナルサスが余分なのは今に始まったことではないが、その言葉にアルスラーンは思わず苦笑した。稀代の軍師はただただこの場でミレイがその本心を明かすことを面白がっているだけの、ダリューンからすれば角と尻尾の生えた悪魔のような存在にも見えた。ミレイは挑発するような口調で言われて引き下がれる性格ではない。売られた喧嘩は買う―――そういう風にして生きてきた彼女の扱いを心得ているからこそのナルサスの言葉だった。

「では、僭越ながら国王陛下に一つ問いたいことがございまする」
「要望ではないのか。只の質問では些か礼儀に欠くのではないかな」
「しかしながら、出来ることなら己の力で叶えたいことゆえ…そこは助力をいただければと」

悪戯なナルサスと生真面目なミレイのやり取りは続く。その横で何か嫌な予感がすると敏感に感じ取っていたのは他ならぬダリューンだった。彼の戦士としての直感が彼女を止めろとそう告げている。ここが彼の屋敷であったなら、城下町の通りであったなら、いや。せめて国王陛下の御前でなければ、彼はすぐにでもミレイの前に飛び出してその口を塞いでいただろう。もちろん手でだ、と誰にしているのか分からない説明をダリューンは頭の中で繰り返した。

「アルスラーン陛下。そちらに御座すダリューンさまは、パルス国の万騎長の名に恥じぬ、勇敢な御方と存じます」
「そうだな。パルス広しと言えど、ダリューンのような騎士は他にはおらぬ。私にとってはかけがえのない存在だ」
「しかしながらこのミレイ、日々ダリューンさまと子を成すために己も精進しておるのですが、ダリューンさまは中々どうして夜の生活を共にしてはくれませぬ」

いよいよ雲行きが怪しくなってきた。いや、もう既に豪雨くらいは降り始めていそうな雰囲気だ。ここに雷鳴を加えるか、雹を降らせるか、あるいは竜巻を持ち込むかが見ものだと既に笑いを堪えるのに必死なナルサスは思う。アルスラーンはミレイの言葉に、いきなり目の前で手品でも見せられたような顔をしていた。理解が追いついているのか追いついていないのか、その場で分かるのは彼の友であるエラムくらいだった。

「どうかダリューンさまのダリューンさまが私に突撃してくださるよう、お力を貸してほしいのです!女性の好みでも、性的趣向でも、なんでも構いません。教えて下さいませぬか!」
「ダリューンが突撃とは…ミレイ殿はダリューンと手合わせしたいということだろうか…?」
「左様でございます。可能であればお手合わせして、パルスの太陽のもとに唯一無二の強さを持った戦士を育て上げたいと存じております!」

全く噛み合っていないように見えて少し噛み合ったその会話は、それでもあまりにちぐはぐでナルサスどころかエラムさえも口元を押さえている始末だった。咎める前に笑いが勝ってしまうのは、真剣なミレイの表情とそれに対して一生懸命に答えようとする陛下の姿も相まってだ。

「分かった。ダリューン、おぬしの」
「陛下ーーー!!!お待ちください陛下!本当にお分かりになられたのですか?!」

分かってしまっても困るし、分からなくても困る。ダリューンは自分の名を呼び何かを言おうとしたアルスラーンをとにかく制止した。その必死の形相にやや驚きながらも、パルス国の王は依然きょとんとした様子で、わずかに首を傾げていた。

「何か私に理解の至らぬ点があったか?」
「い、いえ……!ですが陛下、よくお考えになってからご返答ください。陛下のお言葉はこのパルス国の言葉なのです」
「ああ、心配をしていてくれたのだな。ダリューン」

いつもおぬしには助けられる、と春の陽光よろしくにこやかな笑顔でアルスラーンに言われると、ダリューンはもうそこから先に放てる言葉の矢がないどころか、弦が緩んで使い物にならないのだった。

「ではミレイ殿。明日、私の稽古場をお貸ししよう。ダリューンの執務は他の者に任せて時間を空けるから、存分に手合わせするとよい」

せっかくなので私も見に行きたい、と付け加えた陛下の横で、いち早く平静を取り戻したエラムが既に明日の予定の調整を始めていた。