四食目 秋刀魚の塩焼き

燃え尽きて白くなった表層の奥で煌々と燃えるオレンジ色を見ていると、待ち遠しさで胸が焦がれるのでした。

秋。天高く、秋刀魚の肥ゆる季節。私はお店の庭で七輪を扇ぎながら、火加減を注意深く見、ついでに籠編みのザルに盛られた秋刀魚を見ては頬を緩ませていました。あれを小脇に抱えて軒先から繋がる飛び石を駆けてくるときの身軽さといったら、まるでトビウオのように華麗な身のこなしをしていたのではないかと、自分で自分の姿は見られずともそう思いました。
なにせ秋刀魚。脂の乗った秋刀魚は、どんなご馳走にも勝る魅力があるのです。ぎらぎらと光るそれは、まるで刀身のように輝き、瞳はガラス玉のごとく光を放ち、背びれの盛り上がりはもはや芸術です。

「さんま、さんま、さんまさん」
「何歌ってるの?」
「時透さん!いつの間に」
「君が店に入るのが見えた。でも楽しそうだったから、少し見てた」
「そうだったのですか、すみません。今日はこれから秋刀魚を焼くところなので、お出しできるのはもう少し先なんですが…」
「いい。そこに座ってるから」

そう言って時透さんは、縁側の座布団に腰掛けると「続けないの」と声をかけてきました。いつもの座布団の上に、今日は横にならず座っています。その様子が微笑ましくてつい眺めてしまいそうになりましたが、私は自分の足元の七輪から目を離していたことに気づき、すぐさま視線を戻しました。

「さん、さん、さんまさん」
「さっきと違う歌だね」
「私、秋刀魚が好きなんです。今日はとても良いものが手に入って、嬉しくて歌も思いついてしまって」
「ふぅん」
「時透さんは秋刀魚はお好きですか?」
「あんまり食べたことないかも」
「では、きっと今日の秋刀魚は食べてください。脂が乗っていて、とても美味しいと思いますよ」

腕によりをかけて焼き上げます、と笑って見せれば、時透さんもそれに釣られたのか少しだけ目を細めていました。眠いのか笑ったのかわからないくらいの表情ではありましたが、私は一層嬉しくなり引き続き秋刀魚の歌を口ずさみました。

よく温まった網の上に、一尾を乗せました。じゅわ、と脂と熱が触れた手応えがあり、表面の塩が柔らかく溶けて汗をかいているようでした。次第に熱を纏っていくと、滴り落ちる油の一つ一つが炭の上を転がり、香ばしさを目でも感じられます。

「さんま、さん、さんまさん。さんま、さんま、さんさんさん」
「さん、さん、さんまさん」

背後で私の歌を真似た時透さんの声に、驚きよりもおかしさが勝ってしましました。けれどそれをごまかすのに、私はあくまで秋刀魚が焼ける匂いへの嬉しさを表すように笑いました。

「いい匂いがしてきましたね」
「ねぇ、大根おろしは」
「もう作ってあるんです。ご飯も炊いてあるので、後は焼き加減のみですよ」

振り返ってみると時透さんは無表情でしたが、何か言いたげなようにも思われました。どうしてかというと、普段はあまり合わない目線が、その時はばっちりと私の瞳を見ていたからです。どうしたのだろうとじっと考えてみて、私は一つの思い当たりに到達しました。

「時透さん、こちらに来て一緒に火加減を見ていただけませんか」
「わかった」

ぽたぽたと秋刀魚の腹から落ちてゆく粒を時透さんと私は共に見守りました。もう一尾を追加で乗せると、香ばしい匂いの中にまた特有の潮っぽい香りが漂います。新鮮な秋刀魚をわざわざ焼くのは、この上なく贅沢なことのように思われました。

「もうそろそろじゃない」
「うーん、そうですね…」
「焼けてると思うけど」
「皮目をパリッと焼くのと、身をふっくら焼き上げるのと、ちょうどいいところを狙っているんですよ」
「ユリネはいつも」

一生懸命だね、と時透さんは呟きました。呼ばれた名前とふとした一言とに、私は一瞬遅れて間抜けな声を出してしまいました。は、とも、へ、とも取れないそれを聞いて、時透さんの口元は確かに綻んでいます。

「ひっくり返さないの」
「そうですね、返しましょう」

菜箸を持つてが思わず震えてしまいそうで、箸を持つ手の首を反対の手で支えながら、私は一尾目の秋刀魚を裏返しました。表側についていた雫が一斉に灰の中へ落ち、まだ熱を持ったところへ届いた瞬間に騒がしい音を立てました。飾りに入れた切れ目が綺麗に開き、内側の白っぽい身がこんがりとした焼き目と相まってとても綺麗です。

もう一尾も焼き上げて、私と時透さんはお店に戻りました。事前に炊き込んでおいた栗ごはんと、秋茄子を使ったお味噌汁、そして焼き立ての秋刀魚にたっぷりの大根おろし。まだ陽気を感じる日も多いのに気持ちだけが先行し、急須にはほうじ茶の用意がしてあります。

「いただきます」
「はい、どうぞ」

いつの頃からか食事の前に手を合わせるようになった時透さんの様子を眺めながら、ほんの少し、馴染みを持ってもらえているのかなと胸の奥が温まる心地でした。

end.