033/未来

一行はその後、ガーデーヴィの最期を後味悪く見届け、ラジェンドラに十分と灸をすえ、その後にジャスワントを仲間に加え、ようやくペシャワール城へ帰還した。バフマンの訃報はアルスラーンの口からすぐさまキシュワードにもたらされたが、キシュワードは武人らしく振る舞い、反対に殿下を励まして見せた。

城に戻ったナルサスは、これから寄せてくる忙しさを一人先にとらえてか、いつもより早足であちらこちらを駆け巡っていた。人が増えることによって仕組みや制度を作る必要があるとしたら、今この時を弟子であるカナタにも十二分に活用してやるのが師の義務だと自負していた。彼女は政事に関してはまだ実践不足なところもあるが、ペシャワール城に人が集まってくる今であればそれを教えてやれる。

「ナルサスさま!ああもう、どこに行ってしまわれたのか…」
「エラム、ナルサスを見なかったか?」
「私も今探しているところなのですが、お昼過ぎからお姿が見えたと思えば次の瞬間には見えないという具合でして」
「エラム、ダリューン。おぬしたち、ナルサス卿を見なかったか」

最早神出鬼没、と言われても仕様のないほどにナルサスは城の中を縦横無尽に駆け回っていた。それも全て、このペシャワールに作る社会制度の第一歩を余すことなく弟子に経験させ、その頭に刻み込みたい一心からだった。

しかしナルサスが動き回っている目的の、張本人のカナタはというと、シンドゥラから戻って以来何故かペシャワール城の馬小屋に入り浸っていた。馬小屋にいると、ペシャワールの騎兵たちの姿をよく見られる。キシュワードの従える一万と、今はダリューンの従える一万。二万の騎兵を見て、カナタはあの夜ナルサスが与えてくれたきっかけに、自らの答えを求めようとしていた。

その夜、何かを決意した彼女は馬小屋から迷わずナルサスの部屋に向かった。月明かりしか頼るもののないようなこっくりと深い夜だった。他の仲間は当然もう床についている時間だからと、足音を立てないように廊下を歩く。

「先生、カナタです」

ナルサスの部屋に着いて、カナタはその時間に最大限許されるだろうという大きさで部屋の扉を叩き、声を出した。これまでの経験上、扉を叩いて返事がないときは師が何かに激しく集中しているか、もしくは思考を何巡にもめぐらせているところだと知っていた彼女は、許可のないままゆっくりと扉を開けた。

部屋の中には小さなランプにたっぷりと油が注がれて置かれていたが、意外にもその主は低い椅子に腰掛けて眠っているようだった。近付いてみるとこの辺りの地図が何枚も床の上に置かれたままになっている。何か考えている途中に寝てしまったのだろう、そう思ったカナタは、ベッドから上掛けを持ってくるとそっと彼の前から腕を回し、身体が冷えてしまわないようぐるりと一周巻きつけた。

「わっ…!先生?」
「やや、これは。何奴かが罠にかかったようだ」

身体が密着した瞬間にぐっと腰を抱き寄せられ、カナタはさすがに驚いた。寝たふりをしていたのか、カナタが近付いたから目を覚ましたのかは分からないが、明らかにからかおうとしているナルサスの声色は理解できたので、カナタは冷静に放してくださいと言った。ナルサスはその華奢な身体を圧迫するように一瞬やや腕に力を込めたが、その後は特に彼女を拘束するわけでもなく身体を離してやった。

「もう、驚かさないでください」
「すまんすまん。こんな夜更けに忍び込んできて、どうしたのだ」

ナルサスはカナタに椅子を勧めた。そうして着席をして真っ直ぐにナルサスの瞳を見据えると、カナタは慎重に口を開き始めた。

「夜分遅くに申し訳ございません。先日シンドゥラにてお約束した、私の未来についてお話したくて来たのです」

目の前の彼女の姿を見て、旅に出て半年足らずだというのにすっかり精悍な顔つきになったものだ、とナルサスは弟子の成長を複雑に喜んでいた。目の前の、少女と呼ぶには些か研ぎ澄まされた瞳を持つ彼女は師のそんな思惑はいざ知らず、迷いなく次の言葉を発した。

「単刀直入に申し上げます。私に、兵を率いらせてください」

その申し出にナルサスは目を見開いた。自身が感じていた彼女の成長は、もしかするとその予想の遥か上を行くのかもしれないという、期待と不安の混じった気持ちが彼の中に芽生える。

ナルサスとエラムとともに山奥に住んでいて、まだ世界を紙の上でしか知らなかったときとは、カナタは変わった。ナルサスは師匠として全く贔屓せずとも、もはや戦場で策を立てることに関して彼女には自分の代わりを任せられると思っていた。そうしないのは彼女にナルサスのようにこの世界に置ける偉業や肩書きがないという理由だけである。剣の腕や弓の腕はダリューンに指南を任せれば任せるほどに上達したし、旅の間にいくつも危機を乗り越えたことが十分な度胸と覚悟を身につけさせてきた。

ナルサスはカナタの申し出に、しかし慌てることはなく再び問いかける。

「理由を聞かせてもらおうか」
「私が神前決闘を怖いと感じたのは、武力と武力が衝突して何かを決するから、なんだと思います。そして皆が強い者が正義だと、無条件で信じ込むこと。弱者の命が散ったとて、それは凄惨な結果でしかないこと」

そういうものが自分の中で大きなわだかまりになっていた、と彼女は言葉を続ける。

「それを覆すために、武力を武力でないもので打破する道を示していく未来を選びたいのです。私が兵を率いて、武力の衝突ではない方法で武勲を立てる。そうして自ら得た結果で、パルスの思想を塗り替えたいのです」

その瞳を少しも揺らすことなく、ただ真っ直ぐにナルサスを見つめてカナタは言葉を続けた。表情を伺ったり、訴えかけるわけでもない。師の瞳の奥の深いところを覗き込むような、不躾な弟子の視線だった。

シンドゥラでの夜から、彼女が自分の気持ちへの答えとして何を用意するかは、ナルサスとしてもいくつか予測を立てていた。そして今、カナタはナルサスの予測のうちでも意外性のある選択肢を持ってきたのだった。本来ならばそれが厳しい道であることを説き、他の方法でも同じことを示すことができると、彼女のこれまでの経験をより活かせる道に導いてやることが、師の役割であるとナルサスは踏まえていた。

ナルサスは元々、カナタがやりたいと言ったことに対しては寛容な師匠だった。しかし今回の話はこれまでとかなり主旨が違うところがある。何よりも自らが兵を率いて戦場に立つとなれば、当然その身に危険を伴うことを、申し出た彼女自身がよく理解していた。
だからこそ一層の覚悟を持って、改まって自身の考えを訴えに来たのだろう。

躊躇いなく紡がれたその希望に、彼女自身が決めた覚悟に、水を差すような無粋な真似はやめよう。ナルサスはそうやって引導役を諦めて、一つ大きな呼吸をした。彼女はもはやただ導かれるだけの雛鳥ではないのだ。

「―――分かった。俺からアルスラーン殿下に話をつけよう」
「先生…!ありがとうございます!」
「その前に城の内部を整えるため一仕事せねばならんがな。カナタ、手伝ってくれるか?」
「はい!」

優しげに細められた、アメシストのような色をした瞳に見つめられ、カナタは大きく返事をしてみせた。ナルサスは可愛い弟子の成長をそれでも心の底から喜べない自分を隠すように、彼女との間に広げられた地図に視線を落とすのだった。