040/恵愛

アルスラーンにヒルメスのことを伝えた後、ナルサスにはもう一つ、大事なことを話しておかねばならぬ人物がいた。

「カナタさま、ナルサスさまがお呼びです」
「すぐに行く。執務室でいいのかな」
「はい。私にも同行するようにと仰ってましたが…一体何事でしょうか」
「うーん、城を不在にする間の連絡書を作るとか?」
「あと二日でここを発つというのに、ナルサスさまにしては些か急仕事ではないですか」
「それもそうね」

廊下を歩きながら、二人は呼ばれた理由の見当が付かないまま執務室の前に到着する。カナタが軽く扉を叩くと、いつものようにナルサスの声で「入りなさい」と短く返された。
カナタが執務室に入ると、そこにはいつもの机も椅子も書類の山もない。部屋の奥に真っ直ぐ、見事な織り模様の長い絨毯が敷かれ、その先には一脚だけ椅子があり、そこにナルサスが座っている。左右には松明が焚かれていた。

「カナタ、前へ。エラムはそこに控えなさい」
「御意にございます」

賢い待童はそこで既に何かを察したのかも知れなかった。すぐさまナルサスの左手に控えると膝をつく。その場を囲う雰囲気にカナタはやや緊張しながら、ナルサスの眼前に進みそこに膝をついた。

「殿下にあのようなことを告げたすぐ後で、悪いな。本当はもう少し余裕を持ってやろうと考えていたのだが、何より今回ばかりは俺の方が慎重になった。顔を上げなさい」

言われた通り、カナタは顔を上げた。

「お前が俺の弟子になってから、何年になる」
「もうすぐ三年です」
「そうだな。俺はお前がこの世界に来たとき、自分に弟子なんて取る気は全くなかった。ただ、お前の純粋な学びたいという気持ちとその素質が、俺をその気にさせ、お前は弟子になった」

この世界に来たばかりのカナタに、ナルサスは最初何の興味もなかった。突然異世界からやってきたというので、突然帰っていくだろう。移りゆく天候や季節のように、人知の及ばぬところで決まっていることだと思っていたのだ。しかしカナタは何日経っても帰らないどころか、反対にこの世界に順応し始めた。

「そうして何の所以か数ヶ月前、アルスラーン殿下とダリューンが俺の元を訪れた。お前が俺の知恵を受け継いだ弟子だということを隠して、一時はギランの旧友に預けようとも思ったが、お前は自ら殿下に申し出て策をうってみせると豪語した。覚えているか」
「もちろんです。あの時は先生について行きたくて、とにかくそう言いました」
「山を下りてから山岳地帯でカーラーンの隊と戦う前、手を震わせていて俺に叱咤されたことも、覚えているか?」

口元に意地悪そうな笑みを浮かべてそう言ったナルサスの言葉に、カナタはやや心地悪そうに頷く。

「しかしお前はそこで、守るべきものを守るための強さについて気付いた。強大な敵と対峙して足がすくむこともあっただろう。ダリューンに殺気を飛ばされて腰を抜かしていたこともあったな。そこで周りが笑っても、お前は立ち向かう選択をし続けた」
「それは、先生の教えがあったからです」
「いいや。間違いなくお前が選んだお前の道だ。ペシャワールへの道中では、見ず知らずの者の命を助けるために、ヒルメス王子に向かって己の正義を語ってみせた。農村で魔道の者と遭遇したときには、正確に記憶していた対処術をあの場で見事に駆使して、俺の命も、お前自身の命も救った」

ナルサスがこの旅路を振り返り、そして今ここで何を言いたいのか。カナタには何となく分かっていた。しかし師の言葉の端々にカナタに対する慈しむような優しさが込められているからといって、その言葉が続くのであれば、今この瞳にこみ上げてくるものをまだ溢してはいけないと、ナルサスの瞳をしっかりと見据える。

「アルスラーン殿下に意見を求められれば、その度お前は立派に考えを言葉にした。お前の意見に納得せぬ者はいなかったし、何より師である俺がその答えを一番誇りに思っていた。キシュワード殿やダリューンからお前の話を聞くたび、俺はどんなに自分が賞賛されるよりも遥かに満たされた気持ちだった」

一言、一言、噛みしめるように放たれる言葉がカナタの鼓膜に降り注いでいく。

「シンドゥラで神前決闘を見たお前が、自分の気持ちに向き合うのを苦しみ、それを閉じ込めようとしていたときには、俺は師としてお前から大事なものを奪ってしまったのかと内心後悔していた。しかしお前はそんな心配が必要ないというのを、すぐにお前自身の言葉で未来を語り、証明してみせた。あの時は俺の方が救われてしまったな」

カナタは、瞳が溶けてしまいそうに熱くなる中、その言葉に必死に首を横に振った。あの時自分の気持ちに向き合うきっかけをくれたのは、他でもないナルサスだったからだ。

「ペシャワール城で俺の仕事を半分近く任されながら、今度は自らが兵を率いて道を作るという未来のために、連日寝る間も惜しんで学びに励んでいたな。馬がお前の気迫に負けたというのは、今でこそ頷ける。お前が誰よりも高く、思い描くままに飛びたいと本気でそう思っていたからこそだ」

一体目の前の師は、どれほど弟子である自分に教えを説き、見守り、時には叱咤し、その様子を気にかけてくれていたんだろう。カナタには注がれる言葉全てが、柔らかく優しい、冬の日に落ちる太陽の光のように思われた。

「そして先日。チュルク軍を撤退させ、敵将を討ち取ったという報せを聞いたときには、もう既に喜びよりも、寂しさが勝ってしまった。情けない師と、笑ってくれぬか」

笑え、と言われてもカナタには無理な話だった。ナルサスから降り注ぐ言葉の数々が、カナタの胸に積もって、彼女の目一杯開いた瞳からは重力に耐えきれなくなった銀色の雫がほろほろと流れ落ちていた。顔を真っ直ぐにナルサスに向けたまま、口を固く結んで、それでも目を逸らさずに滲んだ視界で師の顔をとらえた。

「既に飛ぶ力を持った鳥を、いつまでも巣にいさせては、かえって成長を妨げ自由を奪ってしまうものだ。エラム、そこに置いてある書状をここへ」

そう言われてエラムは、ナルサスの椅子の横にある小さな高いテーブルに置かれた書状を取って渡した。再びナルサスの脇に膝をつこうとしたとき、エラムもまた胸が熱くなり涙が溢れるのを袖で拭った。カナタに見えるようにそれを手に持ったナルサスは、椅子から立ち上がると彼女の前に来て、彼の少し濡れた睫毛を月明かりに照らされながらゆっくりと伏せた。そうして大きく息を吸って、ことさらにゆっくりと瞳を開けて彼女に言う。

「カナタ、これにてお前を免許皆伝とする」

これからはもっと自由に飛んで、もっと自由にお前の未来を描きなさい、と。ナルサスは膝をついてカナタの瞳から玉になってとめどなく落ちていく涙を指でそっと拭った。カナタはようやくその瞼を力強く閉じ、頬に光の糸を描きながらひとしきりそれを流し切ると、幸せそうに細く目を開けた。

「ありがとうございます、ナルサスさま」

先生とではなく、彼の名前を呼ぶのは、いつぶりだろう。カナタ自身も師の言葉をしっかりと受け止め、彼女がナルサスの名前を呼んだ後はどちらからともいえぬ熱い抱擁を交わしていた。そして側にいたエラムにも、カナタは大きく腕を広げる。エラムもすっかり赤くなった目からはらはらと涙を流し、カナタときつく抱き合って「おめでとうございます、カナタさま」と震える声で素直に祝いの言葉を伝えた。


翌日、カナタは今度はアルスラーン王太子殿下の御前で、多くの騎士たちに見守られる中、エクバターナへの出陣直前という慌ただしい時期ではあったが、正式に任命書を授かることとなる。

「カナタ、先日のチュルク軍との戦いでの功績、そして我が軍の軍機卿ナルサス、万騎長キシュワード、同じく万騎長ダリューンからの推薦状を以て、そなたを王太子直属の独立遊撃隊の隊長ならびに、百騎長に任命する」

城内には地が揺れるほどの歓声が轟いた。そうしてカナタは他の誰でもない、自らが選び仕える王太子アルスラーンの直属の部下となり、王都エクバターナを奪還するための旅に出発するのだった。

End.