マイレディ・ユアレディ 01


朝の清々しい空気が徐々に角をなくし温かみを帯びて来る、そんな頃合いのことであった。ギラン王太子府の執務室に足を踏み入れたナルサスは、目の前に広がる光景に思わず不思議そうな声を出した。執務室のソファに横たわって何とも安らかに寝息を立てているのは、先日自分に思いを告げてきたばかりの元弟子の姿だった。

殿下の裁判の手伝いということで朝から公務をこなしていたナルサスであったが、実を言うと彼は執務室に戻る直前に偶然出くわしたダリューンから、やはりというべきかあの夜のことを怪しまれたばかりなのである。廊下ですれ違うだけ、と思いきや、珍しく黒衣の騎士は強引にナルサスの肩を掴み、いやに真面目な顔をして声を掛けてきたのだ。

「ナルサス。お前やはりカナタと何かあっただろう」
「…ダリューン。俺は忙しい。今はそんな話をしている場合では」
「ナルサス」

逃れようとしても無駄なことなど、旧知の仲で分かりきっているはずであった。しかしナルサスはどうにも目の前の男に隠し事の一つもできない自分に不甲斐なさを感じてしまう性分なのだ。しかも隠しきれない出来事というのが色恋沙汰というのであれば、なんとも情けなさの募る限りなのである。

「そうであろうなあ…隠そうとしたとて、俺にも色々と限界がある」
「お前の口からその言葉を聞く日が来るとはな。で、どういうことなのだ」

ダリューンとて決して面白おかしくからかっているわけではない。ただ単に友人の様子がいつもと違うから、という理由で、どちらかと言えば吐き出して楽になってしまえという気遣いの方が強いのかもしれなかった。ナルサスは観念してあの夜妓館で起きたことを一部始終話し、ダリューンはそれに頷きながら話を聞いた。簡潔に話される内容は、最終的にカナタが思いを告げたところで終わったため、結末に拍子抜けしたようにダリューンは質問を繰り返した。

「何、どういうことだ。カナタがお前に思いを告げた、それはいい。お前は何と応えたのだ」
「答えを返すには、王都を奪還し国が礎を築く必要があるのだそうだ。そういう条件を、あいつが出した」
「つくづくお前らの関係性は計り知れぬな」

そういうやり取りを交わした後であったから、ナルサスは自分の部屋で気持ちよさそうに眠っている彼女の姿を見たとき、より一層その姿を意識せずにはいられなかった。先日妓館で見せたような艶やかな表情はどこへ消えてしまったのか、すっかり無防備な顔に戻ったそれをまじまじと眺めてしまう。
全くこの年頃の、特に女性というものは変化が目まぐるしいものだ。そろそろ少女などと呼ぶべきではないのかもしれないと感じさせられたかと思えば、やはりまだ自分の庇護下に置いておきたいようなあどけなさを見せつけてきたり、とにかくこちらの印象を二転三転させるのに事欠かない。

ナルサスはソファに一歩踏み寄り、猫のようにしなやかに膝を折り曲げて横たわるカナタの頭元に腰掛けた。伏せられた長い睫毛に落ちる影は、彼女の吐息が往復するたびに微かに揺れている。ギランの街は日中、過ごしやすい陽気とは言い難いが、今はまだ午前だ。窓から吹き込む風は少しばかりの湿気と肌に触れる心地よい冷たさをはらんでおり、なるほどそれが彼女の眠気を誘ったのだとしても頷ける心地だった。

「気持ちよさそうに寝ているところ、すまんな」
「ナルサスさま…」

腰掛けた重みで沈み込むソファの動きを受け、カナタがうっすらとその瞼を持ち上げた。まだ少し夢見心地のようにまどろんでいるその瞳は一度はまた閉じられそうになったが、どうやら少し迷った後に覚醒する方向へ進んだようである。横たわる姿勢を変えないまま、しかし瞳をしっかりと開いてカナタは気怠げに口を開いた。

「すみません、先日の裁判の報告書を持ってきてそのまま…眠ってしまいました」
「俺も一仕事終わらせてきたところだ。もう少し、寝ていなさい」

そう言ってナルサスは自身の膝を軽く手のひらで叩くと、カナタの頭をその上に誘導してやる。彼女はそれを拒否も迷いもせず素直に受け入れ、横向きになっていた身体を仰向けに直すと、ちょうどナルサスの顔を下から覗き込むような姿勢を取り再び瞼を閉じた。

「…いい匂いがしますね」
「潮の香か」
「いいえ、ナルサスさまの匂いです」
「大して面白くもなかろう」
「還る場所の匂いがしますから…落ち着くのだと思います」

そう言って口許を綻ばせるカナタは、自身の髪を柔らかに撫でる彼の手も受け入れ、間もなく再び定期的な吐息を見せ始めた。夢現という状態であろう彼女の口から紡がれた言葉は、確かあの夜にナルサスが聞いた言葉の中にもあったものだった。自分がどうなっても、この世界で還るところは彼のところだと。男を誑かす試みで言ったと思われたその言葉は、内心で彼女の本心だったのかもしれない。しなやかな黒髪を撫でる手に一層の慈しみを込めながらナルサスは再びあの夜のことを思い出していた。

慕っている、とそう告げられたことはやはり彼の心を満たしたし、彼もまたその場で赦しさえあれば同じ気持ちを彼女に伝えただろう。しかしながらあの時告げなかった自身の想いは、ナルサスにとってはただの愛情というにはやはりどこか複雑で、もしかするとすぐに受け入れてしまわなくて正解だったのかもしれないとも彼は感じていた。受け入れてしまったら、その先にあるものを求めずにいられなかったと思うし、その先にあるものを求めてしまうとなれば、王都奪還までの間にまた自身の中で葛藤が生まれていたに違いない。

そこまで考えてふと、もしかすると目の前で無防備に眠るカナタが、そういうことも含めてあの夜自分の返答を断ったのではないかという疑念も生まれてくる。ナルサスが知るかぎりであれば、カナタにとっては自分が生涯を通して初めて恋の相手となるはずで、そういう気持ちをどう制御してよいか分からなかったということも有り得ないわけではなかろう。

限られた選択肢の中で最も良いものを選ぶ、という彼女の思考からすれば見事な選択と言っていいに違いない。そこまでのことを考えられる素養が、カナタにはある。それは彼女を師として導いてきたナルサス自身だからこそ間違いなく肯定してやれる事柄であった。

「お前は相変わらず、よく出来た弟子だな」

膝の上で眠る彼女の鼓膜に届いているのかいないのか分からない独り言を口にして彼は微笑んだ。今はまた再び安らかな表情で彼の膝に体重を預けるカナタは、自分にとって大切な弟子であり、部下であり、そして想い人なのは違いない。紆余曲折を経て最終的に愛しい人となったカナタに抱く感情は複雑だが、以前のように濁りのあるものではなく、むしろ何重にも濾過されたような晴れ晴れしく澄み渡ったものになっていることに気付いた。

透明で混じり気のないこの気持ちを告げたら、彼女はその時一体どんな顔をするのだろうか。今はまだ、ギランに滞在し兵力を蓄える時期にあるナルサスであったが、その頭の中にはもう既に王都を奪還した後のことが浮かんでいるとは、全く都合のいいことだと自分でも嘲笑を禁じ得なかった。

「私はもうナルサスさまの弟子ではありません」
「なんだ。起きていたのか」
「いつまでも弟子扱いされるのは…嫌です。どうか隣に立って、歩ませてください」

そして再びパルスの輝かしい都となったエクバターナを見るのだ、と。彼女はそれだけを口にするとまたストンと落ちるように眠ってしまった。その姿はナルサスの中に言い表しようのない充足感をもたらし、彼もまたしばしギランの潮風に誘われその瞼を閉じるのであった。

二人を包む風は心地よく、幸いに午後まで来客の予定はない。今はしばしの休息とこの関係に酔いしれても誰にも文句は言われないだろうと、二人は互いの体温を感じながらの心地よいまどろみに身を任せた。

End.