017/別路

ナルサスやダリューンのような自分にとって気に入らないアルスラーンの部下たちをホディールが討ち取ろうとしたのは、想定の範囲内であった。結果からいうとホディールの首を討ち取り、一行はカシャーン城塞を後にした。アルスラーンが城にいた奴隷を解放し、その実情を目の当たりにしたという出来事もあったが、そこで感傷に浸っている余裕はなかった。

カシャーン城を出てから、アルスラーンの一行は、南のペシャワール城へ向かうべくしばらく馬を走らせた。念入りに遠回りし、殊更追手を撒くような道を選んだのはカナタの功績の大きいところだった。地図を見ながら走るのは彼女にとって経験は少ないが、地図さえあればその土地の様子を頭の中におこすことくらい容易であった。追手の位置や既にルシタニア兵が潜んでいそうな村の近辺などを細かに分析して指示を飛ばす様子に一寸も迷いはない。
仲間を守らねば、という気迫がカナタの背中から感じられたのか、カシャーン城を出てからずっと、自身のしたことを思い悩んでいたアルスラーンの表情にも徐々に平静が戻ってきたようだった。

「ハディード!ハディード!」

唐突にファランギースがそう叫ぶのに、すぐさまどうしたかとカナタは声を張り上げた。ファランギースは他の六騎に声が届くようその鋭い美声を大きくして、どうにも精霊どもの機嫌が悪いと、そうしてその原因は近くに血を欲する者がいるゆえだと簡潔に答えた。ペシャワールの城塞まで残り六十ファルサング(約三百キロ)の距離であったが、カシャーン城を出てからまだ二日と三夜しか過ぎていない。それほどに馬を急がせて彼らは走っていた。休む間もなく動いているものの、殿下は疲れた表情を見せるどころか同行者の様子を気遣ってみせたし、エラムはナルサスに申し出て、馬を飛ばして偵察に行けるほどだった。そして一行に細かな動きの指示を出していたカナタは、何か思い当たるところがあり、馬の腹を勢いよく蹴ると偵察に行ったエラムの後を追った。

「あれか」

追手の大軍を見つけるや否や、すぐに報告に戻ろうと声を掛けたエラムを、カナタが呼び止めた。大軍を率いるやつは誰か、エラムならそれが分かるかと問いかけると、闇夜の中エラムは目をこらしてその集団を眺めた。そうして隣で「銀仮面をした不気味な男がいる」とつぶやく。エラムがそうつぶやいたまさにその瞬間、カナタはその大軍の中で銀仮面の男の姿も見つけられぬのに、その鋭い眼光に射抜かれたようなこの世のものとは思えぬほどの悪い心地を覚えた。二人はすぐさま仲間の元に戻る。

「追手がきています。かなりの数です、それに…」
「軍を率いているのは銀仮面の男のようです」

それを聞いてダリューン、ナルサス、そしてギーヴの三人が顔を見合わせた。嫌な予感がする。そう直結せざるを得ないほど、彼らにはそういう経験があった。報告をしたカナタとて無論であった。
銀仮面の男が一行を率いていると聞いて一層先を急ぐ七人であったが、一ファルサング(約五キロ)も進まぬうちにファランギースが声も上げられないほど苦悩の表情を浮かべていた。それにいち早く気付いたのは並走していたナルサスとカナタであった。
何かを見落としているのではないか───

「止まれ!!」

一体どこから出したか分からぬほどの覇気を含んだカナタの声が闇夜にこだまし、一瞬にして静寂を招いた。背後から迫る大軍は、何故か数百の松明を焚いて、こちらにその位置を分からせるような挙動を見せていた。ナルサスもカナタもお互いに顔を見合わせている。

「追い込まれています。奴らの思う方向へ」

結論がカナタの口から出ると、ナルサスは直ぐ様手綱を強く握った。それに遅れを取らぬように走るカナタは、この先に三方に別れる道がある、と仲間に伝えた。追手は彼らを、山中にいる伏兵の元へ導こうとしていたのだ。素早く、そして密かな会話が交わされ、七人は三組に別れてペシャワールでの再会の約束を交わし、別々の道を走り出した。

途中まで確かにナルサスと並走していたカナタだったが、途中で馬の進路を変え、今は一人で山の中を駆けていた。銀仮面の男から感じたあの嫌な気配を警戒するのであれば、恐らく自分を追ってくるか、もしくはアルスラーンを追ってくるか、その二択だろうと踏んでいた。アルスラーンがダリューンと共に動いているのならそこに合流できるのが最善だが、そうでなかったとしたらその二人を引き合わせるか、何とか策を持って、銀仮面の男に関して何の知識もない殿下をお守りせねばと感じていた。
エクバターナの下町で対峙したあの男に、何の恐怖もないと言えば嘘になる。しかしこうして仲間と離れたところで何かあってはやりきれない、そんな気持ちだけがカナタの体を突き動かしていた。

夜が明けるまでには、いくつかの包囲を突破し、なんとか危険なところを抜けたように感じられた。今自分がいるのは南の山稜を越えていく山道だった。ペシャワールに向かうには一番の近道になるその道を選べば、もしかすると銀仮面の男の率いる集団に出会ったところで、都合よく仲間のうちの誰かが通りかかるかもしれない───そんな博打のような考えでも持っておかねばまたあの恐怖に支配されそうだ、とカナタはそれ以上考えぬことにし、先を急いだ。

「ゾット族だ!」

そう叫ぶ声がカナタの耳に届いた。辺りを見回せば、近くの砂場でゾット族と名乗った遊牧民が、あろうことか銀仮面の男を敵と見なし、勝負を仕掛けているのが見えた。族長と思しき恵体の男が、銀仮面の男に向かっていくのを見て、カナタはその時点で男の無事がないことを知っていた。

「王侯の手にかかって死ねるのだ。名誉と思え!」

見事なまでに迷いのない太刀筋が、ゾット族の族長の首を胴体から切り離した。その首が宙を舞い、地面に落ちるまでの時間がいやに長く感じられた。周囲のゾット族らはその光景に怯み、馬上で視線をどこにやっていいのか分からず狼狽えているようだった。しかしその中から一声、よくも親父を殺したな、という甲高い声が聞こえる。声を発するまでは少年のように見えたが、目を凝らして見ればそれはまだアルスラーンと同じくらいの年の少女であった。

「酒好きで無学で女好きで、どうしようもない親父だったけれど、あたしにとっては生命の親だ!仇をとる!」

少女の掛け声とともに、父親の部下であるゾット族の男たちもヒルメスの一党に襲いかかった。カナタは少女がヒルメスと撃ち合うのを瞬きも忘れて見ていた。しかし駄目だ、いくら少女の剣技が人並み以上だとはいえ、勝機はない───このままでは。

「小娘。貴様の名は?」
「アルフリード。ゾット族長ヘイルターシュの娘だ」
「アルフリードとは本来、王族や貴族の姫君に使われる名だ。下賤な盗賊の娘には過ぎた名。増上慢にふさわしい罰をくらわせてやるべきだろうな」
「やってみるがいいさ、仮面のバケモノ!」

アルフリードはヒルメスの攻撃をその軽々とした動きでかわし、その隙にいくつか太刀を浴びせていた。しかしなかなかに隙が掴めぬまま防守一点となり、馬を切られ、頬を掠める男の殺意という殺意のこもった剣先に意識を取られているうちに、周囲いたゾット族の男たちが皆して地に伏しているのと、立っているのはすべて敵であることにようやく気付いたようだった。

「たかが盗賊が、我が部下を幾人も殺してくれたものだな」

自分の部下の半減させた怒りを他にしても、銀仮面の男が生かしておく理由などなかった。たとえそれが今一人の仲間もない少女だとしてもだ。銀仮面の男の剣先が、一寸の容赦もなく少女に向けて振り下ろされる。

しかし次の瞬間に、キィンと高い金属音が辺りに響き渡った。少女はこの時ばかりは目を瞑って歯を食いしばっていたが、恐る恐るその大きな瞳を開いた。刃は軌道を逸らされ、少女の肩から数センチ外側に弾かれていた。

カナタはもう後には戻れまい、と覚悟を決めて、ヒルメスの手首目掛けて矢を放ったのだ。それは狙い通りに到達することはできなかったものの、目の前の少女の命を見事救ったようであった。銀仮面の下からでも十二分に分かる、鋭い眼光がカナタに刺さるような視線を向けた。

「エクバターナで腰を抜かしていた異界の小娘ではないか。見逃してやったというのにわざわざ俺の邪魔をしに来るとは、礼を知らぬ奴だ」
「異界の女という名前ではないのだけれど───身分を語る割に、人の名前も聞かぬとは、そちらの方がよっぽど無礼者なのでは?」

予想していなかったその肝の座った一言に、ヒルメスは一瞬驚いた後に小さく舌打ちをした。カナタは声を吐き出す度に震えそうになる唇を必死に制していた。カナタはその師の毒舌を思い描くと、何か吹っ切れるような気持ちを胸に抱き、銀仮面の男相手に名乗りを上げた。大丈夫だ、今度は自分はあの男と同じ土俵に立てる。どんな理由であれ抗う術も持たぬ少女に手を掛けようとするような輩の覇気など、自分に稽古をつけてくれたダリューンの足元にも及ばない。そう言い聞かせて啖呵を切った。

「我が名はカナタ。未来の宮廷画家ナルサスの弟子であり、アルスラーン王太子殿下に仕える軍師である!」
「軍師だと…?やはりあのとき、へぼ画家とともに処分しておくべきだったな。アンドラゴラスめの忌避を買って、宮廷を追放されたあやつとともに」

あの後に銀仮面の男はどうやらナルサスの素性を知ったようであった。しかしカナタはそこでわざわざそれを口に出すヒルメスの真意までは分かりかねた。

「アンドラゴラスの小せがれはどこにいる?」
「そんなことを聞かねば分からぬ、知恵も仲間も持たぬ男に教える義理はない」

どこまでが男の激昂に触れない言葉なのか、カナタにはそれを知る手段はないが、周囲を男の部下に囲まれ、目の前で馬を失った少女を助けにきたということが、彼女の気迫と何とか保たせていた。知恵も仲間も持たぬ、という罵倒に、ヒルメスが口元を歪ませたのをカナタは見逃さなかった。しかしその次の瞬間、カナタの馬とヒルメスの馬の間に、水色のバンダナを着けた少女が剣も持たぬまま割り込んできた。

「手を出すな!こいつは親父の仇だ、あたしが倒す!」
「邪魔をするな、盗賊の娘風情が!!」
「ッ───!!」

予備動作もないかと思われるくらいのスピードで振り下ろされたヒルメスの刃を受け止めたのは、カナタの引き抜いた長剣だった。二本の刃はお互いに同じ圧力を持って、お互いが跳ね返された後再びかち合った。火花が出そうだ、とカナタは思う。男が手加減をしているのではないというのは理解できたが、カナタはこれ以上ないくらい渾身の力をその刃に託していた。一度刃が離れて次の手が自分に向かえば、無事では済まないかもしれない。刃越しに見るゾット族の少女がすっかり呼吸を忘れて立ち尽くしているのを見て、カナタはその意識を何とか呼び戻そうと激をとばした。

「ゾット族の姫よ、仇は生きていればとれるだろう!しかし貴方がここで倒れれば、そこまでだ!」

あるいはそれは自分を奮い立たせようとして出た言葉だったのかもしれない。今まさにカナタとヒルメスの馬に挟まれるような形で立ち尽くしている少女は、唐突に自分に掛けられたその言葉の気迫にビリビリと体を震撼させているようだった。
何かを守るために力が必要だと、この旅の中で自覚したことは正しかったようにカナタには思われた。それが先程親を斬られたという見ず知らずの少女を守るためだったとしても───だ。

「生きるのだ、アルフリードよ!」

先程顔を合わせたときとは比べ物にならないほど、体の内側からはち切れそうな気迫を醸し出すカナタの言葉に、アルフリードは強く心を揺さぶられたようだった。そこまで堪えていたのかもしれない熱いものが少女の瞳にこみ上げる。彼女の体が銀仮面の男から飛び退くように動いた。

「無駄なことを…ここで朽ち果てるがいい!」

ヒルメスの刃が、カナタの長剣から離れた。離れたと思うと次の一閃が飛んでくる。そう予測することはできても、カナタの反応速度では対応しきれなかった。両目にその刃の煌めきが映りこんだ次の瞬間、突然周囲にいた男の鈍い叫びが耳に入った。何事かとヒルメスが刃を止めて振り返れば、背後にいた部下の左胸に、見事命中する形で短剣が刺さっていた。男は胸を押さえると、その目を閉じぬまま馬から落ちた。

「何奴だ!」
「自分から名を聞くとは、いい心がけではないか、銀仮面の君よ。我が名はナルサス!未来の宮廷画家にして、そこにいるカナタの師である!」
「へぼ画家……王都で食うに困って、辺境の地まで流れてきたか」
「おぬしに付き合っていると、段々と人外境へ近づいていくようで、困ったものだ」
「師弟揃って減らず口を叩くのが得意らしいな」
「カナタが語るに得意なのはこの世の真理のみよ。何せ、俺の弟子なのだからな」
「ほざけ!二人仲良くあの世で懺悔するのだな!」

ヒルメスが、毒舌の応酬に痺れを切らしたのか再び剣を振るおうとしたとき、彼の部下の一人が絶叫した。振り向いたヒルメスの目に映ったのはは、すぐ近くの岩場から、いくつかの巨大な岩がこの砂地へむけて転がってくる様子だった。
彼の部下たちの慌てる声と、逃げ惑う馬の鳴き声、それらと岩が落ちてきたことによって起きた砂埃で、視覚も聴覚もすっかり役に立たなくなった。

次々と降ってくる岩石がようやく収まり、視界が晴れたときには、既にカナタとアルフリード、そしてナルサスの姿はもう見えなくなっていた。