019/情愛
気配を感じた途端に跳躍しなければ、恐らく太腿から下を持って行かれていただろう。ナルサスの靴底は、鋭利な刃物によって切り開かれていた。その様子を見たアルフリードが不安げな声を上げた。
「ねえカナタ、どうしたらいいの」
古い書物の内容を必死に思い出していたカナタは、額に冷や汗をかき青ざめた顔をしながらも、アルフリードに向かって微笑んでみせた。
地面を遁行し、素早く動く。こちらのことは完全に見えるわけではなく、しかしその気配を探る術に長けている。術の特性ゆえ、地面から生えているものの中に入ることはできない。建物の床など人工物は別。地面の中にいるのは、魔道士という特殊な術を身につけているが、その本体は人間と違わず生身を持った者。倒す方法は二つ、毒水を地面に浸水させるか、あるいは───
大丈夫、覚えている。そう確信してカナタはアルフリードの肩を叩いた。
「アルフリード、木登りは得意?」
「簡単さ、そんなの」
「じゃあそこの大きな木に上って。そして上から見ていて」
「あんたとナルサスは大丈夫なのかい?」
「大丈夫。少なくともアルフリードが作ってくれたご飯を食べるまでは死ねないよ」
こんな状況で口走る言葉ではないようだが、カナタは自分自身の恐怖を制御するためにも軽口を叩いてみせた。地面から手が生えて動くことなどない、そこにいるのはいくら奇妙な力を持っていても他ならぬ生身の人間だ。そう言い聞かせて、アルフリードを上らせた木から離れるように駆け出した。すぐそこにはナルサスが長剣を構えてつま先立ちの格好を取っている。
「おう、おう、こざかしい真似を。だが、どこまで保つのやら…さて、どちらから仕留めてやろうか」
カナタは浅い呼吸を繰り返した。得体の知れない、魔道を扱うその低い声の持ち主がすぐそこに、しかしどこか分からぬところに潜んでいる気配をしっかり感じる。しかしてナルサスはその声を聞いて不気味に思いながらも安堵していた。口を聞く相手であれば、ナルサスは恐れという感情をほとんど持たなかった。少し余裕ができて周囲に視線を巡らすと、近くの家の軒下にナツメ油の入った瓶があるのに気付く。カナタに視線を送ってから小さく首を動かしてそれを見るように誘導すれば、カナタは同じく最小限の動きで頷いてみせた。地面の中にいる相手に気付かれぬよう、ナルサスが油の入った瓶をそっと倒す。
カナタはナルサスにそれを見せつけるかのように、片手に火打ち石を包み込んだ。そうして衣擦れの音ひとつ起こさぬよう、慎重に腰袋からハンカチを取り出す。瓶から油がすっかり流れ出し、地面に油が染みこんだのを見計らい、カナタは豪華な刺繍のされたおおよそこの場には似つかわしくないハンカチを、地面に流れ出た油に浸した。
沈黙の中、ナルサスの視線を承認と受け取ったカナタは、一瞬のうちにハンカチに火をつけると、それを地面に投げつけた。そこに敵が潜んでいるかはもはや師の判断に委ね、迷いなく行動を起こす。
「異界の者め───!」
しかし火を放ったと思われるその瞬間、地面からふと聞こえた蛇が威嚇をするようなその声にカナタの体はまるで睨まれた獲物のように硬直してしまった。自分のことを異界の者と呼んだ。その事実がとてつもなく恐ろしい。足元には炎も、その熱に炙られて蜃気楼のように揺らめく刃を持った腕も見えていたのに、そこから一寸たりとも動けない。
左脚に痛みを感じたのは直後のことであったが、そこから百分の一秒もしないような速さで間髪を入れず、ナルサスがカナタの体に半ば体当たるような形で飛び込んできた。必死でカナタの頭をかき抱き、勢いのままに三ガズ(約三メートル)ほど離れたところに体が覆い被さるような体勢で倒れ込んだ。
すぐさまナルサスが後ろを振り向けば、轟々と半径五ガズ(約五メートル)ほど燃え上がっている地面の上に、人間の大きさと形をした炎の塊が踊り狂っていた。おおよそこの世のものとは思えぬような奇妙な絶叫が響く。生きながらにして燃えているそれは、それでも二人の方へ向かい、つかみかかろうとしている。ナルサスは勢い良く立ち上がり、長剣を抜くと、その首めがけて斬撃を食らわせた。暗闇の中をとんでいったその頭部は、地面に落ちてもなお激しく燃え続けている。
終わったと分かったのは、切り離されてもこちらに向かってきそうな首から下の身体が、炎の中で崩れ落ちる様子を見たときだった。ナルサスは深い息を吐き出しながら長剣を鞘に戻す。
「カナタ、ナルサス!あんたたちすごいよ!何も言わないのにあんなに息を合わせて、あのバケモノをやっつけるなんてさ!」
興奮気味に素早い動きで木の上から下りてきたアルフリードは、二人に賞賛の言葉を送った。ナルサスとカナタはその様子を見て、まだ嫌な汗が引かぬ様子であったが笑ってみせた。よくも倒せたものだと、その感想を抱いていたのは張本人である二人だった。安心した途端にようやく痛みに気付いたのか、カナタはようやくそこで自分の脚の状態に気付いた。左脚のふくらはぎからアキレス腱にかけてのところが、一体何で斬ったのかというほどすっぱりと裂けてしまっている。
「やはり斬られたか。アルフリード、さっきの家に桶いっぱいの綺麗な水と、清潔な布を用意してくれ。それと湯を沸かしておいてくれるか」
「わかったよ、ナルサス!カナタ、大丈夫だよ。傷は深くない」
「おいカナタ、痛むだろうが少しの辛抱だ。今は何も考えず俺に体を預けろ」
ナルサスはそう言い放つと極力揺らさぬように気を付けながらカナタを横抱きにして運んだ。手早く家に運び込みベッドに連れていくと、その身体をゆっくりとそこに横たえる。綺麗な水で傷を洗い流している間も、出血が止まる様子はない。沸かした湯で布を煮ている間は、ひとまず余った清潔な布で傷口を圧迫するように縛る。そうしてどこからか適当な布団を持ってきて、それを何重かに丸めて、カナタの左脚を乗せる。何かが触れる度に傷口が痛むはずだ。しかし手際よく処置をするナルサスを不安な気持ちにさせまいと、カナタは歯を食いしばって必死に声を堪えていた。沸かした湯から布を引き上げようとナルサスが部屋を出ると、不安げに眉尻を下げたアルフリードが走り寄った。
「…ナルサス、どうだった?」
「一通りの処置はした。血が止まるのを待って、すぐにでもここを発つ」
「大丈夫かい、その、顔色がよくないようだけど」
「おぬしに心配されるとはな…。アルフリード、カナタはお前の作った飯を食べるまでは死なぬと言っていたな。今は食べ物を口にできるような状態ではないが…何か持ち歩けるようなものは作れるか?」
そう言われるや否や、アルフリードは慌てて台所に行くと、何やらガチャガチャと音を立てて作り始めた。
出血はほどなくして止まったようだったが、カナタは傷口の持つ熱が全身に回ったのか、夜更け頃まで熱にうなされていた。ナルサスはそんな彼女の傍らに座り、額に乗せた布を変えたり汗を拭いたりと、看病を続けた。
この旅に出て危険な目に遭わぬはずなどないと最初から理解していたが、目の前の少女のことに関してはどうやら覚悟が足りないようだと自覚する。銀仮面の男と対峙しているカナタの気迫はさながら戦士のようであったし、アルフリードに対してかけた言葉には正義と愛が満ちていた。今日とて魔道を使う得体のしれぬ敵を、あの状況で持てる知識を総動員して見事に罠にはめてみせた。その実力にも度胸にも心意気にも、師として何も恥じるところはない。
「この場合、俺の気が弱いということになるのだろうかな」
いつの間にこんなに大切なものができてしまったのかと、ナルサスはひとりごちて笑った。