025/急襲

カナタが踵を返して走り出したのは、アルスラーンが城壁の上で怪しげな気配を感じたのと同時刻であった。彼女は先程、自分の左脚を斬ったあの魔道の者と同じ気配を、ペシャワール城の中で感じ取っていた。どこに潜んでいたのかは分からない。しかしこちらに襲ってくる様子のないその影は、壁の中から低い、悪意に満ちた声を発した。そうして確かに言ったのだ、『異界の小娘』と。

その名で自分を呼ぶ者には嫌な心当たりしかなかった。もしそれが思い違いであればどんなにいいかと考えながら、カナタは必死でアルスラーンの部屋に戻った。しかしそこに彼の姿はない。全身を駆け巡る血が苦々しい毒水になったような心地で、カナタは辺りを探し回り初めた。誰かの部屋に行ったのであればいい、しかしそうでなければ―――

焦るカナタの視界に、城壁に上がっていく階段が飛び込んできた。部屋から離れて外の空気を吸いに行ったのであれば、とその可能性を信じ、階段を駆け上がる。そうして駆け上がった先で彼女が目にしたのは、右手首を負傷して城壁の上にうつ伏しているアルスラーンの姿だった。その奥に、銀仮面の男の姿もあった。

一瞬で状況を理解したが、彼女がアルスラーン殿下のもとへ駆けつけるよりも早く、銀仮面の男がこちらに気付く。そうして地面にうずくまっている殿下の頭上に刃を漂わせては、視線一つでカナタを脅してみせた。仲間を呼ぶことも、携えている剣を抜くこともできない。カナタは己の心臓を悪魔に掴まれたように表情を歪めた。

次の瞬間に、アルスラーンの右手は無我夢中で壁の松明を掴み、それを前方に突き出していた。

自分めがけて一直線に飛び込んでくる銀仮面の男に何とか抵抗しようととった苦肉の策は、彼が思った以上の反撃となった。衝突する寸前のところで銀仮面の男に火の粉が降り注ぎ、男は叫び声を上げてたまらず退いた。
どういうことかと、カナタもアルスラーンも目を見張る。

「殿下、その男は火を恐れています!」
「小娘が―――!!」

背後からカナタの声がしたことに驚きつつも、アルスラーンは松明を両手に持ち、腰を丸くしてなんとか立ち上がった。カナタの言う通り、アルスラーンが一歩前進すれば、銀仮面の男は二歩後ずさる。
そのとき階段の下から、城内で異常を察知したキシュワードらの声が聞こえ、カナタは大声で助けを求めた。あっという間に現れた戦士たちはすぐさまに剣に手を掛け、城に忍び込んだ男に剣を向けた。カナタは遅れてきたナルサスとエラムとともに殿下に駆け寄り、その無事を確認する。

左にダリューンとギーヴ、右にファランギースとキシュワード。四人の戦士が五本の剣を抜き、銀仮面の男を追い詰めた。周囲を白刃に囲まれて、さすがの銀仮面も自身の危機を認めるほかなかった。しかしその場から逃げ出す素振りを見せぬばかりか、傲然たる気迫をこめた声を発した。

「四人まとめてかかってくるがいい。でもないかぎり、貴様らごときに俺が倒せるものか」
「虚勢にしても、よくほざいた。その大言壮語に免じて、苦しませずに葬ってやろう」

四人は息のあった連携を見せ、たちまちに男を壁際に追い詰めた。キシュワードの刃がとどめを刺そうと剣先を上げ始めた瞬間、突如背後からバフマンの声が響き渡る。

「いかん、その方を殺してはならぬ!その方を殺せば、パルス王家の正統の血は、たえてしまうぞ!殺してはならぬ!」

一瞬の時が永遠にも感じられるような静寂がその場を覆った。バフマンの発言によりそれぞれに迷いを抱えた太刀筋は、それでもその場から飛び上がった仮面の男を追い詰めた。しかし銀仮面の男は、キシュワードの双刀を弾き返し、ファランギースの剣と激突し、一転してギーヴの剣と交わった後、ダリューンの猛攻を交わすために自ら城塞の外へ身を投げだした。数秒遅れて水音が響く。濠に落ちたのだ。

振り向いたダリューンは、すぐさまにバフマンの姿を一瞥し、先程の発言に関してもはや年長者への敬意を持たぬような詰問をとばした。何も答えぬバフマンに、キシュワードも声を荒げてその名を呼ぶ。しかし老兵は唇をわなわなと震えさせるだけでやはり何も答えない。

そのとき、アルスラーンが進み出て、問いかけた。

「私も知りたい。どういう意味なのだ、バフマン」
「お許しくだされ。お許しくだされ、殿下。わしは血迷ったことを申しました。自分でもどうしてよいかわからぬのでござる……」

バフマンの言葉に含まれる二つの意味。それは、あの銀仮面がパルス王家の正統な血をひいていること。そして、アルスラーン王子が、パルス王家の正統の血をひいていないこと。その場にいて発言を耳にしたものは皆口を噤んだ。ナルサスはあろうことかこのタイミングでそれを口走ったバフマンを、やはり斬っておくべきではなかったかと後悔を感じていた。しかし長剣の柄にかけていたその手にカナタが触れ、静かに首を横に振ってみせると、深く息を吐き出して気持ちを抑えた。

一人の兵士が階段を駆け上がってきたかと思うと、キシュワードに向かって大声で報告した。

「一大事でございます!たったいま、シンドゥラの軍勢数万、夜の闇に乗じて、国境を突破しつつあるとのこと!」

そこにもたらされた緊張が、一気に古いそれを打ち破っていた。キシュワードが迎撃の指揮を取るために大股で階段に向かっていくと、一人城壁にうずくまっているバフマンを残して、他の者も続いて階段を下りた。