016/警告

パルス歴三三○年、直に冬を迎えようという一日に、アルスラーン一行は山道を駆けていた。その背後には、道中に出くわしてしまったルシタニア兵おそよ数百の騎馬隊が、見るからに殺意を含んだ様子でまた騒々しく馬蹄を轟かせていた。ダリューンが先行してニームルーズ山中にある城塞カシャーンへその城主ホディール卿に助力を求めるため赴いていたため、一行は追ってくるルシタニア兵を風向きを利用して牽制しながら、徐々にその間の距離を広げていた。
カシャーンへ近づけば、ホディールの兵を率いたダリューンの姿が彼らの目に留まったのだろう。次の瞬間には無数の矢がルシタニアの兵達に向けて放たれ、悲鳴を発して倒れていくものもいる中、彼らはそこが自分たちにとっての死地だと悟り退いていった。

ホディールの城の中は、無数の奴隷が働いていたが、カナタが驚いたのはその表情が王都で見たあの奴隷たちのものとは大きく異なっていたことであった。彼らは生き生きとしているとまでは言えないものの、終始穏やかな表情で荷を運んだり馬の世話をしたりとそれぞれの役目をこなしているようだった。アルスラーンの一行をホディールは上機嫌で迎え、些か大袈裟とも言えるような口上でまくし立てた後、盛大な宴で歓迎するのであった。

宴の最中、カナタは目の前に注がれた葡萄酒の酒坏を持て余し、自分の隣にエラムもナルサスもいない席に少しの不安さを抱きながら、隣に座るファランギースを見た。彼女はするするとその芳醇な香りのする液体を飲み干しては、次の酒坏、次の瓶とその体のどこに収まるのか分からぬほどの量の葡萄酒を消費していた。その様子に気付いたファランギースが、いつもよりやや楽しげな口調で問いかける。

「どうしたのじゃ?カナタ」
「実は…葡萄酒を飲んだことがないのです」
「なんと。ナルサス卿はカナタに関しては殊更慎重なようだったが、まさかこれほどまでとは」
「私はまだ修行中の身ですし、先生もエラムも今まで私に果糖水や紅茶を置くことばかりでした。それに、二十歳にならねば飲酒はしてはならぬと、その、古きからの教えもありまして…」

ファランギースには到底理由の分からぬであろうとは思いながら元の世界で叩き込まれていたことを口にする。しかしカナタは目の前の葡萄酒というものに全く興味がないわけではなかった。それは見るからに綺麗な色をしていたし、いつもナルサスが嬉しげにそれを口にしているのも知っていた。

「美味い酒を前に老いも若いも関係ないと、精霊達も申しておる。飲んでみるがよい。おぬしが酔ってしまっても、私が責任を持って部屋まで連れて行こう」
「誠にファランギース殿とカナタがそのように仲睦まじくしている様子は、まるで地上に下りた女神の戯れのように美しいですな。しかしファランギース殿の細腕にカナタを任せるというのは些か俺には見過ごせないことでありますゆえ、このギーヴがその役、謹んでお承りしましょうぞ」
「おぬしが承る必要はない」
「二人がそう言ってくれるのなら、少しだけ飲んでみます」

同じくカナタの隣に座っていたギーヴは、二人のやり取りを眺めつつ声を掛ける隙をうかがっていたようだった。送り狼をしようというその堂々とした申し出に、ファランギースは厳しく拒否の言葉を言い放った。一方のカナタはギーヴの言っている意味があまり理解できなかったようで、目の前に揺れるその液体を一口、口に含んだ。
正直なところ美味かと言われると、口の中に広がったのは渋味と酸味であったためそれほど好きになれるとは思えなかった。カナタがしかめ面をすれば、ファランギースがそれを見て可笑しそうに笑い声を上げた。

「まぁ、最初はそんなものよ。これが飲んでいくうちに不思議と美味と思えるようになる…おぬしが大人になればなるほどな」
「そういうものですな。さ、カナタよ。好きなだけ飲んで潰れるがよい」

両サイドから注がれる葡萄酒が酒坏から溢れぬよう少しずつ口に含んでいると、カナタは何やら身体がぽかぽかと温かくなってくるのと、何となく己の思考が鈍ってくるのを感じた。

次にはっきりとした意識を捉えたのは、カシャーン城の中のファランギースとカナタにあてがわれた部屋の中であった。どうやらファランギースが約束通り自分を部屋まで運んでくれたのだとすぐに気付き、その姿を探す。目が覚めたカナタにあちらも気付き、窓際で精霊たちの声に耳を傾けていた美しい女神官は、大丈夫か声を掛けた。

「ありがとうございました、ファランギース。自分で部屋に戻れぬとは、酒というのは誠に気をつけねばならぬものですね」
「おぬしは覚えておらぬかもしれぬが、この部屋までは自力で歩いていた。まぁ、多少ふらついてはおったがな」

あのように思考能力を奪い、その身体も操れぬようにし、記憶まで曖昧にしてしまうとは。カナタは初めて飲んだ葡萄酒のことをやはりあまり好きにはなれなかった。ファランギースに差し出された水を一杯飲み干すと、体中の毒気が抜かれていくように感じられた。ファランギースはカナタが覚醒しきっていない様子を見てか、あの場で起きたホディールとアルスラーンとのやり取りを話してみせる。自分の娘を王の后にしようと狡猾に話すその様子を聞くと、一瞬にしてスイッチが入ったのかカナタは冷静な口調で語りだした。

「娘を后に…ですか。古来から行われてきた、見事なまでに何番煎じかという手段ですね。面白くはありませんが、確かにホディール卿のような諸侯が実権を握るには一番確実な手段でもあります」
「殿下はシャーベットを吐き出してしまいそうなほどに慌てておったがの。初々しいものじゃ」

そのときの殿下の慌てようは、カナタにも容易に想像できた。しかしホディールという男、どうにもあの媚び諂うような笑みの下に何か一物を抱えているような気がしてならない。何とも言われぬ予感が告げると、カナタは少し様子を見てくると言い、音を立てぬように部屋を出た。

屋敷は広かったが、その分死角も多くカナタは見張りの兵士の目を避けながら行動することができた。目指すは男四人があてがわれた部屋で、場所の見当もついていたからか彼女の足取りに迷いはなかった。
彼らの部屋であろうそこまでもう少し、というところで、曲がり角の先にやはりホディールの兵の姿を確認したカナタは、さすがにそこばかりは避けて通ることができないと、何とか彼らの意識を逸らす方法を考えていた。そこへ意識を集中させていたからか、金属音がその耳に届いたときには既に事態は好転しそうにないことを悟った。

豪奢な甲冑が揺れる音───恐らくホディール卿本人が、交差した先の通路の奥の角からこちらへ曲がってこようとしていた。その距離は音からするに近い。
右に曲がれば兵がいる、左に曲がったとしてもその兵に見つかってしまう、正面からは卿が来る、後に退くには時間がない───

「カナタ、こっちだ」

突然に背後の扉が開き、そのままカナタは体をぐいと引かれて部屋に入った。一瞬の出来事ではあったが、声からして自分を抱えているのがナルサスだということは理解できたので、カナタは甲冑の音と足音が遠ざかるまでじっとしていた。ナルサスが何故ダリューンらのいる部屋でなくこの部屋にいるのかカナタには分からなかったが、とにかく助かったようだ。

「やはり殿下の部屋に向かったようだな。俺たちが薬で眠りこけていると少しも疑わぬとは滑稽だ」
「先生、先程の甲冑の音はただごとではないようでした。何かあったのですか」

ナルサスはホディールが夕餉の後に既に一度殿下の部屋を訪れて、自らの野心が詰まった提言をしていたこととそれに対するアルスラーンの対応について、そうしてとうに夜半を過ぎたこの時刻に再び甲冑を着てアルスラーンの部屋を訪れようとしていることについて、簡潔にカナタに話した。カナタはホディールが事を起こそうとするその迅速さに驚きながらも、確かにあの腹に何を抱えているか分からぬ男の顔を思い出せば、師の推測するところに何の間違いもないだろうと頷いた。

「恐らくすぐに殿下から合図があるだろう……ところでお前」

カナタを抱く腕に一層の力を込めるとともに、ナルサスが一息大きく息を吐き出した。

「葡萄酒を飲んでいたな」
「はい。ファランギースとギーヴに勧められ、どんなものかと思い」
「どのみちこの旅の中で酒を口にするなというほうが難しいだろうな…まぁ今日のことはよい」

やれやれといった表情でナルサスは味はどうだったか、飲んでどんな感じがしたかなどを子細に聞き出した。今日はファランギースが無事に部屋に連れ帰ったようだったが、カナタは自分が歩いて部屋に戻ったことも思い出せぬと言うし、目に入れても痛くない、といえば言い過ぎかもしれないが、それほど大事にしている弟子の身に酒に酔ったついでに何かあってはと頭を悩ませた。ナルサスがそんな気苦労を抱えていることはまだ知らぬカナタだったが、何か自分の行動を制限しようという言葉が始まりそうな空気は敏感に察したのか、その胸を押し返すように腕に力を込めた。その様子が更に気にくわないと言わんばかりに、ナルサスはより強くカナタの体を抱きしめて口を開く。

「今後もし今日のような宴があれば、必ず隣に座らせる。俺には師匠として、カナタに宴席での振る舞い方を教える義務があるからな」
「わ、わかりましたから、先生。そろそろ放してください」

カナタが僅かに面倒くさそうな声を上げた直後、扉の向こうからアルスラーンが半ば叫び声のような訴えをしているのが耳に入り、二人は慌てて部屋を飛び出した。その後、アルスラーンの明らかに仲間を呼ぶ声で、一同はその場に集結したのだった。