一食目 白米と味噌汁

蓋の隙間から立ち昇る湯気は、宙をゆらりと漂っては、部屋中を白米の香りで満たしてゆく。

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我が家は代々続く酒屋です。この地で先祖代々商売を営んできました。しかし家業は兄が継ぐというものだから、私はつい先日、家の斜向かいに定食屋を開店することを決意しました。

はじめは反対していた両親でしたが、ある時、一つだけ条件を受け入れるならと話が転じました。
条件というのは店の門に藤の花を模した紋を入れることでした。私は念願が叶うならばそんなことは易いと承諾し、またたく間に自分の店を手に入れました

「父上も母上も、なぜ藤の紋なんて入れろと言ったのでしょう」

理由を聞けば済んだのでしょう、けれど当時の私は兎に角自分の店を構えられることが嬉しくて、そして開店の準備すらも口元が緩みっぱなしなほど嬉しくて、藤の紋の意味を知ることなどすっかり忘れていました。

ところが、数日後。
待てども待てども、客らしい客が訪れることはなく、私は虚無を仰いでいました。
一人でやると言った手前、両親には相談しにくかったのですが、店に客が来ないことを思い切って打ち明けてみれば「そのうちに来るさ」「気長にやらなきゃね」とのらりくらりとした返事をされるだけでした。

店の前にある暖簾が傾いているのでしょうか。はたまた、前の道が汚れているのでしょうか。
そんな不安が過ぎる度に私は外へ出て、自分の店の付近を見渡してはうーんと唸るばかりです。

「ねえ」

ふいに背後から声をかけられたのは、暖簾の棒を少しだけ右に傾けたときでした。既に日は落ち始め、もう今日はこのまま店を閉めてしまおうかという矢先でした。振り向けばそこには声の主であろう、男の子が一人立っていました。

「どうしましたか、少年。早く家に帰るんですよ」
「何か食べさせてよ」
「あまり暗くなると家の人も心配するのでは?」
「お腹空いてるんだ」
「ちょっと、ちょっと待って。無言で中に入らないで!って、つよっ、とっ、ええ!」

どういうことでしょう。突然現れた少年は、私の店の扉を勝手に開けて中に入ろうとするのです。よくよく見ればその腰には刀が携えられていて、そうして少年の開けた扉を私は一寸も押し返すことができません。まるで釘か何かで固定されたかのようで、あんまりに力が強いので次第に疲れてしまい、とうとう口をだらしなく開けて唸ることしかできなくなってしまいました。

「お金ならあるから。早くしてよね」

私の抵抗に終止符を打ったのは少年が懐から出した小判の輝きでした。驚いて腰が抜けました。

少年を店に入れて───というより無理やり入られて───私はまだ閉店時間まで時間があるというのに店の暖簾を下げました。なんせ自分の店に人が来るのは初めてでしたし、前述のことも含めて気が動転していたのだと思います。少年はこの店の特等席ともいうべき席に座り、お腹空いた、何があるの、とまるで当然のように言い放ちます。

「今日は、具だくさんのお味噌汁と、ご飯がありますよ!」

なんだかんだ言いながらも初めての接客でしたから、少々、いえ、かなりの浮かれた声であったと自負しています。じゃあそれ、と短く言い切られた少年の言葉に気前よく返事をして、私はよく蒸らした白飯をこんもりとお茶碗に盛り付けました。荘厳な山のようでありながらも、あくまでふんわりと。ご飯のお供には自家製のお漬物を添えて、今度は大きめの椀にお味噌汁をよそいます。出汁にした鰹のいい匂いが辺りにわっと立ち込め、ほくほくのお芋とお豆腐が顔を出したかと思えば、その中に鮮やかな色の青ネギが見えて一層食欲をそそりました。

「おまちどうさまです」
「ん」

お客さまの食べる姿をあんまりまじまじと見てはいけないと思いつつ、人生初のお客さまなのですから、多少見てもバチは当たらないだろうと、洗うもののない洗い場で何とはなしに手を動かしながら、そっと横目で見守りました。温かなお味噌汁のお椀を持ち上げて、ずず、と一口。箸を入れてお豆腐とお芋を同時にぱくり。家族ではない誰かに自分の料理を食べてもらうことは、なんとも贅沢な気持ちになれるものでした。

ぱくり。ずず。ずず、ぱくり。ずず。
気づけばいつの間にか山のようだったご飯も丘のようになり、ついにはただの茶碗になりました。添えていたお漬物は小気味よい音を立てたかと思えばあっという間に少年の喉元を通り過ぎました。綺麗に平らげたかと思われたその瞬間、少年は言いました。

「もうないの?」

表情ひとつ変えない少年のたったのその一言に、私はなんと感激したことでしょう!店を始めてよかった。今日に限って早めに暖簾を下げてしまわなくてよかった。すぐさま山盛りにした食事を持って行けば、少年もまたたく間にそれを胃袋に収めました。彼の華奢な体に、一体どんな細工があればこれほどの量を食べられるのか分かりませんが、とにかくひたすらに食べ進める姿を見られたものですから私は幸せでした。

「じゃあね」

店の釜をすっかり空にすると、少年はやはり表情も変えずに去っていきました。しかし私の心の中は、炊きたての湯気が絶えず漂っているような、とんでもなく快い気持ちでした。

その夜、店に来たお客さま第一号のことを父上と母上にお伝えしたところ、藤の紋の意味を知らされることになったのは、また別のお話。


End.