039/変革
アルスラーン殿下の名によってルシタニア討伐と奴隷解放の檄文が発せられると、瞬く間にペシャワール城にはパルス国内から多くの騎士たちが集まった。ペシャワールの城門は日が昇っている間中開かれ、途切れることなく訪れる彼らを受け入れていった。
多くの者が集まれば、そこに理想や考えの違いが生まれるのは当然のことであった。彼らの間に入った小さな亀裂は、やがて大きな岩を真っ二つにしてしまうきっかけになるかもしれない。ナルサスはそう考え、殿下に進言した。
「ナルサスの言う通りだと思う。先日、ジャスワントとザラーヴァントが、味方同士、危うく剣を交えるところだった。どうすれば、新しく来た者たちに不満を持たせずに済むだろうか」
「さようでございますな、さしあたって中書令(サトライプ)を替えてはいかがでございましょう。現在の人物は若くて貫禄がございません」
その言葉にアルスラーンは一瞬目を見開き、そして笑った。現在の中書令は、つまりナルサスのことなのである。隣でカナタも、くすくすと楽しげに笑っている。
「では誰が中書令にふさわしいのだろう。先にカナタの意見を聞こうかな」
「殿下、私に師の前で何を言わせるおつもりですか」
「不肖の弟子よ、王太子殿下のお許しを得てのことであるぞ。言わねばそれが失礼に当たるというものだ」
滑稽な芝居を交わし、カナタはそれでは、とその表情から笑みが消え去らぬままに答えた。
「私はルーシャン卿がよろしいのではないかと存じ上げます。年長者でもあり、思慮分別に富んだ方で、諸侯の人望もございます。王のご不興を買って王宮を自ら退き山奥に隠匿していたという、偏屈な過去もございません」
「ふふ、そうか。貴重な意見を聞かせてもらった」
「殿下、どうしてそのように笑っておられるのです」
「いやいや、すまないナルサス。おぬしらと話していると、どうにも緊張感がどこかへ逃げてしまうようなのだ。私も自分ではどうにもできず、困っているところだ」
面白くてたまらない、という表情のアルスラーンは、それでも小さく咳払いをするとしっかりと話を本題に戻した。
「ナルサスはどう思うのだ。考えを聞かせてくれ」
「お許しを得て申し上げるのであれば、カナタの選択が最善かと存じ上げます」
「ではその通りにしよう」
その場ですぐにカナタが書面を用意し、ナルサスはほんの半月で中書令の地位を退くことになった。最も彼にとっては宮廷画家という理想の地位があるので、後に任命された軍機卿(フォッサ―ト)は、軍を動かし、戦略を定め、戦術を行使する権限が必要ということで形式上そうなったが、その地位とて誰かが欲しがれば退いても良いと考えていた。
アルスラーンがルーシャン卿を中書令に任命するという書面にサインをすると、カナタはそれを報せる書類をすぐさま作成すると言い、アルスラーンとナルサスの元を去った。
「はぁ、久々に大声で笑った。礼を言う、ナルサス」
「弟子が師のことを言うのにあれでは、私の躾け方に問題があると思われそうで甚だ困ったものです」
「いかにもナルサスの弟子らしくて、よいではないか。カナタはこの頃、何か雰囲気が変わったように思う。ナルサスが何かしたのではないのか?」
確かに「何かした」と言えるほどの出来事が、ナルサスにはすぐに思い当たった。先日の浴場でのことである。しかし彼からすればあの出来事はあまり思い出したくない類のもので、誰にも悟られぬよう記憶の奥底に封印しよう、と心に決めていた。
「いいえ殿下。何もしておりませぬ」
必要以上に盛り立てられたナルサスの笑顔を見て、アルスラーンは何かこれ以上踏み込んではいけない気配を察知した。年若い王太子にはその理由など、想像できるはずもないことであった。
ペシャワール城には十万の兵が集まり、城内はかつてないほどの英気に満ちていた。いよいよエクバターナへの出陣の日まであと二日と迫ったところで、ナルサスはアルスラーン殿下に話したいことがある、と時間を確保し、何人かの者に召集をかけた。
集められたのは、ダリューン、キシュワード、ファランギース、ルーシャン、ギーヴとそしてカナタだった。八人が卓につくと、ナルサスはすぐに本題に入った。何の前置きもなく話す、ということは、長々と話していい話ではないな、とギーヴはその瞳をいつもより細く研ぎ澄ました。
「昨年、アルスラーン殿下がこのペシャワール城にご到着なさったとき、奇怪な銀仮面を被った人物が、殿下を襲撃いたしました。むろん覚えておいででしょう」
ナルサスは唯一その場に居合わせなかったルーシャンのためにそう口にしたのであって、その場にいた他のものが忘れているはずがなかった。アルスラーンの表情がいくらか緊張して閉ざされるのを見て、長引かせる必要はあるまいとナルサスは次の言葉をすぐに投じる。
「銀仮面の人物の正体は、ヒルメス王子と申します。父親の名はオスロエス、叔父の名はアンドラゴラス。すなわちアルスラーン殿下の従兄にあたられる方です」
「すると、世が世なら私の代わりに王太子となっていた人か」
「さよう、オスロエス五世陛下がご存命であれば当然そうなっておりました」
「ナルサス…!」
「ダリューンさま、どうか」
カナタがダリューンを静止する。ダリューンの態度は当然、アルスラーンが一層に表情を冷たく曇らせたのを案じてのことであった。ナルサスは構わず、言葉を続けた。ルーシャンが投じたヒルメスは真に王子かという質問に対するナルサスの回答や、そこから派生して話されるアンドラゴラス王即位の前後に生じた事実と噂の数々は、アルスラーンにとってその場ですぐに受け止めきれるものではなかった。そして、そこにいる誰もがそう感じていた。
「わかった。さしあたって私は、従兄殿より先にルシタニア軍と決着をつけねばならぬ。みんなに力を貸してもらいたい。それが一段落したところで、従兄どのとの間にきちんと話をつけるとしよう」
年若い王太子は心なしか青ざめた顔で、それでも立派に君主としてその場で宣言をした。