006/祝詞
翌朝、目を覚ましたカナタは、眼前にあるその顔を見て、思わず声を上げそうになった。すんでのところで留めたそれをしっかりと飲み込んで、まだ寝息を立てているナルサスの顔をまじまじと見る。
瞳が開いてしまったらどうしよう、と少し鼓動を速めつつ、朝の光に照らされた金糸の髪がキラキラと輝くさまをぼうっと眺める。一本一本に光が入り込んだように煌めき、まばゆい光を放つようなその髪がカナタは好きだった。この世界に来て、心から美しいと思ったものの一つでもある。
自分にとっての彼の存在とは、この世の全てのように思った時期もあった。彼に認められることが存在意義で、至上の幸福だと。しかし今はどうだろう。目の前で眠る彼は確かに大きな存在なのには変わりないが、自分の存在意義は別のところにできたような気がする。
国のために軍を動かすこと、今後を担う自分の思想を継いだ人材を育てること、立派な国王となったアルスラーン陛下をお支えすること、そうして愛しい彼の隣に立ってこれからも歩んでいくこと。他にも様々な人との関わりが、カナタの中で広がり、どれひとつ取っても自分を構成するに欠かせないものであると感じた。
昨夜のことを思い出すと、再び体が熱を孕んでしまいそうで、カナタはぶんぶんと頭を振る。汗と体液でまだ濡れている体を清めてしまおうと、肩から羽織をかけて屋敷にある浴場に向かった。式典用の衣服でなんてことをしてしまったのか、と羞恥と後悔が混じった気持ちを抱えつつ、カナタは羽織を脱ぎ捨てて湯に浸かる。
普段は使わない場所の筋肉を使ったので、翌日になってもどこか心地いい痛みが残っていた。思い出せば恥ずかしい、しかし思い出さずにいられないほどの嬉しさを持った昨夜の営みのことをカナタはぼんやりと考える。自然と緩む頬をどう戻してよいのかが分からない、そんな風に思っていると、浴室の扉をコンコンと叩く音が響いた。
「入ってもいいか」
カナタは必死に自分の表情を引き締めようとしたが、扉一枚隔ててナルサスがいると思うとそれには相当に弛まぬ努力が必要であった。深呼吸を繰り返し、なんとか平静を装った声で「はい」と小さく返事をすると、扉は開き、彼の足音がひたひたと近付いた。湯を一杯かぶると、ナルサスは何でもないような動作でカナタの隣に体を浸ける。
「カナタ」
目を合わさない彼女の心境がどういうものなのか察したようで、ナルサスはこれ以上ないくらい優しく名前を呼んだ。可愛らしい、愛おしい、そういう感情が全て込められたように名を呼ばれては、カナタとて無下にする訳にもいかない。隣にいるナルサスは、湯に浸かるためにきちんと御髪をまとめて高く結っている。普段はあまり日の下に晒されぬ双方の瞳のどちらもが自分だけを見つめているのだと思うと、カナタの心には静かに満たされるものがあった。
「ナルサスさま」
「どうした」
「いえ、先生でも、ナルサスさまでもない…昨夜はそうお呼びしましたが、皆の前ではまだナルサスさまとお呼びしてもよろしいでしょうか」
「別に構わんよ。二人でいるときだけ、昨夜のように呼べばいい」
突然敬称もなしにナルサスのことを呼んでは、恐らくダリューンやギーヴ、ファランギース辺りには昨夜のことまで筒抜けになってしまうように思われた。もしそうなったとして、今それに耐えられるだけの心構えはまだカナタにはない。
「婚礼の儀も行わなければな」
「パルスでは婚礼の儀というのは、何をするのですか?」
「神々の前で誓いを立てるのが一般的だが…お前がもし望むなら、元の世界の習わしに沿ってもいい」
「では私の両親を呼びつけて、感謝の手紙を読まねばなりません」
「ほう、そんなことをするのか」
すっかり肩の力を抜いて、ナルサスとカナタはじゃれ合うように会話を交わした。彼らの未来を語るのは、今何よりも楽しく、そして何よりも大切なことに思われた。
「いずれにせよ、陛下が御即位されて一年が経ったばかりだ。時期は少し先になるだろうな」
「そういうものですか?」
「そういうものだ。祝い事が一度に来ては困ることもあるのだ」
「私のいた世界では、結婚をした男女は儀式の後その足で旅行に行くという風習があります。その…ナルサスさまさえ構わなければ、婚礼の儀を恙無く終えたら、少しの間二人で遠くへ出かけたいです」
「どこか行きたいところがあるのか?」
「はい。まだ見ぬ世界がたくさんありますから。それをナルサスさまとともに見られることが、私にとっては一番の楽しみです」
無邪気に微笑むカナタの横顔を見て、ナルサスは自分にもその表情が伝染っているのを感じた。こうして隣で笑い、気持ちを語り、お互いに想い合いながら過ごせる日々がようやくやってきたのだ。愛おしさのあまり彼女の体を軽く持ち上げ、向かい合うように膝に座らせる。カナタは多少驚いた様子を見せたが、恥じらいよりも嬉しさが勝るのか、笑みを崩さずに小さく抗議の声を漏らしただけだった。
そうして互いの顔を見て、幸せが溢れて満ちる気持ちを抱きながら、朝日に煌めく水面に照らされ、そっと口付けを交わすのだった。
結局その日は昼から二人で王城へ向かい、職務を何気なくこなした。陛下の即位後一年の式典の翌日ということもあり、城の者もどこか浮足立った様子で昨日の話に花を咲かせた。式までには、と間に合わせるように色々なことも済んでいたので、ナルサスもカナタも日暮れとともに仕事を切り上げ、帰路についた。
「そういえば、今日はエラムが食事を作りに来ると言っていたな。お前も来るか?」
「はい、ぜひ!久し振りにエラムの作ったご飯が食べたいと思っていた頃でした」
「そうだな。王都に来てから、エラムには俺の身の回りの世話などさせている場合ではなかったからな」
「ナルサスさまがお望みなら、私がお料理くらいはしましょうか」
「すまん、もう少しこの幸せな気分に浸らせておいてくれぬか」
完全に自分の料理の腕前を知っている上でからかうような言い方だったが、ナルサスはそれに対して、いくら惚れた弱みがあっても肯定の意思を示すことができなかった。カナタはカナタで自身の特性は理解していたし、本気で申し出たわけでもなかったので、ナルサスの困った表情が見られたことに満足しただけである。
屋敷に着くと、そこには既に空腹の二人を出迎えるに相応しい香りが漂っていた。カナタは上着も脱がぬまま厨房に足を向けると、エラムに早速そのことを叱られた。山奥にいたときにも旅をしていたときにも、毎日のように顔を合わせていたエラムに会えないことが純粋に寂しいのだ。それゆえ、久々に顔を合わせるとつい昔のようにたしなめられたくなってしまうのは悪い癖だ、と彼女は自負はしていた。していたがやはり欲望はとどまらず、揚げたての野菜を一切れつまみ食いして再び懐かしい怒声を浴びるのだった。
食卓は賑やかだった。囲んでいるのは三人だったが、何より落ち着く心地がある、とナルサスは思う。そうしてエラムの作った料理に舌鼓を打っていると、ふと何かに気付いたカナタが短く、しかし大きな声を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「エラム、これ…」
彼女が指差しているのは、蓋を開けたばかりの土鍋である。大袈裟にリアクションを見せる彼女をやや不思議に思ったエラムだったが、その行動の理由に思い当たるものがなく、仕方なしに素直に問い掛けた。
「カナタさまの故郷では、おめでたいことがあったときに豆を入れて米を炊くのだと聞いたことがあったなと思い、再現してみたのですが」
何か違うところがありましたか、と尋ねるエラムの声はもうカナタには届いていなかった。確かに昔そう話をしたことがあったかもしれないが、その再現度たるや、目の前に炊かれたまさしく『赤飯』というべきものを見て、カナタは一気に顔が熱くなるのを感じた。赤飯を炊く、それは確かに祝い事があったときで間違っていないのだが、まさか今日この日がその日だとエラムに知られているとは思いもしなかったのだ。隣に座るナルサスもその意図を素早く理解し、同じく頭部に熱を呼んでいた。
「お、おおおめでたい、ことだなんて!エラム!!」
「そ、そうだぞエラム。さすがに昨夜のことを祝うなど…こういうことは気付いても口に出してはならん。ましてやめでたいなど、決して女性に言うものではない!」
まずい。その場に居合わせたナルサスとて、まさかエラムに昨日のことを知られているなど考えもしていなかった。しかし確かに彼には屋敷の鍵も渡しているし、その一部始終を聞かれて、よもや見られていたとしたらと思うと、二人は全身から火が噴き出しそうになる。慌てふためく二人の姿を見て、エラムは不思議そうに声を上げた。
「一体何のことを仰ってるんですか。アルスラーン陛下がご即位されて一年、それのお祝いではないですか」
エラムの言葉に二人はびくりと肩を震わせた。すっかり勘違いしていたことを一言で理解させられ、今度は嫌な汗がダラダラと止まらない。
「お二人とも昨日の夜に、」
何かあったのかと問い掛けて、エラムは言葉を止めた。目の前のカナタも、ナルサスも、耳まで真っ赤にしてお互いに口元や目元を手で覆い隠している。さすがのエラムも二人の様子に何も察しないわけはなく、二人からもらい火をしたように首までも真っ赤にした。
しばらく三人は豪勢な食卓を前に、ただただ黙って俯いていた。
End.