010/痛快

その頃、アルスラーンたちの知らぬところで、王都は奴隷たちの放つ憎悪と、ルシタニア兵の狂気に焼かれていた。パルスの兵は串刺しにあい、はたまた民は奴隷に打たれ、城ではタハミーネ王妃の身柄が拘束された。アルスラーンがその報せを受け取るのは、もう少し先のこととなる。

洞窟で過ごすようになって数日、エラムは周囲を索敵するついでに食糧の調達に出て、ちょうど戻ったところだった。

「エラムです。ただいま戻りました」

仲間に聞こえるようそう伝えて内部に入れば、聞きなれぬ剣の音が響いていた。何事かと問えば、ダリューンとアルスラーンが剣の稽古をしているのだという。エラムはその姿を見、想像以上の剣の腕を持つアルスラーンを見て素直に感心していた。

「ヴァフリーズ老が鍛えてくれていたそうだ」
「…と言っても、嫌々稽古を受けていたのでしょう?」
「アトロパテネの前まではな。今朝方自らダリューンに頭を下げて頼んでいたよ。『私を鍛えてくれ』とな」
「先生、私も少し聞きたいことがあるのです。ペシャワールまでの道についてなのですが」
「おっと。うちにも熱心なのがいたな…まぁ待てカナタ。まずはそろそろ山を下りる相談としよう」

剣の稽古を止めた二人を入れて、総勢五人はそこから時間を見計らって洞窟の入り口付近に移動した。そうしてことさら大きな声で、カナタの言ったとおりに今後の予定について相談をしているふりを始める。
この洞窟に来てからの数日間、エラムによれば必ずこの時刻に木こりがこの側を通るというのだ。木こりは割に用心深い性格のようで、薪を集めているときに小さな動物の鳴き声がするだけでいちいちそちらを見に行くような習性のある男だという。外に聞こえるようにここで話していれば、不思議に思って様子を見に来ることには確信があった。案の定、数分もしないうちに木こりは現れた。

「もし、そこの殿方」

カナタは銀貨を持ってその男に近づくと、邪気のない笑顔を浮かべて話を始めたのだった。

木こりはカナタの依頼通り、山の麓近くに野営をしているカーラーンの部下の下へ向かい、『洞窟から五人の声が聞こえた。十四日の夜に山の外にいる仲間と呼応して突破すると話し、鳩を飛ばしていた』と語った。カーラーンの部下らは大いに喜び、男に褒美を与えて帰すと一斉に沸き立った。十四日の夜に向けて増援を頼み、これでようやくカーラーン様に良い報告を持って帰ることができる、と叫んだ。

とっぷりと日が暮れた、十三日の夜。アルスラーンとその一行は策を実行した。カナタにとっては初めて自分の策を実践で試すときが来たことになるが、実のところ何も不安はなかった。木こりを買収し、カーラーンの部下がその情報を信じた時点で、もはや決しているようなものだったからだ。

「しかしこの馬たち…数日の間にえらく懐いたような気がするのだが」

アルスラーンが不思議そうにそう言うと、すかさずナルサスが呼応する。

「そうでしょう、殿下。何せカナタは馬語を扱いますゆえ。どんな馬でも彼女に接すると、数日でこうなります」
「馬語…?!カナタは、馬の言葉が分かるのか?!」
「殿下、恐れながら私には彼らが何を話しているのか、詳しいことは分かりませぬ。ただ、何故か昔からこうして心を通わせることができるのです」

カナタがそう言うと、彼女の跨った馬は一層嬉しそうに鳴き声を上げた。一通り馬術を身につけたとはいえ、カナタは馬に乗る機会はこれまで多くなかったので、正直なところ馬が彼女のペースや体幹に合わせて走ってくれることは好都合だった。異世界に来た際にこの世界の言葉を全て理解できるようになったとは思っていたが、まさか馬語まで操れるようになっているとは、全く世の中の理というのは分からないものだ、とカナタは一人で微笑む。

案の定、明日に備えてしっかりと休息を取っていたカーラーンの陣営は、ダリューンの一騎掛けで難なく突破できた。

「なっ…!ナルサス?!」

カーラーンの弟子の中で恐らくこの隊の指揮を取っていたであろうその男は、何故今ここにナルサスの姿があるのか、と口に出していないもののその愕然とした表情が全てを物語ってしまっていた。わざわざ策にはまったと見せてもらえるのは、カナタにとってはありがたいことだった。

「やぁ、すまんすまん。山中にこもっていて暦を見ることができなかったのでな。日にちを間違えた」

ヴァフリーズ老の言葉を借りれば『ナルサスは余分なことが多い』ということだが、そういうところも含めての策士である。既に行動を共にしている四人はそのことを理解していた。
すっかり呆気に取られた男を足蹴にし、さらばと告げてアルスラーン一行は無事に山を下りたのであった。背後には男の憤りを込めた叫びがこだましたが、彼らにとっては清々しい門出を祝う言葉のようにも聞こえてしまうのであった。