二食目 揚げ出し胡麻豆腐

ぱちぱちと賑やかにはぜる音が一斉に始まるとともに、胡麻の薫りが店いっぱいに広がった。

お店に初めてのお客さんが来た日の夜、私は父と母に、店の門につけた藤の家紋の意味を聞かされました。なんでも我が家のご先祖さまのご先祖さまがあるとき鬼に襲われ、それを助けてもらったことがきっかけで昔から「鬼殺隊」と呼ばれる鬼狩りの人たちの手助けをしてきたそうでした。

「なんだ、君、そんなことも知らなかったの」
「それは面目ないといいますか、私もお店が持てることで浮かれていたといいますか…って、いつの間に!」

気がつくと開店前の店内に、ぽつんと一人。いいえ、ぽつんというにはずいぶん存在感の大きい少年が、またもや特等席に座っていました。お店の扉はしまっていたはずなのにどうやって入ってきたのでしょう。

「お腹空いた。いい匂いがしたから寄ったんだけど」
「あ、ありがとうございます。今まだ仕込み中で、もう少し時間がかかるんです。申し訳ないんですが、また出直していただいたほうが」
「ふーん…」

そう言うなり少年は、机に肘をついたかと思うと、そのまま瞼を下ろし、数秒後には静かな寝息を立て始めました。もしかしてここでそのまま待つということなのでしょうか。私は、起きてくださいと声をかけ、少年の肩を揺すってみようかと考えました。とはいえ火を使っているものですから、すぐに客席に向かうこともできず、結局のところ目の前の仕込みに集中することにしました。

少年は、冷たそうな印象を受けはしますが悪い人ではなさそうでした。ただ、見た目相応の無邪気さはなく、かわりにどこか浮世離れした雰囲気を纏っていました。

「(この人も鬼を狩るのかしら。鬼を狩るっていうのは、刀で斬ってしまうのかしら)」

私は生まれてこのかた、鬼というものには会ったことはありません。会うということはすなわちどういうことかは知っていますから、もちろん会いたいと思ったこともありません。
そんなことを考えているうち、不満げな声が少年の口から溢れました。どうやら机についていた肘からがくんと体勢を崩したようでした。

「あんまり寝心地よくないね」
「それは、そうだと思います」

夢うつつなせいなのか、少しぼんやりとした口調で紡がれた言葉でした。当然うちは食事処なのですから、少年の腰掛けている椅子は特等席とはいえ硬いでしょうし、だいいち腰掛けたまま寝るのにはどこにも支えがありません。

「でも、夜の間は鬼が出るから。すごく眠いんだ」
「よかったら支度ができるまで、少し横になってください。まだ開店前でお客さんも来ませんし、奥の長椅子が空いてるからそこに」

鍋の中で浮かんでくる胡麻豆腐と今にも椅子から落ちていきそうな少年の両方を気にかけるのは私には難しく、慌てた口調でそう伝えました。奥の長椅子は大人が横になるには少し狭いくらいの二人がけでしたが、少年は小柄ですし、幸いにも先程干したばかりの座布団も敷いてあります。

「わかったよ」

短くそう答えた後に続いて何やら少年の口はもう一言だけ言葉を紡ぐように動きました。しかしそれは音にはならず、ただ私の目には、誰かの名前を呼んだように映りました。少年の表情があまりにも安心していて、そこに父か母でもいるような雰囲気のものだったからです。

再び無音になった店内には、細かくなった泡の音が一層響き渡りました。鍋から次々に胡麻豆腐を取り出して、油を切ってからすかさず器に盛り付けます。丹念に昆布からとった出汁と調味料を合わせたものを火にかければ、先程まで漂っていた胡麻の香りと交わり既に唾を飲むような良い匂いです。溶かした馬鈴薯粉を入れてとろみがついた黄金色のお出汁を惜しみなく先程の豆腐の上へ流しました。今日の一品も、大変良い出来栄えです。

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「そういえば、お侍さんは何という名前なんですか?」

世間話のつもりで、今日も今日とて大量の白米をものすごい勢いで消費している少年に話しかけました。しかし質問をした瞬間、少年は目の前の胡麻豆腐を箸で二つに割ることに没頭していました。お箸に伝わるもっちりとしたあの幸せな弾力を邪魔してはいけないと思い、少し時間を空けてから「私はユリネと申すものです」と伝えると、少年は頬張っていた胡麻豆腐をゆっくりと咀嚼してから短く「時透無一郎」と答えました。


End.