024/相談
老バフマンの言動や挙動に不審感を募らせながらも、その夜にアルスラーン、ナルサス、ダリューン、ファランギース、ギーヴにキシュワード。そしてカナタの七名は、一同キシュワードの部屋に介した。
当方国境一帯の地図を広げて、王都に攻め上る前にやっかいなシンドゥラ国の軍をどうするか、その話し合いを行っていたのである。当然のことながら、彼らの議論にとって障害にしかならぬ冴えのなさを持ったバフマンの姿はそこにはなかった。
今シンドゥラ国は、ガーデーヴィ、ラジェンドラ、二人の王子による王位争奪のための派閥に分かれていた。ガーデーヴィの方が後継とされるには優位な条件である、その母なる者の身分の高さを持ってはいたが、王宮や貴族の屋敷から姿を見せぬガーデーヴィよりも、気前のいい快活な生活の飾らぬ王子、ラジェンドラの方が国内の商人や農民などを含めた民衆からの支持は厚いという。
「結局のところ、どちらかの王子が完全に勝利をおさめねば、今日のようにシンドゥラ軍がパルスの国境に攻めてくることは変わりませぬ」
「そうか、ナルサスはどのようにするのが良いと考える?」
「そうですな…殿下。恐れ多いことながらその件については我が弟子であるカナタから話させてもらいましょう」
わざわざ弟子を指名するのは、ここでキシュワードにその能力を見せて一先ず彼の信頼を得ておきたかったからだ。カナタは一応ナルサスの表情をうかがって簡潔に答える。
「強い者を助けても恩を売ることができませんから、ラジェンドラ王子を助けるのが定石だとは思います。ですが一点気にかかることがあります」
「気にかかることとは?」
「ラジェンドラ王子の人となりです。恩の重さを知り、立場を理解して行動できる者なら問題はありませぬが、それを重荷に感じるようではいずれ機を見てパルスに侵入してくるでしょう。それ以上に欲の強く悪どい者であったとすれば、我々が背を向けたすきに後ろから襲いかかってくる可能性もあります。キシュワードさま、この辺りのお話を詳しくうかがってもよろしいですか?」
迷いもなくそう推測してみせたカナタに名を呼ばれ、キシュワードは少々驚いた様子を見せたが、すぐさまラジェンドラ王子の人となりについて話し始める。ナルサスは内心で、掴みは問題なかったようだなと微笑んだ。
「私が先日、シンドゥラ軍の兵士から聞いたところでは、ラジェンドラ王子は野心もあれば欲もあり、信頼できるような人柄ではないということでした」
「それはガーデーヴィ陣営の兵士の言葉でしょうか」
「ええ。ですから多少は誇張を含んでいるかもしれませんが」
「いずれにせよラジェンドラ王子は王位継承権の順位ではガーデーヴィに劣るながら、それでも王になろうと争っているのですから、野心家という点に関してそこまで疑う必要はないかと」
「では、ラジェンドラを助けても意味はないのだろうか」
殿下からの問いかけに再びカナタは口を開いた。
「いえ、やはりラジェンドラ王子を助ける方がよろしいかと存じます。我が軍の背から襲ってくるとき、相手は我が軍が安心しきっていると思いこんで、勝利は自分のものと信じ切っているでしょう。その油断を利用すべきです」
「ふむ……」
「殿下、どうせガーデーヴィ王子が勝利したとしても、国境地帯に野心を持ち、侵入してくるでしょう。それなら、ラジェンドラ王子に勝たせたほうが良いのです。ラジェンドラ王子が勝っても、シンドゥラの国がすぐに統一されることはありません。一度我らの背後から強襲して敗北したとなれば、以後しばらくは国内の統一に目を向けるでしょう」
「なるほど…。それでその間に我々は、後方へのうれいなく王都へ軍をすすめることができるわけだ」
カナタの説明にダリューンが合点し、殿下とファランギース、そしてギーヴも賛同した。ナルサスは何も言わずしたり顔で頷く。しかしキシュワードだけが、老バフマンのあの様子からするに、最悪の場合には自分の部下一万騎しか動かせないということに不安を感じていた。その様子をその場で悟ったのは、ナルサス一人のようだった。
「キシュワード殿、ご心配なく。ここに数年かけて私が蓄えてきた、もう十万ばかりの兵がおりますゆえ」
彼は決して茶化すわけでもなく、真剣な面持ちをして、指でカナタの頭をつついてみせた。
一応は会議を終えたので、各々は割り当てられた部屋に戻った。しかしファランギースとともに部屋に戻ろうとするカナタを、アルスラーン殿下が呼び止めた。
殿下は少し話があるとカナタに伝えると、彼女を自分の部屋に招き入れた。
「おぬしも疲れているだろうに、呼び止めたりしてすまなかった。ナルサスに相談をしたところ、カナタに話を聞いてみるのがよいと言われ、どうしても聞いてみたいことがあったのだ」
楽にしてくれ、と殿下から言われ、カナタは殿下に向かいあうような形で、部屋に置かれていた豪奢な椅子におずおずと腰掛けた。
「それで、聞いてみたいこととは何にござりましょう、殿下」
「うむ。ああ、その前に一つ、礼を言わせてくれぬか。カナタはナルサスの弟子で、ナルサスの下で教えを受けるためにこの旅に同行してくれているのに、いつもおぬしの知略には私が助けられてばかりだ」
礼を言う、という言葉はカナタには目の前の十四歳の少年から出たものとは思えぬほどに神々しく感じられた。
「…勿体無いお言葉にございます、殿下。それに、正直に申し上げるならば私はあの山奥から出るときには確かに先生の側にいたい一心でありました。しかし旅をして自分の世界が広がれば広がるほどに、私の頭の中にあるもの総てを以て、殿下のお役に立ちたいと心からそう思う気持ちが強くなる一方なのです」
「私は本当に、仲間に恵まれたな」
アルスラーン殿下に心から忠誠を誓いたい、そう思わせたのは皮肉にもあの銀仮面の男――ヒルメスだったのだが、無論あの男よりもましだという理由で決めたわけではなかった。カナタがこの世界に来てから学んだどの国の君主よりも、その心意気に純粋に惹かれ、心動かされる存在がアルスラーン殿下であった。
「本題からずれてしまった。おぬしに聞きたかったのは、このペシャワール城にいる奴隷を解放することについてなのだ。…カシャーン城塞でのことを、覚えているだろうか」
あの時解放した奴隷に、主人の仇と叫ばれたときのことを思い出しているのか、殿下は感傷に引き込まれるような表情を見せた。しかしすぐに瞳の奥に火を灯らせ、カナタに語り続けた。
「あの後からずっと考えていたのだ。私はやはり、奴隷を解放しようと思う。人は本来自由を求め、今日よりも先の未来に希望を抱いて生を全うするべきものだと、そう思うのだ。そこでカナタに聞きたい。ペシャワール城の奴隷六万を解放するのに、私が何をすることが、彼らを正しい道へと導いてやれるだろうか」
殿下の持つ熱に飲まれそうになりながらも、カナタはその問いかけに何と応えるべきかを考えた。そうしてその場で出した結論はその場で殿下を満足させるものではなかったかもしれない。しかし正直に伝えることが今の自分にできることだと、カナタはゆっくりと口を開く。
「殿下、六万の人が突然に解き放たれたとき、彼らの住むところ、食べるもの、そして己の日々の糧になるものについて、今の私にすぐに考えを用意することはできませぬ。誠に僭越極まるところながら、しばらくお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
自分に用意できぬ答えを、既に師であるナルサスは持っているのではないか。持っているとして、殿下にわざわざこのようなことをさせるのは、自分を試している証拠だ。師の期待に応え、何よりも殿下の語る理想の第一歩を叶えて差し上げたいと、カナタはそう思いながら殿下の部屋を後にした。
そこに不吉な影が迫っているとは、誰しも知る由がなかった。アルスラーンはカナタと話した後、部屋を出て城壁の上へ通じる廊下を歩き出した。城の中にいれば危険が伴うようなことはないだろうと、護衛も付けずに歩いていると、連日の逃走生活からの開放感が押し寄せる。
ふいに聞こえたのは、確かに甲冑の揺れる音だった。静寂の中響くそれに全身を緊張させ、アルスラーンは闇に向かって何奴かと問いかけた。