002/再会

エラムが夜遅くに外の様子を見てくる、と出かけていった後、ナルサスとカナタは昼間から夢中になっていた書物の解析に勤しんでいた。

あれからはや数年───カナタは元の世界に引き戻されることなく、ナルサスの下で暮らしていた。どうやらカナタにはこちらの世界に来るときに不思議な能力が備わったようで、この世界の言葉で書かれている書物であればどんなものも読むことができたし、どんな言葉も理解し話すことができた。書物に興味を持ち、歴史に興味を持つ中で、彼女は自然とこの国の政策や軍事に興味を持つようになった。
始めこそ自分は既に隠匿の身であるとしてその様子を止めはせずとも手は出さず、という姿勢を貫いていたナルサスであったが、カナタの貪欲な態度に根負けしてしまい、ここに身を置くようになって数ヶ月後には彼女を正式に弟子とするようにした。その方が、この世界で身の証明を立てられない彼女にとっても都合がいいとも考えた。
弟子となってからは軍事的戦略、身の振る舞い方、まるで最初からここに存在していたかのごとく出自を語れるだけの知識。そしてエラムとともに馬や弓、簡単な剣術までも身につけていた。護身術程度に留めておこうと考えていた剣の腕も、今やそれなりのものになりつつあった。

「先生、今日はこの本に書いてある、古い兵法について調べてみました」
「シースターン公国の最後の戦か。してカナタはどのように感じた?」
「はい。まずはこの公国の地図を私なりに復元してみまして、そこからまずこの公国の将は、こことここを拠点にして戦闘を始めようとしたのではないかと思います。これはシースターン公国のその時の将軍が、些か地の理に頼る傾向があったこと、そして…」

少女の考えを聞きながら、ナルサスはその思考回路に感心していた。己の生まれたわけでもない、見たこともない、ましてや既に滅びた国の戦を、ここまで当時の状況に近づけて考えるにはかなりの知識量が必要だ。己の持てる限りの才知を活用して古い兵法を紐解いていくカナタの姿は、ナルサスにとっては戦場を駆けるどんな優れた武勲を立てた将より興味深いものだった。

「なるほど。では、ここでもし公国軍が分裂して動いたとしたらどうだ?東西に走る大きな路には、数は多いが武力をそれほど残さず、北に抜けるこの小さな街道に精鋭を向かわせる」
「そうですね…その場合だと、考えられる敵国の反応は大きく分けて二つになるかと存じます。ただ、どちらの場合にも北に抜けた軍に気付く時点は翌日以降にならず、遅くとも夕方でしょう」
「ほう、何故そう思う」
「この時既に敵国軍は、公国側に悟られぬように北の街を実質的に支配したようです。街の者たちは武力で抗う術を持っておりませんでしたし、敵国の兵士は街の者たちに既に国は堕ちたと触れ回っていたと記述がありました」

確かにそれは間違いないはずです、と言いながら、カナタの指先が書物の一部分をなぞる。

「国が堕ち、敵国の兵士から施しを受けていたのであれば、公国軍の姿を見つけた街の者がどちらに味方をするかは明らかです。街には水源がありませんでしたから、恐らくこの山中の湧き水を求めて日々往復していたでしょう。北に抜けた公国軍の姿が見つかるのは時間の問題です」
「最後は自国の民によって滅びる…か。国の終わりとはそういうものかもしれんな」
「いかに強大な国であれ、結局のところ支えているのは民衆ですから。彼らには決定力というものはありませんが、反対に言えば自分の暮らしを守ってくれる者がいれば、それが誰であろうと構わないと考えている者も多いでしょう。特にシースターンの国王は民の声をそれほど重要視する性格ではなかったようです」

国王のことが書かれた部分を指差し、カナタはそこでようやくナルサスの表情を見やった。なんとも興奮と歓喜に満ちたような顔をする師匠の姿に安堵を覚えたようだ。当時の状況を書籍からの情報でここまで解析して見せるカナタの知識と頭脳に、ナルサスは驚きとともに満足感を覚えていた。

彼女のことを本当に弟子として教えがいのあるものだといつも感心していたし、自分のこれまで培って来た知識をみるみるうちに吸収していく姿を見て純粋に楽しくも感じていた。

「俺の頭に蓄えた兵はもう役を終えたとばかり思っていたが、存外悪いものではないな」
「先生の中の兵たちは、まだ十分戦場に出られると思いますが」
「望まぬ環境で剣を振るうのを好まぬからな」
「それは、まるで先生が小さく分裂したような思考ですね」

ちょうど地図上の戦局では局面も大詰めといったところに差し掛かったとき、遠くの方からよく通る声が聞こえた。この隠れ家に人が訪れること自体がいつぶりか分からないほど久しい。

「…ふむ」
「先生、どうやらお知り合いのようですね」

来客に心当たりがありそうなその表情は、決して穏やかとは言えなかった。

「そのようだな。お前にも何度も話しただろう?黒衣の騎士のことを」
「先ほどの声の主がその黒衣の騎士殿ですか」
「左様。しかし、どうやら1人ではないようだ…さて」

そう言いながらナルサスは塗りかけの絵画を取り出し、辺りに設置し出す。カナタには今調べていた書物を全て元の場所に戻すよう指示し、の書いていたメモなども書物に挟んで一時的に保管するように事細かに伝えた。恐らくこれから現れる黒衣の騎士には、俗世に関心があると思われたくないのだろう───そう考えながら手早く片付けをしていると、お前は本当に気の利く弟子だな、と口角を上げたナルサスにそう言われる。

「ナルサス!俺だ!ダリューンだ!」

しばらくしてエラムに案内されたのであろう、黒衣の騎士ことダリューンのよく通る凛々しい声が響いた。ナルサスはようやく来たか、と言わんばかりにゆっくりと腰を上げ、わざとらしく筆を持って客人を迎えに出る。

「名乗る必要はない。騒々しい奴め。おぬしの声は一ファルサングも遠くから聞こえておったぞ!」

旧友との再会にしては複雑な表情のナルサスを見て、カナタとエラムはそれとはなくともこの後に起こりうる事態を想定し、お互いに視線を交わすのだった。