034/事繁

翌日、ナルサスはこれから寄せてくる忙しさの前に、カナタのことを殿下に進言しなければならなかった。アルスラーンのところへダリューンを呼び寄せ、経緯も含めてカナタの処遇を改めてほしいと要望する。

「…なるほど。カナタがそんなことを考えていたとは、少し驚いた。だが、他でもないナルサスが止めぬのであれば、私が止める理由などない。万騎長補佐に任命することにも、異存はない」
「ありがとうございます、殿下」

アルスラーンはすぐさま差し出された任命書にサインをしようとするが、異を唱えたのは隣にいるダリューンの方であった。

「いいのかナルサス。キシュワード殿や俺について出兵するということは、城にいてお前のことを手助けする者が一人いなくなるということだぞ」
「ダリューン、おぬしは本当に一つのことに捕らわれる性格のようだな。勿論俺の弟子なのだから、政事や軍略は今まで通り手伝いながら、万騎長補佐もこなすのだ。任命書にもそのように書いてある」
「何だと?!…確かに書いてあるが、ナルサス!お前いつから弟子をいたぶるような悪趣味な男になったのだ」
「俺はいつでも弟子を可愛がっているさ、ナルサス流のやり方でな。それに俺の弟子だというのなら、この好機に政事に関して何の経験も積まぬという選択肢は元よりない」
「ナルサス、おぬしのことだから何も考えなしにカナタを登用するわけではないと分かっているが…ダリューンの言うことも一理ある。よかったら少し考えを聞かせてもらえないだろうか」

ナルサスは殿下とダリューンに、ようやく初めて弟子について自分の考えを話した。

こうしてその日の夜、カナタは正式に「万騎長補佐」という役職を得、改めてキシュワードとダリューンに挨拶をした。
夜が明けたことで幕が上がったかのように、ナルサスとカナタの多忙な日々は始まった。

「おいカナタ、カーヴェリー河西岸への入植の手順書はできたか。許可証は書いたか」
「手順書はできています。許可証は、ああ、エラムに校正をかけて持ってきてもらう予定なので、もう少しかかります」
「エラムー!エラム!許可証はまだか!」
「先生こそ、檄文書いたんですか?さっき書きかけで奴隷たちの居住区の図面の確認に移って、そのまま出兵の報告書手にしてますよ」
「お前の言う通りだ。俺は檄文に戻る、代わりにこの書類を見ておいてくれ、夕刻までだ」
「夕刻まででは終わりませんから、夜にやります、今からダリューンさまの出兵に同行してきます」
「ナルサスさま、許可証お持ちしました!置いておきますから、何かあれば声をかけてください!」

カナタは慌ただしく剣を持つと、早足でナルサスの執務室を出ていった。一瞬顔を出したエラムも、早口でそう言い立てると、他の仕事があるからとすぐさま別の部屋に行ってしまう。ナルサスは二人の姿を見て、忙しいなと息を吐き出しながらもその顔には笑みを浮かべていた。

ペシャワール城にいた六万の奴隷たちの屯田制による自由民への解放については、予めナルサスとカナタが考案していた計画書を用いたが、それにしてもどういう割り振りで土地を与えるか、居住区の広さと仮住まいとなる建物が十分かとか、建築作業についての手順だとか、最初の五年間は年貢を取らないことなどの取り決め、取れ高の報告の仕方など、細かいことを決めていけばキリがなかった。
それに加えてルシタニア討伐の兵をおこすのにアルスラーンの名で檄文を書くとか、その政治改革の立場を明らかにするために奴隷制度を廃止する宣言書を書くとか、とにかくナルサスのところに集まってくる依頼は膨大なものであった。

しかしその忙しさは、ナルサスにとって心地の良いものでもあった。何せ、よき国王たる素質を備えた人物のために、よき政事を構想し実行することができるのだから。

キシュワードが入室した時、ナルサスは一休みして緑茶をすすっていた。キシュワードも椅子と緑茶をすすめられ、お互いの近況を話した。城に戻ってからなかなかこうして会話を交わす時間も取れなかったからだろうか、キシュワードは数分も経たないうちにある重要な話題を持ち出した。

「ナルサス卿、この点ははっきり申し上げておきたい。アルスラーン殿下が、仮に、仮にだ。パルス王家の血をひいておられぬとしても、われらの忠誠はいささかも変わらぬ」

その点について、ナルサスはキシュワードを少しも疑っていなかった。ただ一つ気にかかるとすれば、アルスラーン王子がアンドラゴラス王を救った後のことだった。

「むろん、おぬしの忠誠はあてにさせていただく。なれど、アンドラゴラス王をお救い申し上げた後、アルスラーン殿下との間に、隙が生じる恐れがありますぞ、キシュワード殿」
「というと?」
「奴隷制度一つとっても、アンドラゴラス王が廃止を承知なさるとは思えぬ。国王と王太子が互いに違う理想を唱え、対立したとして、キシュワード殿はいかがなさる」
「…それは王都エクバターナを奪還し、アンドラゴラス陛下を救出もうしあげてからにしよう。ところでナルサス卿、カナタのことで相談があったのだが…」

キシュワードは強引に話を変えようとしたようにも見えたが、他ならぬ弟子についての相談と言われてはナルサスも応じないわけにはいかなかった。

「おや、不肖の弟子が何かご迷惑をお掛けしましたかな」
「いやいや、今更謙遜する必要もないだろう。鍛え上げた騎兵にも負けず劣らず馬を操ってみせるし、視野も広く俺に提案してくることも驚くほど的確だ。それに加えて剣を振るう技術も度胸もある。一体どんな風に物を教えたらあのようになるのか、いや、カナタの一を言えば十どころか百を知るような素質があってこそなのだが」
「キシュワード殿、それでおぬし、困ったことがあったのではないかな」

無我夢中に弟子を褒められてナルサスは当然悪い気はしなかったが、話が脱線してしまわないようキシュワードの言葉を遮った。キシュワードは我に返り、小さく咳払いをした後に本題に入った。

「二つあってな。まずは兵を率いているときや城へ戻るとき、とにかく何か気になることがあれば何でも聞いてくるのだが、俺も俺の兵も、これまでの経験や感覚で直感的に動いていることも多い。答えようのないこともあって、どうしてやるのがよいか意見を伺いたい」
「言い表しようがなく、答えられないことはそのように仰っていただいて結構。ただ、万事には理由や原因があるとあれには教えております。『分からない』と言うのを『なんとなく』『体が勝手に』『うまく言う言葉がない』と伝えてくださればあとは自分で勝手に考えるでしょう」
「なるほど…では兵たちにもそのように伝えよう。あともう一つは、馬のことだ」

キシュワードからもう一つの相談事を聞くと、ナルサスはしばらく片手で顎を押さえた後、回答は後日に保留にさせてほしいと伝えた。そうして翌日に執務室を訪れたカナタに、キシュワードから持ちかけられた相談の内容について真相を探るために質問を投げかけた。

「カナタ、お前出兵するたびに馬を変えていると聞いたがそれは本当か?」
「馬ですか?確かに、同じ馬に二日続けて乗ることはありませんね…。私が行きたいように無理やりな軌道を取ることもありますし、馬の方が予測できない動きの連続で疲れてしまっているのではないかと考え、申し訳ないと思いながらも騎馬が上達するまでは、と毎日違う馬をお借りしています」

なるほどなと小さく頷く。先日のキシュワードの相談は「カナタの乗っている馬が行軍途中で足を止めてしまったり、城に戻った途端に座り込んでその場から動かなくなったりする」ということで、それも毎日、どんな馬でもだという。これまで旅をしている間にそんなことは一度もなかったので、ナルサスもにわかに信じがたいことだったが、本人に聞いてもどうやら真実には違いないようだった。そうしてナルサスは、キシュワードに一つの提案をしてカナタとともに馬小屋へと赴いた。