015/稽古

王都から戻った三人と殿下ら四人が合流した後、数日の間はルシタニア兵によって荒廃させられてしまった人気のない村に留まることになった。あちこちにこういった村があるのを見るたび、アルスラーンはその心を傷めぬわけにいかなかった。

数日そこに留まることになったのは、急いで動かねばならぬというより、急いで動いてはならぬとナルサスが判断したからである。銀仮面の男との対決は強烈だったし、何よりナルサスはあの男の背後にルシタニア兵がいるようならあのまま我々を見過ごすとも思えなかった。あの後追手が来ないところを見ると、向こうもこちらの動きを捉えあぐねているか、あの銀仮面の男がルシタニア兵との繋がりを持たず単騎で動いている者か、あるいはその両方かというところであった。
ゆえにここは英気を養い、勢いを持ってペシャワールに向かうべきだ、とそういう結論に至った。

「エラム、手合わせをお願いしたいんだけど」
「今手が離せませんので、他を当たってください」
「じゃあ先生」
「カナタ…仮にも師匠に対して『じゃあ』とは何だ。そんな弟子に育てた覚えはないぞ」

ついエラムに話しかけた要領で口を滑らせたカナタに対して不満気にナルサスが口をへの字に曲げると、ダリューンは剣を研ぐ手を止めて思わず吹き出していた。カナタは小さく失礼しましたとつぶやく。少女は王都から戻って数時間ほどは、大事そうに持ち帰った何やら怪しげな古代の魔道術や蛇王の伝説に関する書物を読み漁っていたが、それを猛スピードで読み終えると意を決したように稽古の申し込みを始めた。

「お前、剣の腕に関してはあまり敬わられてないようではないか」
「ナルサスとカナタが手合わせをするのか?私も見ていてもよいだろうか」
「殿下にそう言われてしまっては、相手をしてみせなければな。ナルサス卿」

横でファランギースが面白がるように微笑んだ。仕方ない、と言わんばかりにナルサスがエラムの目を盗んで、料理用の玉杓子を手に取った。粗末に扱わないでください、それしかないんですから!と静止するエラムの声も虚しく、カナタとナルサスはお互いに構えを取る。

「さて、かかってきなさい」

一行はこれまで、カナタが剣を振るうところをまともに見ていなかったが、彼女の見た目からは想像のつかぬような剣さばきを目にすると、殿下だけではなく他の者もおお、と声を上げた。もちろんそれは一行の中では拙い部類に入るのだろうが、それでもカナタの細い腕から繰り出されるには意外性のあるものでもあった。
ナルサスは巧みにカナタを翻弄するような動きを繰り返してみるが、どうやら彼女の気迫たるも真剣なところで、そのうちに見事に玉杓子を跳ね飛ばしてしまう。エラムが「だから粗末に扱わないでください!!」とかなり語気を強めて二人を叱ったが、そんなものは日常茶飯事と言わんばかりの師弟は少しも耳を傾けなかった。

「すごいな、カナタ!そなたの剣さばき、見事なものだ!」
「殿下、お誉めに預かり光栄至極でございます」

二人の手合わせに拍手を送ってみせるアルスラーンに、誉められたカナタではなくナルサスが返事をする辺り、やはりこの師、過保護な上に親馬鹿なのではあるまいかと周りは内心で思っていた。カナタもそれを受けて満更でもない様子なのだから、こと師弟間に関してはそれでいいのかもしれないが。

「しかし先生、私は剣技というよりも、敵と対峙した際に怯まぬ度胸を身につけたいと思うのですが、どうするのがよいでしょうか」

玉杓子で相手をされたことへの些か不満そうな表情を抜きにして考えると、恐らく先日の銀仮面の男との出来事が、カナタにその向上心を抱かせたに違いない。その場にいた中でナルサスとダリューンのみがその発言の本質を知っていた。強大な敵と対峙したときに己の小ささを知る、というのはよくあることだ。ましてや人を殺めた後に動揺を隠し切れないような場数の少ない兵であれば殊更である。

「ふむ…それに関しては場数を踏むしかあるまいな」
「自分に殺気を向けて来るものと戦うのですか?」
「そうだな。しかし私は弟子であるお前に殺気を向けるというには些か不適任だろう。あくまでお前の師匠なのだからな」

体よく逃げた、と言えばそうだが、その場にいる誰もが確かにナルサスがカナタに敵意を向ける姿を想像できずにいた。先程の手合わせとて、どう見ても可愛がっているようにしか見えなかったのだ。

「ダリューン、おぬしが何とかカナタに協力してやれないだろうか」
「殿下…私がですか?」
「ああ。私はこの旅に出てからいつもダリューンに稽古をつけてもらっている。殺気…とは言わぬかもしれぬが、おぬしほどの戦士と稽古をすれば、カナタが望む度胸とやらも身につくのではないかと思ってな」
「確かに一理ありますな。ダリューン、おぬしが適任だ」

そう言い放ったナルサスにダリューンは鬼のような視線を向けるが、他ならぬ殿下からの提案であればそれを断る術を彼は持ち合わせていなかった。先程からカナタの剣技を見定めていたダリューンは、確かにその剣技はよく磨かれているが、そこに相手に打ち勝とうという姿勢が見受けられないことにも気付いていた。カナタに剣技を教えたのはナルサスとエラムだが、両者ともカナタには護身用の剣しか教えなかったのだろう。
仕方なくという形ではあるが、やるからには手を抜かないのがダリューンなりの礼儀でもある。彼は長剣を持ち出し、おおよそどこにも隙のないような構えを取ってみせた。

「カナタ、準備は良いか」
「はい!ダリューンさま!どうぞよろしくお願いいたします」
「うむ。では───」

ダリューンが敵にそうするかのように覇気を込めた雄々しい叫びを上げたその瞬間、カナタは一瞬にして見えない何かに上下左右から押しつぶされそうな嫌な圧迫感を感じた。身動きが取れないどころか、呼吸をするのも忘れるほどの重圧。稽古というだけでこうなのであれば、実際に目の前の戦士と戦場で対峙したときには、相手にどれほどの威圧感をもたらされるのだろう。
逃げたくない───それだけの理由で敵に向かっていくのはあまりにも危険だと理解していたが、その時のカナタにはその衝動を自らの体に纏わずには指一本動かすことができなかった。
そうして一歩足を踏み出そうとした瞬間、カナタはまるで軟体動物のようにぐにゃりと膝から崩れ落ちた。

「お、おい!カナタ!大丈夫か?!」

どうにも腰が抜けた様子のその姿を見て、一同はそれぞれ笑みを堪えたり、肩をすくめて苦笑してみたりという反応を見せた。

しかし、それから数日の間、カナタは少しの時間さえあればダリューンに稽古の依頼をし、剣を構えた戦士の中の戦士から放たれる強烈な覇気に何とか打ち勝とうとしていた。逃げないという気持ちから始まったそれは、少しずつであるが立ち向かうという前のめりなものへと変わっていった。何度目かにはすっかり最後まで腰を抜かすこともなくなった。
ダリューンは稽古をつけるたびに様子の変わるカナタを、一時ながら本気で鍛えているようだった。ナルサスとの稽古で見せたそれとは異なる、気迫を帯びた太刀筋を彼女が見せるようになるにつれ、エラムやアルスラーンも自然とカナタと稽古をするようになっていた。

「ナルサス卿、すっかり弟子をとられてしまったようだな」
「あれは何にしても飲み込みが早いのでな。皆途中から面白くなってきたと見える」
「そうじゃな…数日前に見たカナタとはもはや別人のようだ。私も後で一戦頼んでみるかな」
「俺としてはファランギース殿とカナタと、三人交えて葡萄酒でも飲みながら大人の稽古をしたいところですな」

軽口を叩いたギーヴの左の頬をナルサスが、右の耳をファランギースが、それぞれ無言で抓った。そんな彼らのやりとりを知る由もなく、カナタはまた一つ見事な太刀さばきを見せていた。