003/王子

「ちょうど筆が乗ってきたところだというのに、よくも邪魔をしてくれたな。ダリューン!」
「おお、それは良いことをした!ガラクタが世に出るのをそしてしてやったぞ。誉めてもらおう」
「なにを!」

ナルサスとダリューン、二人のやりとりをぽかんとしながら眺めるアルスラーン。エラムとカナタは全くいつもの調子と変わらない様子のナルサスを見て、それぞれ画材の片付けや、寝具の用意に既に取りかかっていた。

「ナルサス、こちらは…」

ダリューンが口を開くと、アルスラーンはハッと意識を取り戻したように話し出した。

「アンドラゴラス王の子、アルスラーンだ。おぬしの噂はダリューンから聞いている。”ダイラム”領主のナルサス」
「今は一介の隠者にすぎませぬよ。アルスラーン殿下」

こうして対面をしたアルスラーンとナルサスであったが、マルズバーンとはいえただ一人の騎士だけを護衛に王太子殿下がこんな辺境の地を訪れたことにはあくまで警戒を解かないまま、二人を一夜受け入れることをエラムとカナタに伝えた。

「すまぬ。世話になる」
「どうせ私が断っても押し入るつもりだったのだろう? エラム、ご苦労だがお客さまたちに食事の用意をしてくれ。興を削がれたので創作はまた明日だ。カナタは片付けを頼む」
「はい」
「わかりました」

ナルサスから言いつけられてカナタがキャンバスを動かそうとしていると、ふと動くものに目を釣られたアルスラーンの瞳にその「創作」が写ったようだ。アルスラーンはしばし固まり、言葉にならないようで口をパクパクとさせていた。
カナタはその様子を見、この状態になってしまえばしばらく動けないだろう、と、呆然とする殿下から外套や鎧を預かるとそのまま食事のスペースまで連れ、やんわりとそこへ座らせるのであった。

「さあ、どうぞ。温かいうちにお召し上がりください」

アルスラーンは目の前に配膳された食事を見て、自分がアトロパテネでの敗戦からずっと馬を走らせていたことを思い出す。意識すると空腹はより激しいもののように感じられ、目の前に広げられた食事を有り難くいただくことにしたのだった。

「ところでナルサス、そちらは?」
「名乗るのが遅れて申し訳ございません。アルスラーン殿下。私はナルサス先生に弟子入りをしております、カナタと申します」
「弟子だと…?ナルサスおぬし、まさかあの創作を…?!」
「どうだダリューン。私の芸術を理解できないのはおぬしにその器がないだけだということがようやく分かっただろう。遥々絹の国から!俺に弟子入りするために!どうだ!」

自信満々に言ってのけるナルサスを尻目に、ダリューンは横に座っているカナタへ話しかけた。

「そうか、カナタ。今日は貴重な時間をもらってしまい、すまなかった」
「いえ、芸術を極めるには見聞を広めることも大切です。噂には聞いておりましたが、アルスラーン殿下にこのようなところでお会いできるとは思ってもみませんでしたので、光栄です」

カナタが笑みを浮かべると、アルスラーンもその表情を見て少しホッとしたのか、食事をとりながら他愛のない話を交わした。

「おかげで人心地ついた。礼を言う」
「お礼にはおよびません、アルスラーン殿下。私は殿下のお父君から一万枚もの金貨をいただいたことがあります。今日の食事のは銀貨一枚にもおよびませんな」

手際よくエラムが食器を片付ける中で、ナルサスはあくまで和やかにアルスラーンに接しているように見える。しかしながら、傍に控えているダリューンの表情は今にも喰い掛かりそうな戦場帰りの顔をしている。ここに訪れた理由を聞くまではおとなしく尾を振ることも下げることもないだろうと、結局ナルサスから話を切り出すに至った。

「さて、大体の事情はわかっているが、詳しく話を聞こう。アトロパテネで我が軍は惨敗したのだな?」

ずしりと重たい空気がアルスラーン殿下とダリューンを覆う。それもそのはず。彼らはそのアトロパテネで、ほんの数時間前までその惨劇を体験していたのだ。 重たい空気の中で、なんとか次の言葉を紡いだのはダリューンだった。

「カーラーンが……… 裏切った……」

ダリューンの話では、カーラーンの裏切りはかなり策を巡らされたもののようで、パルス軍は武力を過信するがゆえにその策にまんまと引っかかってしまったということだ。

「濠と柵と火と霧と… 裏切り者も使う……。どうやらルシタニアの蛮族どもにも智恵者がいるようだな」
「そうだ。そこで殿下のためにおぬしの智恵を借りたいのだ」
「ダリューン。せっかくだがいまさら浮世と縁を持つ気はない」
「しかし、山奥で下手な絵を描き散らしているより、はるかにましだろう!」

どうやらダリューン卿はナルサスの芸術に関して歯に衣着せぬ物言いをしても激昂されぬ珍しい人物のようだ、とカナタはそのやりとりを見て驚く。ナルサスは自分の芸術について他人から馬鹿にされるとその場で斬りかかってしまうほど短気なところがあるのだ。今目の前で斬られていないということは、旧知の仲だとは聞いていたが、恐らくダリューンに寄せる信頼の証でもあるのだろう。

「この男を信用なさってはいけませんぞ殿下。こいつは戦士の中の戦士で、ものの道理もよくわきまえておりますが、芸術を理解する心を持ちません!」
「何が芸術だ!おぬしのは…」
「芸術は永遠!興亡は一瞬!」

いつも通りのナルサス節にもはや安心感を覚えつつ、カナタはアルスラーン殿下とダリューンの様子も伺ってみる。二人とも理解できないという表情を浮かべているかと思いきや、ナルサスの勢いにやや困ったような、それでいて面白いといったような複雑な笑みを浮かべていた。

「一瞬が今この時とすれば手をこまねいていられない。どうかナルサス、おぬしの考えを聞かせてほしい」
「さて、考えと言われましても…」

殿下からそのように言われる前に、ナルサスの頭の中には恐らく今回の敗戦についてある程度ストーリーが描かれているはずだ。カナタは自分の頭の中に描くそれと、ナルサスの描くそれに相違があるのか、正直なところ話を聞いてみたかった。

「お願いだ。今の私には、至らぬことばかりなのだ。どうか力を貸してはくれないか」

この短時間で、アルスラーンの印象は「どうやら自分の地位や名誉といったものにはやや無頓着なようだ」というものだった。今の自分に何が必要か、ということをもはやこの齢にして掴もうとしているようにも見えた。王宮での暮らしが長く、今回が初陣だったと聞くが、その経験が幸いしたのかもしれない。王族らしからぬ懇願の色を濃く見せる瞳に見つめられて、それでもナルサスは毅然として申し出を断った。

「殿下、まことに非礼とは存じますが、この山を下りてからのことは一切お約束できません。ここにおいでの間は、できるかぎりお世話させていただきますが」
「…わかった。無理を言ってすまなかった」

そうしてその日、殿下は疲れからか早々に眠りについた。エラムは馬の世話をしてくると言って部屋を離れ、カナタは自分の部屋に戻り、この国の王太子について記述のある文献を探すのだった。