マイレディ・ユアレディ 03

マイレディ・ユアレディ3

朝から調子が優れない。だからといって目の前の書類の山が減る訳でもないのだが、自分が今日は不調だということに気を取られずにはいられなかった。集中力の欠如。廊下を歩く人の靴音にいちいち耳に障る。思考がまとまらない。体も気分もどこか気怠い。しかし熱や咳のように明らかな身体異常はない。

「はぁ」

今日何度目かも分からない溜息を吐き出してカナタは小さくうなだれた。外を見ればまだ日は高く、仕事に取り掛かり始めてからさほど時間も経っていない。それなのに全身を襲うこの倦怠感、徒労感。

「カナタさま、お茶をお持ちしましたよ」
「入って」
「失礼します。こちらをどうぞ」
「果物も持ってきてくれたの、ありがとう」
「随分とお疲れのようですから」
「もしかして聞こえてた?」
「今朝からのあれは、そういうつもりで吐き出しているのではなかったのですか」

綺麗に切り分けられたハルボゼの皿を置いて、エラムはあっけらかんと答えた。そういうつもりではなかったと言っても決して取り合わなさそうなその顔を横目に見ながら、やや恥ずかしい気持ちと、心の内を話してしまいたい欲求とがカナタの中でせめぎ合う。

「朝から調子が優れなくて」
「ではナルサスさまをお呼びしましょうか」

察してほしいような声色の弱音に、察した上での釘を刺された。回りくどい言い方をしても仕方がないことを悟り、カナタは観念してことの経緯を話し出すのであった。

昨日の夜は、ギランの商人を招いての宴だった。これから王都奪還を目指して旅立つアルスラーン殿下を経済的に援助すると集った商人たちへの礼も含めたものだ。

「皆の者、今宵は集まってくれたことを感謝する。どうか気を遣わず、互いに楽しく過ごしてくれ」

アルスラーン殿下の口上が終わると、宴の場は瞬く間に陽気と熱気で盛り上がった。流行に敏い商人のいる広間は、綺羅びやかで優雅だ。楽団の奏でる快活な音色が耳をくすぐり、上等な葡萄酒が次々に瑠璃の酒坏を満たしては乾く。周囲で交わされる異国の地での商談の報告ですら、場を彩る物語のようであった。

「それでは、カナタ様は絹の国からパルスに?」
「ええ。元々からパルス軍の評判は耳に入っておりましたが、優秀な軍師がいるとの噂を聞いて、いても経ってもいられずに」

旅の中で幾度か披露した偽りの出自を述べながら、カナタはとある商船主の男と話をしていた。絹の国でナルサスの策の評判を聞きつけ、一人で国を出て門戸を叩き弟子入りを懇願したという物語は、思いの外容易く受け入れられた。特に商売柄、いくつもの国を行き来することの多い人々にとってみれば、さほど疑問を感じるところもないのだろう。

「私の船は絹の国からの品も多く運びます。特に現在は書物を多く扱っておりましてな、やはり国の中ではその重要さを見出すものが少ない。そういうものを取り扱えるのは、商人冥利に尽きるというものです」
「そうなのですか?」
「はい。ですからこうしてアルスラーン殿下に仕える軍師たる貴女とお話でき、誠に光栄にございます」
「私としても非常に興味深いお話です。価値の捉えられないものに値をつけるのが商売と言いますし、例えばどのような書物を扱っているのですか」
「…アルスラーン殿下にお仕えする軍師と言えば、そこなる少女だけではないのですがな」

楽しげに話し込むカナタと男の背後から、やや高圧的な声色で話しかけたのはナルサスであった。男はナルサスの表情を見るやいなや、喉が渇いたので追加の葡萄酒を、と言い残しそそくさと二人の側から離れてしまう。場の空気を瞬時に察知し引き際を見極める手腕は、さすが一流の商人と言っても過言ではなかった。

残されたカナタはというと、もう少し彼に話を聞きたかったという不満はありながらも、ナルサスの登場に胸を躍らさないわけでもなかった。その手に収まった酒坏が芳醇な液体で満たされているのを見れば、彼がわざわざ自分と話すためにここへ来たということも分かったからだ。

「何を話していたのだ、カナタ」
「先程の商人の方が絹の国の書物を扱っていると仰っていて、それで少しお話をしていました。国内で価値の上がらぬものを見出すのはさすが、先見の明と言いますか」
「先日の件で懲りるようなお前ではないとは思っていたが、まさかここまでとは」

やれやれと眉間に皺を寄せるナルサスの表情は、宴の雰囲気とは対称的であった。興奮気味に話しだしたカナタの話に耳を傾けることもなく、彼から放たれた自分を管理するような物言い。普段であれば素直に反省できたかもしれないそれも、先程まで興味深い話を聞いて高揚したカナタには刺激になるに充分である。

「シャガードさまの一件は、私も反省しております。しかし今この場でそのことを持ち出されるような振る舞いはしていません」
「ほう。酒も入り気分が浮ついて、開放的な雰囲気に流されるままのように見受けられたが」
「今宵の宴席で和を乱すような無粋を控えただけです」

語気が強くなるのを感じ、己でも制御しきれないことを自覚したカナタは人影の少ないバルコニーへと出た。

「大体お前は、あのように話を持ちかけられると直ぐに興味を示す」
「それの何が問題なのですか。はっきり仰ってください」
「自覚が不足していると言っておるのだ」
「不足しておりません」
「いいやしている」
「もうよろしいですか。先刻の御方に失礼を詫びてまいります」
「おい、話が途中だ」

再び屋内に入ろうとしたカナタは、強い力で掴み止められた。決してどこにも行かせる気のない力の込められ方に、ますます気持ちが乱される。真剣に話をしているのだというナルサスの瞳から逃れるように視線を落とし、そこから次の言葉を吐き出すまでは一瞬の間であった。

「放してください。私はナルサスさまの女でも、そして所有物でもありません。このような扱い…迷惑です」

言い捨てるようにしてカナタはその場を走り去った。

事の経緯を聞いて、エラムは絶句していた。元々、ナルサスとカナタがそういう仲にならないと信じ込んでいた訳ではない。寧ろエラムからすれば、尊敬する師と姉弟子が近い未来で恋仲になれば喜ばしいことのはずであった。しかしどうだろう。実際に男女特有の痴情を生々しく聞いてしまうと、未だそういった経験のない自分には到底扱いきれるものではないと思わずにはいられないという、年相応の悩みもあるのが事実だ。

「それで、カナタさまは何にそんなに気を揉んでいらっしゃるのですか」
「私も多少お酒が入っていたとはいえ、ナルサスさまにあの様な態度を取ってしまって」

最早、合わせる、顔が、とカナタはそのまま机に突っ伏してしまう。緑茶の入っている器を避けながら、エラムはどういうことかと再び尋ねた。

「そもそも私がナルサスさまに想いを伝えたからといって、ナルサスさまが私を想ってくれる保証など何処にもないのに。あろうことか私は可愛げのない態度で、否定を繰り返すだなんて」
「ナルサスさまに言われたことが嫌だったのではないのですか」
「嫌だった、でも、嫌というにも言い方というものがあるでしょう。もしこれでナルサスさまが私のことを、き、嫌いにでもなったら…よりによって口喧嘩などで」
「落ち着いてくださいカナタさま。私にはまだ男女の事情は分かりませぬが、ナルサスさまとて狭量ではありません」

きっと今頃、同じように昨晩のことをお考えのはずです。そう強く諭されてカナタはようやく面を上げた。安堵したような、それでいて情けないような複雑な表情は、長年共に在るエラムも初めて目にするものだった。

恋など、自分には到底良いものとは思えない。嫌われたくないと思いつつ、相手のものになるのは嫌だなんて。こんな身勝手な感情と、相手への恋慕を同居させることに耐えるだなんて。
エラムの立ち去った部屋でカナタはそんな思考に耽り、書類の山から羊皮紙を取っては溜息ばかり増やしていた。夕餉の知らせまでは誰も部屋に立ち寄らないようにすると言ってくれたエラムの世話心をありがたく感じる。しかしその時間までの自由を得たとて、与えられた仕事はもちろん、それ以外に何かが進展するとも思えなかった。

ナルサスへの恋心に気づかぬままで居られたら、こんな風に気を患うこともなかったのだろう。そう考えると、不安定な心がますます傾き始める。考えても仕方のないことを一人で考えるな、と。言ってくれた師には今の悩みを打ち明けられそうにもない。
やりきれない感情を持て余し尽くして、カナタはついに席を立った。エラムが部屋を立ち去ってから数時間後、すっかり日の暮れかけた頃合である。目的はもちろん昨夜のことを謝罪するためだった。ナルサスに言われたことが管理的だとは思いつつも、それ以上に想い人から向けられる感情の変化を嫌った。ごめんなさいと。そう言って関係を修復しよう。思った矢先、部屋の扉に手をかけたその瞬間であった。板一枚の距離から聞き慣れた声が届き、慌てて足を止める。

「カナタ、入っても良いか」

驚いた。タイミングの良さに、何より彼の来訪に。とにかくこんな距離から返事をしては怪しまれるだろうと、カナタは少し退いた。どうぞと喉を震わせれば、ゆっくりと開いた扉の向こうからナルサスが顔を出す。

「すまんな、出かけるところであったか」
「いえ。どうなさいましたか」

なるべく平静を装い、問いかける。相手に心の内を探られぬように表情にも気を使うようになったのは、目の前にいる師の教えからだった。同じく他人から見れば昨夜の出来事がなかったような表情でカナタを見つめるナルサスは、言葉を伴わずして持っていた本を差し出した。

「昨夜の、その」
「昨夜は」
「すまなかった」

そこでようやく気まずそうに視線を逸らしたナルサスであったが、紡がれた謝罪の言葉はまるで上等な布に針を通すように慎重だった。自分がこれから言おうとしていた言葉は果たして彼のそれと同様の印象を与えられただろうか。そんな風に感じられるほどに凝縮された一言だった。
カナタは思考を巡らせ、たった数文字、秒にすれば一瞬とも言えるものに込められたナルサスの時間を知る。

「私の、その」
「何だ」
「私の方こそ…感情任せで」

制御できない振動をなんとか音にしたという風だった。愛の言葉のように優しくはないのに、舌先を離れるまでの重さだけが似通った言葉を受け取って、ナルサスもまたカナタの時間を悟る。

「お前のことを所有物だとか、ましてや自分の、その、女扱いなどというつもりは断じてない」
「もしや、私に落胆しておられませんか」
「そういうことでもない!昨夜のあれはその、相手の男に」
「あの商船主の男性に?」
「…少し、傍妬きしたに過ぎん」
「まっ」

同室にいながら顔を手で覆い立ち尽くす二人の静寂は、夕餉の支度ができたと知らせるエラムの声により引き裂かれるまで、あと数分続くのであった。

end.



おまけ

「そういえばナルサスさま、こちらは?」

カナタは沈黙の中でナルサスから受け取った書物を今更ながら広げた。絹の国の言葉で書かれたそれは、兵法書のようである。

「昨夜、お前が話していた商人がいただろう。その男から買った」
「…嬉しいです」
「まだまだあるぞ。なんせ昨夜の詫びも含めて買い占めたからな!」
「撤回します。大人げないです」
「なんだと。お前、あれほど昨夜貴重な書物だと意気込んでいたではないか」
「貴重かどうかは問題ではありません。そうやって衝動的に行動なさるのが」
「お前までエラムのようなことを」
「ことナルサスさまに関してはエラムが言うなら正論です」

「お二人とも!夕餉が!できておりますよ!」

おまけend.