022/誤解

カナタの負傷した脚で馬を操っても速度を保つことができず、彼女の跨っていた馬はその場に置き去り、ナルサスがカナタを前に抱き込むようにして、三人は山道をひたすらに進んだ。
時間を稼いでいた分、消耗したに違いない。しかしあそこでヒルメスに正常な判断を失わせていなければ、今頃どうなっていたか分からない。ナルサスは半ば自分に言い聞かせるようにしてその場で過ぎたことをあれこれ考えるのをやめた。

「アルフリード、いいか。銀仮面の男の本名がヒルメスということ、彼が何を語ったかということ、この二つは決して他人に話さないでくれ」

馬上から後ろを振り向いて追手を確認していた少女は、ナルサスの呼びかけに大きく頷いた。

「わかったよ。ナルサスがそう言うなら、誰にも言わない。約束する。ついでにお貴族さまがカナタと駆け落ちしてるってことも、黙っておいてやるよ」

深刻な表情をしていたナルサスの気を少しでも和らげようとしたのかもしれない、しかし彼はそれに頼りない笑みを浮かべただけで返事はしなかった。
一刻も早くペシャワールに―――そう思うのに、後方から聞こえるヒルメスの追手の馬蹄の音は、徐々にこちらに近づいているのが明白だった。ここで追いつかれたら、もはや奇策も舌戦も通用しない。ナルサスが自由に動けたならそれでも何とか切り抜けられるかもしれなかったが、カナタの状態が危うい中、交戦することはできなかった。

「ナルサスめがいたぞ!」

追手の先頭にいた騎士の声が聞こえ、その近さを嫌でも知ることになる。追手は喊声を上げ、剣を持ってナルサスたちに最早追いつこうとしていた。
その瞬間。
周囲の空気を根こそぎ持っていきそうな勢いで飛来した黒羽の矢が、立て続けに三本飛来した。すさまじい勢いのそれは、三人の追手の騎士を即死させ、地面に叩きつけた。追手はその矢をはなった黒衣の騎士の姿を見たのか、慌てふためきながら退却した。ダリューンがナルサスを探しにきていたのだ。

「ナルサス、ひとつ貸しておくぞ」
「ぎりぎりで間に合って、えらそうに言わないでほしい…と言いたいところだが」

ナルサスはそこでようやく息をするのを思い出したように感じた。正直なところ、あと数十秒でも追いかけられていたらどうなっていたかと考えると、背筋も凍る心地だった。

「ナルサスさま、ご無事でよろしゅうございました」
「エラム。俺は無事だがカナタが脚を斬られて失血している。急いで城に向かいたい」
「分かりました。すぐに城に行きましょう」

再会を喜んだのもつかの間、ダリューンとエラムを加えて五人となった一行はすぐさま馬をとばしてペシャワール城塞へ向かった。カナタは何か言葉を発しようとしたが、体力を温存するためそれをするのを止めた。

一夜明けた翌日、五人はようやくアルスラーンとの合流を果たした。

「ナルサス、カナタ!よく無事でいてくれた、本当によかった…」

アルスラーン王子は、馬上から手を伸ばして、ダイラムの旧領主の手をとった。ナルサスも素直に感情が高まるのを感じて、心からの挨拶をした。

「殿下にはご心配をおかけしまして、申し訳ございません。お約束通り宮廷画家にしていただくまでは、そうやすやすと死にはいたしませぬゆえ、ご安心を」

その言葉にやはりダリューンはこみ上がる笑いを隠しきれぬようだった。カナタは久々に聞く殿下の安堵した声にふとその意識を鮮明に取り戻したようだった。そうして声を振り絞って「殿下、ご無事で何よりです」と微笑んでみせた。顔にはほんの少しだが血色が戻っていた。

「ところでナルサス、そちらの女性は?」

ダリューンの疑問は当然のものであった。むしろ先に再会したところで聞かなかったのは、カナタの体を気遣ってのことだった。ナルサスがどこから説明すべきかと顎を押さえていると、アルフリードの方が先に口を開いた。

「わたしはアルフリード。ゾット族の族長の娘さ。銀仮面の男にあたしの父親…族長を斬られて、危うく自分も斬られるかってところを、一人乗り込んできたカナタに助けられたんだ」
「カナタが一人で?てっきりナルサスと共に行動していたのかと思っていたが」
「ナルサスはその後からきて助けてくれたんだ。その後は三人で行動してたんだけど、正直あたしは邪魔者だったかもしれないね」
「な、何を言い出すのだアルフリード」

どうにも自分たちの間に何かそういうことがあると信じ込んでいるアルフリードを制止しようと、ナルサスが慌て気味に口を開いた。しかしその様子をかえって面白がるように、少女は言葉を続ける。

「二人は師弟だなんて言ったけどさ、ナルサスは『今は何も考えず俺に体を預けろ』なんて言って、朝起きて部屋を見てみたらカナタと同衾してたし…」
「ちがう!変なところだけ切り取って伝えるのはよせ」
「ナルサスさま…まさかカナタさまを…」
「ちがう、ちがう。俺は何もしておらぬ。カナタが負傷したからそう言っただけだし、寒そうだったから共に毛布にくるまったに過ぎぬ!」
「いやにあわてるではないか」
「あ、あわててなどおらぬ。弟子に手を出すような考えは持ち合わせていない。ただ師としてその身が心配なだけだ」
「ナルサスってば、隠さなくたっていいのに」

呆気にとられている殿下以外はそれぞれその状況を楽しんでいるように見えた。ギーヴとファランギースは「軍師殿も所詮ただの男であったか」「うむ。精霊たちがおれば祝福するじゃろうて」などと無責任に言っているし、ダリューンはナルサスの隣ですっかりからかってやろうとニヤニヤ笑っている。エラムはナルサスがカナタとの間に何があったのかを邪推して軽蔑的な意味を持った視線を送った。くだけたやり取りにすっかり安心したのかナルサスの腕の中で自然に顔をほころばせたカナタであったが、そこに口を挟むだけの気力はなかった。

「本当に、何もしてはおらぬ。ただ一人の師匠として、カナタの身を案じた行動に過ぎぬ」
「まあ、済んだことはともかくとして…」
「殿下!私は誓って何も済ませたりはしておりませぬ!」

その場をなだめようとした殿下の言葉にまで冷静に対処できぬほどに、ナルサスが狼狽えているのは明らかだった。ダリューンがその威勢よく発された言葉を何とか抑え込み、ようやく殿下は口を開くことができた。

「ゾット族のアルフリードよ、おぬしはこれからどのように身を振るのだ。何か頼りはあるのだろうか」
「殿下、私はゾット族の族長の娘にござります。恐れ多いことながら、国のためにはたらきたい気持ちは山々でありますが、急ぎギラン近くにいるゾット族の仲間の下へ父の訃報を報せに参りたいと存じます」
「うむ、そうか。今のところろくなお礼もできないが、好きなようにするといい」
「ありがとうございます」

さすがに殿下の前ではアルフリードもしおらしかった。ナルサスは殿下のその優しい心ばえを、いつまでも持ち続けてほしいとことさらに感じていた。

結局アルフリードは、殿下と会話を交わした後にすぐさま発つといい出した。村から持ってきた馬と少しの食糧、それに一本の長剣だけを携えていく少女を皆で見送った。

「じゃあ、あたしはもう行くよ。カナタ、あんたはあたしの命の恩人さ。困ったことがあればいつでもゾット族は味方をするよ、覚えといてくれ!」

お幸せにね!と最後まで誤解を抱えたままに、ゾット族の快活な少女は一行の元を後にした。