やさしく埋めて

春、はじまりの季節である。



01 : Fill me tender.


「訪問授業ですか?」

念願の、といっても非常勤ではあるが、立海大付属中学の教師になった春。
はじまりの季節は慌ただしく、校内はそわそわとし、教職員はまだ昨年からの引き継ぎ業務がちらほらしており、それでもなんだか嬉しい雰囲気が漂っていた。
そんな矢先に校長に声を掛けられ、私はとある生徒の「訪問授業」の仕事を頼まれる。

「長期入院していてね、夏に手術を受ける予定の子なんだ。優秀な子ではあるが学習面での不安もあるだろうし、君にお願いしたいんだが どうだろうか」


部屋番号確認、よし。名前確認、よし。
担当の看護師さんにも挨拶を済ませたし、身だしなみチェックも、よし。

軽く2回ノックをして、一声かける。中からは少しあどけなさを残す声が聞こえ、私は病室に足を踏み入れた。

「こんにちは。ミナミです」
「こんにちは!」
「幸村精市くん、だよね。校長先生から話は聞いてると思うけど、今日からよろしくね」
「はい、こちらこそよろしくお願いします」

礼儀正しい、利発そうな、それでいて儚げな少年は、満面の笑みで私を迎えてくれた。
まさしくそれが 幸村精市という少年との出会いであった。


週に3回、月、水、木と授業にくる。
月曜日は午後からで、他の2日は朝からお昼まで。

「先生、この問題のここからが分からないんだけど…」
「うん。ちょっと見せてごらん」

幸村くんは非常に出来がよく、また可愛らしい生徒であった。
飲み込みが早いのはもちろんのこと、しっかりと予習復習をしてくれているので、正直私が教えるようなことはほとんどないのであった。
彼は頭が良かったけれど嫌味もなくて従順だった。なにより子どもらしく笑う姿を見ていると私のほうも嬉しくなったのだ。

「よし、それじゃあ今日の授業はここまで」
「ありがとうございました」
「学校は今日、課題テストだったみたいよ。順位はつかないけど、幸村くんにもテスト問題持ってくるからまたやろうか」
「あ、そっかそれで…」
「どうかしたの?」

何かを思い出したように幸村くんは携帯電話を取り出す。日付を確認して、それはもう嬉しそうに微笑んでみせた。

「今日、友達が見舞いにくるって連絡があったんです。珍しいなぁと思ったら、テストだったんだと思って」
「あら、何時から来るの?」
「3時半って書いてあるから、もうすぐ来ると思います」

ちょうどその時、部屋の外に人の気配がした。幸村くんはそれを感じたのか、ノックの音がする前に「どうぞ」と声をかけた。
スポーツバッグを背負った少年が1人入ってくる。私の姿を確認すると、少年は軽く頭を下げた。

「いらっしゃい、真田」
「調子はどうだ、幸村」
「体調は悪くないよ。退屈で死にそうなことはよくあるけどね」
「そうか」
「真田、俺の授業見てくれてるミナミ先生だよ」
「うむ。何度か校内で見かけている」
「真田くんこんにちは。いつも幸村くんから話は聞いてるよ」
「む…そうでしたか」

真田くんは幸村くんと違って、愛想とかとは無縁に見えた。けれど2人のやりとりを見ていると、なんだか「男同士の友情」というものを垣間見た気になった。
多くは語らずとも真田くんからは幸村くんへの思いやりや、心配しているという気持ちが伝わってくるのだ。


「幸村くん、テニス部の部長なんだね」
「うん、真田が副部長」
「こう言っては失礼かもしれないけど、真田くんのが部長っぽい気がする」
「先生は学生時代にスポーツとかやってましたか?」
「うーん…必要最低限しかしてなかったなぁ」
「俺はテニス、すごく小さい頃からやってたから、今こうしてテニスをしていないと自分が自分なのか分からなくなるときがあるくらい」
「生活の一部なんだねえ、羨ましいよ」

うらやましい、という言葉の響きに幸村くんは少し複雑そうな顔をしてみせた。
そういえば彼は病気でテニスができないのだから、簡単に口に出していい言葉ではなかった、と後悔が頭を過る。
必死で次の言葉を探したけれど、探せば探すほど何もかも滑稽な言い訳に見えてしまって声が出なかった。
先生、と幸村くんの声が聞こえるまでの時間がいやに長く感じられた。

「そんな、悲しそうな顔しないでください」

それは私の台詞だ、と言おうと思ったけど、幸村くんの顔は悲しそうなんて言葉では形容できないくらいに歪んでいた。
何も言えないまま、その日はごく普通に授業をして逃げるように帰った。


幸村くんは病気で、手術の結果によってはもう二度とテニスができないかもしれない、と聞いたのはしばらく経ってからだった。
入院していてテニスができない、のではなく、病気で一生テニスができない可能性があると。
テニスをしていないと自分が自分なのか分からなくなる と幸村くんは言っていた。体は生きているのに、心は死んでいるようだ、と。
決して、未来ある中学生の男の子が口にしていい言葉ではない。

溜息をついてもしょうがないし、私がいくら考えたって彼の病気が治るわけではない。
それなのに足は病院に近づく度に重たくなり、病室の扉をノックしようとしては躊躇い、あっちをうろうろ、こっちをうろうろ。
そうこうしているうちに10分、20分と時間は無情に過ぎ去っていく。

「あの、先生」
「えっ」

何度目か分からないノックを決心して扉に向き合ったとき、あろうことか病室のドアを開けたのは幸村くんであった。
私は気まずさと恥ずかしさとで合わせる顔もなく、ぎこちなく笑ってみせた。

「なかなか来ないなって思って、覗いてみたら何か難しい顔してたので」
「そっか、心配かけちゃってごめんね」
「俺のせい、でしたか?」
「幸村くんのせいというか…私が考えなしに話しちゃったせいだよ」
「ねぇ、先生」
俺の病気って本当に治るのかなぁ と呟いた幸村くんの顔を、やはりまともに見れなかった。
絶対に治るとも、絶対に治らないとも、私の口からはそんなことさえも言えないのだ。
そんな私の気持ちを察したのか、幸村くんはすまなそうに笑った。

「待って、幸村くん。謝らないで」
「え?」
「幸村くんの質問の答え、先生ちゃんと考えてくるから。咄嗟に言葉が出なかった分、時間を掛けて考えてくるから」


まず状況を整理しよう。幸村くんは病気で、テニスが一生できない体になってしまうかもしれない。
彼にとってのテニスは生きがいで、テニスのできない自分=死んでいるも同然、と考えている。
そして病気が完治したとしてもその後の人生に支障がないかと言われれば、幸村くんの望む人生には支障は大有りかもしれない。
普通に生活はできても、以前のようにテニスを思い切り楽しむことは不可能…というケースは、幸村くんにとっては病気が治らなかったのとさして変わらないだろう。

立ち直れないほどの仕打ちにあって、そこから回復するには、希望が必要である。

この場合の希望とは、再びテニスができる、ということではなく、テニス以外の何かを見つけることが必要である。という結論を私は導き出した。
幸村くんにはテニス以外に何か好きなことはないのだろうか。
そういえば彼とは授業に必要なこと以外何も話していないような気がする。
天気がいいねとか、花が咲いたねとか、他愛のない世間話以外は何も。

「幸村くんは何が好きなんだろう」

一つの疑問に行き着いた私は、パソコンを立ち上げて作業をすることにした。



02 : Fill me sweet.


「アンケート、ですか?」
「そう、アンケート。その中に入ってるの。暇なときでいいから、回答して渡してね」
「分かりました。明日、渡しますね」
「うん」

茶封筒に入れた書類を渡して、その日はもう帰るところだった。
学校からのお便りに紛れ込ませた書類は、私が作ったアンケートだ。幸村くんのことを何も知らないことを知った私は、ひとまず彼がどういう子なのかを知るために質問攻めをすることにした。
そしてゆっくりと時間をかけて考えられるように、用紙に記入、というなんとも学校の先生らしい手段を選んだのである。

翌日、私が病室に入ると幸村くんははにかみながらアンケート用紙を渡してきた。
集計しておきますね~と冗談でいうと、おかしそうに笑ってくれる。

「先生、俺の好きなものなんて知ってどうするんですか」
「幸村くんに恋焦がれてる乙女たちの栄養補給にしようかな~、なんて 冗談よ」
「ふふ、俺みたいなのに恋焦がれる女の子はいないと思いますけど」
「あら。謙遜ね」

学校での授業も終え、家に帰った私は早速幸村くんのアンケートを眺める。
男の子にしては綺麗な字で、なんだか彼らしいなと思った。好きなものの中に「花」って書いてあるのを見て、おいおいこんな中学生男子がいるか、と吹き出してしまう。

「花か…」

よし、と意気込んで近所の花屋さんに電話をしてみる。ブーケを作ってくれないかと頼んだら、快く了承してくれた。
次の週のはじめ、私はブーケを携えて幸村くんの病室を訪れる。

「よっ!元気だった?」
「先生、それ、どうしたんですか」
「幸村くんが花好きだって聞いて買ってきちゃった」
「うわぁ…綺麗」
「好きなものが傍にあるって嬉しいよね。花瓶も持ってきたから飾っておくわ」
「ありがとう、ございます!」

満面の笑みの幸村くんを、ただただ純粋に可愛いなと思う。私が花を生けている最中もニコニコと笑みを絶やさない。


それからしばらく、私は病室に行くたびにブーケを持っていった。
幸村くんは本当に花が好きなようで、毎回同じようなブーケだったけれどとても喜んでいた。
春の花は華やかで、病室にはいつしか花の香りが漂うようになった。

しかし、同じようにブーケを持っていったある日、幸村くんはいつものように微笑んで、喜んではいなかった。

「ねぇ先生」
「どうしたの?」
「これからは、持ってこなくていいですから」
「…お花のこと?」
「はい」

言い出しにくそうにしている彼を見た途端、目眩がした。
彼の顔には悔しいとも悲しいとも怒りともとれない表情が浮かべられていたからだ。

「迷惑だったのならもう持ってこないけど…理由を聞かせてもらえたら嬉しいな」
「とても綺麗で、嬉しいんですけど、花は」

枯れてしまうから、とこぼした途端、口元がひどく歪んだのを見逃さなかった。

「俺…あの、俺は もう2度とテニスができない体だって、言われて…」

幸村くんは主治医の先生が話していたその内容を、聞いてしまったようだった。
仮に治ったとしても再びテニスをするのは難しいらしい。
花がいつか枯れるように、自分にだってその時は来るのだと。彼はそう言った。

「先生、なんで俺がこんな目に遭わなきゃいけないの?」
「幸村く…」

「俺の生きがいを奪って、生殺しにして、どうして俺じゃなきゃいけなかったんですか。
ようやく俺は、俺の望むものを手に入れたと思ったのに、どうして、どうして
俺ばっかりこんな辛い思いをしないといけないんですか… ねぇ先生、俺は、俺の生き方をどうして 
どうして否定されないといけないんですか!!!」

あぁ 彼は一人孤独に、こんなことを考えながら長い夜を過ごしていたというのか。
息を荒げてまくし立てていた彼の瞳には涙が。肩を上下させながら、それでも必死で私から目を逸らさなかった。

「ねぇ先生、教えてくださいよ…俺は、俺は…」

思うよりも先に、私の腕は幸村くんの身体をとらえていた。腕の中におさまる寸前に彼の身体がビクリと震える。そんなに怖がらなくてもいい。とにかく今は、彼に少しでも触れておきたくて。

その日は面会時間が終わるまで、帰らなかった。


あれ以来、幸村くんは時々思い出したように自分の気持ちをぶつけた。ある日突然生きがいを奪われた彼には、やりどころのない気持ちがあって当然だ。
ひとしきり喚いては私の腕の中で泣きじゃくる彼はやけに幼く映った。普段大人びているせいで、感情表現が苦手な子なのかもしれないな。

そんな幸村くんに対して私はかわいそうだと思いながら、このままではいけないと何か解決策を探していた。不満を吐き出せるようになったのだから、その先のステップに進まないといけない。
再び彼に書いてもらったアンケートを取り出し、思案を巡らせる。

「図鑑をプレゼントするとか…?美術館連れていく、とかはちょっとむずかしいかな」

気がつけばその状態で、5月に入ろうとしていた。



03 : Never let me go.


「…先生、これは?」
「それはねー、先生が買ってきたダリアの球根。それを今から植えます」
「ダリア」
「うん。幸村くんが前に、ブーケはもう買ってこないでほしいって言ってたでしょう」

だから、今度は一緒に大きくなっていけるようにと。
そう思ってガーデニングセット一式そろえてきてしまったのだ。

「あの、先生」
「花ってさ、愛情込めて育ててあげれば必ず咲くから健気だよね」
「そうですね…」
「この病室は日当たりがいいから、きっと綺麗に咲くと思うよ」
「心配かけてすみません、俺は」
「いいから、植えなさい」

幸村くんの言葉を遮ってダリアの球根をぎゅむぎゅむと土にめり込ませる。それを見ていた幸村くんが、そんなに乱暴にしてはダメだと言わんばかりに横からスコップで優しく土をかぶせた。

ダリアの花は、きっと夏になる頃には咲く。


球根から芽が出て、そのうちに葉が出て、茎は立派に太くなり、背丈は俺を追い越すだろう。

初夏のことであった。病室の窓からは緑の匂いのする風が流れ込み、俺の気持ちは比較的穏やかになっていた。
春頃は最悪で、情緒不安定。何か気に入らないことがあればすぐに喚き散らしていた気がする。

しかし、それも相手を選ばないわけではない。

自分の気持ちがまっすぐに外に出て行くようになったのは、先生に会ってからだ。
以前の自分ならば、きっと泣きながら訴えるなんて手段は持ちあわせていなかった。

ダリアの花はすくすくと育ったが、その割に茎はまだ頼りなくて、添え木をしてあげなければあっちへふらふら、こっちへふらふらと非常に危なっかしかった。
それでもなんとか支えられて、翌日にはまた新しい葉を出し、太陽を浴びて懸命に育っていこうとする。

生長を見守っているうちに、俺も頑張らないとな、という気持ちが芽生えてきた。もしかして先生が球根を持ってきたのはこれを伝えたかったからなのかもしれない。


『幸村くんを世の中に絶望させないためなら、やれることは全部やる。それが私の選んだ答えだから』


ダリアの球根を些か乱暴に埋めた後に、先生はそう言っていた。
力強く言ったその瞳に迷いはなくて、俺はこれ以上に自分を支えてくれる人なんて他にはいないと思った。
真田のように俺を支えてくれる人は他にはいないと以前から思っていたけれど、それとはまた違った感覚の支えられ方だった。親鳥が雛を見つめるような、そんな愛情深さを彼女から感じていたのだ。

俺は甘えているだけかもしれない。けれど、もう少し甘えていたいんだ。

ダリアの花が咲くように、俺もきっと咲かねばならないのだろう。
咲いた俺を彼女は愛でてくれるだろうか。毎日水をやり、栄養を与え、声を掛け、眺めては微笑んでくれるだろうか。


いつの間にかダリアの蕾は膨らんで、今にも咲きこぼれそうになっている。
手術を受けるのを決めたのは、ダリアの花が咲くのに、負けたくないという気持ちからだった。


04 : You have made my life complete.


「幸村くん、退院おめでとう」
「先生」
「今日でこの病室ともお別れなんでしょう?」

もう、渡してもいいよね。と言って差し出された花束を、俺は本当に純粋に嬉しいと思えた。
風になびくカーテンがぱたぱたと音を立てている。病室はとても静かだ。

「ダリア、咲いたね」

あの日先生が蒔いた種は、今や立派な花となった。病という圧力に押し潰されそうだった俺を、生命力の強さに感化された俺を、ずっと見守ってくれたダリアの花。
暗い気持ちも悩みも全部全部受け止めて、それさえも栄養にして育ってくれた。

「綺麗に咲いてくれてよかった」

ダリアの花にそっと触れて、その香りを確かめる姿に目を奪われた。
先生、この気持ちが人を好きになるということでしょうか。

どうしても触れてみたくて、俺は花に差し伸べられているその手を握った。驚いた顔でこちらを見る彼女。

さほど強くはない風にかき消されないように、精一杯声を振り絞った。

「好きです。先生」





(好きとは好かれたいと願うこと。)




End.