020/推量

「カナター!ナルサスー!もう日が上ってるよ!」

アルフリードは二人のいる寝室のドアを乱暴に叩いた。数秒たっても何の返事もないので遠慮なくその扉を開け、中の様子を覗き込んだ。ベッドにはすっかり安らいだ表情で眠るカナタと、それを背後から抱きしめるような形で眠るナルサスの姿があった。先程まで威勢の良かったアルフリードだが、今やすっかり頬を赤く染めている。ナルサスもカナタもお互いのことを単なる師弟の関係だと説明していたが、昨日の二人の息の合い方、カナタを心配して青ざめるような表情、夜通しの看病、そういうものを見てしまえば、いくら少女とて、いや少女だからこそ、二人の関係を違う方向に想像せぬはずがなかった。

「ん……あれ、アルフリード…?」

ぼんやりとした思考の中でカナタは部屋を覗き込む少女の名を呼んだ。その頬が見事に紅潮しているのは何かと不思議に思うが、自分を背後から包み込んでいる熱の塊がもぞもぞと動き、その柔らかな蜂蜜色の髪が彼女のうなじに触れた瞬間、すぐさまに状況を理解しカナタもまた熟れた桃のように頬を染めた。

ほどなくして村を出発した後、三騎は山道を走り抜けていた。

「いいか、アルフリード。あれはカナタが寒気を感じて震えていたから、仕方なく暖めていただけだ」
「へぇ、そうかい。ところでナルサス、あんた、年はいくつなの?」
「二十六だが、それがどうした」
「二十五をこしてるのか。もう少し若いのかと思ってた」
「……ご期待にそむいて悪かった」
「まあいいや。それでカナタはもうすぐ十九か二十になるくらいだろ?ちょうどいいじゃないか」

何がちょうどいいのか、と口答えする気にもなれず、師弟はアルフリードの言動にバツを悪そうにしながら無心で馬を走らせていた。あの状況を勘違いするなといくら言ってたとしても、それが少女に伝わることはなく、寧ろ二人の姿を交互に見てはお似合いだと豪語されるばかりであった。

「あたしの母さんも祖母さんも曾祖母さんも、十八歳の九月に結婚式を挙げたんだよ、カナタ」
「あ、アルフリード。このパンケーキおいしいよ、ありがとう」
「そういえばカナタは料理は苦手なんだっけ。ま、そんなの結婚してからいくらでも腕を磨けばいいさ」

夕飯を食べ損ねてしまったカナタのために馬上食として作られたパンケーキを、味もよく分からぬまま飲み込みながら強引に話を逸らそうとしたカナタだったが、どうにもアルフリードには何を言ってもうまく返されてしまうようだった。
どんな困難な問題でも彼ら師弟にかかれば解けぬものはない。そう思われたのがすっかり過去のことになってしまった風に思われるくらい、ただ一人の天真爛漫な少女に翻弄されていた。

「さっきだって何か仲睦まじ気に内緒話をしていたじゃないか。あたしの前で隠す必要なんてないのに」
「隠すも何も、そもそもおぬしに見せるような仲はござらんよ」

ややため息混じりに吐き出したナルサスだったが、アルフリードに言われた内緒話とやらの内容は確かに誰にも隠しておかねばならないことのようにも思われた。その内容は、カナタが王都に行ったときに聞いたというあの銀仮面の男の名だった。
砂地での一戦の際に自分のことを王侯の出身だと声高らかに言い放ったことがやはり気にかかっていたのか、カナタは王都であの男自らが名乗った「ヒルメス」という名前を密かにナルサスに告げた。二つが合わさって至る結論はただ一つだった。ナルサスはここに来るまでにいくつかの仮定を立てることができてはいたが、その考えが一挙にまとめられて、次にあの銀仮面の男に出会った際にはそれを確かめねばならないと感じていた。最も、負傷したカナタを連れている今、一番出会いたくない相手なのも確かなのだが。

本来であればとっくにペシャワールにたどり着いているはずだったが、三人はまだその付近の山中を右往左往していた。予想もしないところで敵に出くわしてしまい逃げ出したことが何度重なっただろうか。敵の動きが無秩序で統制されていないゆえに、ナルサスもカナタもかえって予測が立てられない。誠に知略を尊しとする策士にとっては皮肉なことであった。

「ねえ、カナタ。さっきから同じところをぐるぐる回っている気がしないかい?あの岩、さっきも見たのを覚えているよ」

駱駝が欠伸をしているような形に見える、とアルフリードがその岩を指差した。同行しているアルフリードがそのことに気付くほどに、行先を選びあぐねているのだ。カナタはその顔にやや疲れをちらつかせながらも笑ってみせた。血が止まっているとはいえ傷口の塞がりきっていない左脚がやけに痛むようにも感じる。

「さて、どうしたものか」

頭上の断崖からはどうやら騎馬の気配がする。それも数が多い。ナルサスはいよいよ、ここを突破していかねばならないと感じていた。もちろん彼の頭には武力のみでそこを通ろうという考えは甚だ無かった。

「カナタ、アルフリード。行くぞ」

敵の中に飛び込むのだとそう意を固めたナルサスは低く叫んだ。前方の、山道が大きくひらけた場所に五十騎ほどのパルス兵が見える。そうしてその先頭に立っていたのは、先程会いたくないと思ったばかりの銀仮面の男だった。そこから逃げ出したいとも思ったが、後方からせまってくる敵の存在に既に三人は気付いていた。やはり正面から向かい合うほかない。

互いの距離が二十ガズ(約二十メートル)ほどになったところで、ナルサスはタイミングを狙ったかのように声を張り上げた。

「ヒルメス王子!」

ナルサスがその名前を呼んだことで、銀仮面の男は何かに撃たれたように驚きを隠せずにいるようだった。思惑通りと口角を上げるが、その事実が明らかになったことに何も思うところがないわけではなかった。平静を保っているように見えるその澄ました表情の下に、隠しきれないものを抱く。幸いにもそれは名を呼ばれて動揺しているヒルメスには気付かれておらぬようだった。

「……なぜわかった?」
「堂々と名乗ったそうではないか。おぬしも俺の可愛い弟子には甘いとみた」

異界から来た少女に自分の名を名乗ったところで、何の問題にもならないだろう。ヒルメスは一瞬でもそう考えて自分の名をカナタに伝えていた己の思慮の浅さと、カナタを取り逃がしたことと今更に憎らしく振り返った。彼の頭ではカナタのことは王都の薄汚い小屋で葬る存在としか思えていなかった。計画が狂って今に至っていることにヒルメスは憤りを覚えずにはいられない。

「ふん、いずれにせよ、こうなっては話が早い。ナルサス、ダイラム領主という高貴な諸侯の地位を捨てたというのは本当らしいな。おぬしの智謀は一国に冠絶すると聞いた。アルスラーンめをすてて、俺の部下になれ。そうなれば、そこの弟子とやらと共に、重く用いてくれるぞ」
「重くとは、どのように?」
「万騎長でも、宮廷書記でも、あるいは宰相でも……」

その申し出を聞いていたカナタは、このヒルメスという男の差し出してくる地位とやらも、結局ありきたりなものに変わりないと呆れていた。ナルサスはというと、男がいつの間に自分のことを特定したのかとやや眉をひそめたが、それよりも自分にとって何の価値にもならない地位を差し出そうとしてくる男の滑稽さが数段上回ったらしく、高らかに笑い声を上げていた。明らかに演技でなく笑うナルサスの様子を見て、ヒルメスはそれが一段と気に食わない様子で声を荒らげる。

「失礼いたした。師弟ともどもという申し出は、初めてお聞きしたもので」
「まあいい。それで、俺に仕える気はあるのか」
「せっかくのお申し出なれど、お断りする」
「ほう、なぜだ」
「ひとたび山を下りて隠者としての生活を捨てたからには、器量に優れた君主を持ち、弟子に正しい国の在り方を見せてやることが生涯の望みであり師としての役目。いま、私には優れた君主があるのに、みすみすそれを捨て弟子を露頭に迷わせる気には、残念ながらなり申さぬ」
「貴様、俺の器量がアンドラゴラスの小せがれに劣るというのか」
「あなたがヒルメス王子であれば、ダリューンと同年。私より一歳年上。そしてアルスラーン殿下とは十三歳ちがい…にもかかわらず、アルスラーン殿下のご器量は、既にあなたの上を行く。これより将来、差が開く一方でござろうよ!」

銀仮面の下に隠れたその表情は読み取れぬが、その場にいる三人には男の怒気が目に見えるようであった。すぐに剣を抜かぬ様子を見るに、ナルサスの思惑通りに事が進んでいるようであった。師が少しでも時間を稼ぎ、味方の訪れと敵の油断の両方を待っていることにカナタは気付いた。ほんの少しの差かもしれないが、ペシャワール城塞は確かに近い。当初の想定からかなり到着が遅れていることを思うと、既に城に到着した仲間が城から兵を率いてこちらに来る可能性も十分にあり得た。

「あなたは王位を回復するためと言って、ルシタニア人と手を組んだ。ルシタニア人がマルヤムで何をやったか、彼らがパルスでどんなことをするか。あなたはご存知だったはずだ。たとえあなたが正統の王だとして――それがパルスの民を許される行為だとは、到底思えませぬ!」

横にいたカナタからその言葉が出たことに、ナルサスはやや目を見開いた。目の前の銀仮面の男が支えとしているものがまともな思想などではなく、自分が正統の国王の血をひいているという、これまでの男の行い全てにおいて何の理由にもならぬものだと分かり、もはや怯んでやる相手ではないと確信したのだろう。