愛しゃんせ。

プロジェクトDの遠征は順調に進んでいた。参加しているメンバーは平日に仕事やら学校やら各々のプライベートを送り、土日に遠征に行くというスケジュール。ハードな日々ではあったけど私は楽しくて楽しくて、毎日が本当に充実していると感じることができた。

「啓介さん、どうでしたか?」
「悪ぃ、やっぱりさっきのに戻してくれ。思ってたより路面が滑りやがる」
「ここのアスファルトはあんまりいい状態じゃないですもんね」

プロジェクトDに参加するとき、私は恐れ多くも涼介さんに「条件」を提示した。その1つが、「86ではない車を担当させてもらうこと」である。これは単に拓海と接触したくないという理由だけでなく(もちろん拓海とのことも私の中で完璧にふっ切れた訳じゃなかったから、少しは、そうなのだけど)やはり触ったことのない車に専念する方が自分のスキルアップに繋がると思ったからだ。幸いFDにはもう1人宮口さんというメカニックもいたので、私は彼に教わりながらFDのセッティングを手掛けることになったのだ。

「分かるのか?そんなこと」
「一度走れば大体は。さっきのセッティングもそれを見越して、足回りをかなりいじりましたから」
「へー、やっぱいい腕してんな、は」
「へー、今日はこの後大雪になって火山が噴火するんですかね」
「あっテメ!人が素直に褒めてやったんだろーが」
「痛い痛い!冗談ですってば!」
「相変わらず仲がいいな、2人とも」

びくり、と思わず心臓が跳ねる。油の切れたブリキ人形のようにギギギと首を回せば背後には涼介さんが立っていた。どうも私はこの人が苦手だ。とてもいい人だと思うしすごい人だとも分かっているんだけれど、この顔にはいつまで経っても緊張せざるをえない。いや顔というかもう何というか存在自体が崇高なお方なのだ。涼介さんは啓介さんの調子を気にしていたようで、今日のコンディションについて話し込み始めた。私はその場を離れFDのセッティングに取り掛かる。
車の下に潜っていると何やら私を呼ぶ声がした。この声は恐らく賢太さんだろう。

「はーい、どうしました?」
「買い出し行ってきたんだ、ちょっと休憩にしない?」
「あ、ありがとうございます。セッティング終わったら行くんで、私の分取っておいてもらえますか?」
「もちろん。じゃ、あっちの木陰に行ってるから」

ぱたぱたと駆けていく後姿はどうも子犬を連想させて仕方ない。年上だけど賢太さんはとてもかわいい人だなと思う。啓介さん大好きなところとか、啓介さん馬鹿なところとかが特に。





食事を済ませるとピクニックシートの上で皆それぞれ昼寝。夜中ずっとセッティングやらテスト走行やらに追われているのでもちろん寝る時間なんてない。だから睡眠は取れるときに確実に取っておくというのがプロDの鉄則であった。涼介さんなんかは睡眠をするにもすごく集中できる特殊なタイプだからいいのだろうけど、啓介さんは場所が変わるとなかなか寝付けないといっていつも困り果てている。他のメンバーもそこそこ眠ってはいるけれど深い眠りにつける人は数少ないみたいだ。横になって目を瞑っているだけでも違うとは言うけれど、やはり質のいい睡眠が取れないとこの遠征はきついものがあるとつくづく思い知らされる。

はサポートカーを使っていいよ」
「え、いいですよ。私が1台占領するのは忍びないです」
「いや、でも」
「いーえ。そのシート貸してください。少し離れたところで寝ます」

賢太さんが親切で言ってくれているのは十分承知なのだけど、それでもやはり特別扱いは避けたかった。私が涼介さんに提示した条件はもうひとつあり、それは「女だからといって特別扱いをしないこと」だった。女だから、という言葉がよくないのは知っているけれど、男ばかりで行動する中に女が1人いるだけで周りが気を遣うことなんて目に見えている。全く特別扱いをするなというのは無理だろう、しかしわきまえるところだけわきまえてくれて後はダブルエースである拓海と啓介さんを最優先にしてほしいというのが私の希望だった。この条件については涼介さんも「最初からは難しい」といっていたのだが、まさにその通りである。

「あれ、…」
「拓海。こんなところでどうしたの?」
「なんか…眠れなくて。周りに人が沢山いるからかな」
「え、拓海でもそんなこと思うんだ」
「うるせー」

いつでもどこでも寝れる体質の拓海が眠れないっていうのは、やっぱり緊張してるからなのだろうか。そうだとしたら私が何か、少しでも緊張を解すことができればいいんだけど。何もうまい言葉なんて思いつかないしなぁ。

「ハチロクのエンジン、どう?いい具合?」
「乗ってて別に不自由しねーし、問題ないと…思う」
「松本さんの腕は確かだし、拓海は向かうところ敵なしだね」
「んなことねーよ。次はどんな速いやつが出てくるのかって考えると、俺、涼介さんの役に立てるか不安だ」

拓海も、悩んでるんだ。不安で不安でたまらなくて、期待に応えられなくて拒絶されたら、幻滅されたらって思いながら走ってる。
涼介さんのために走るというのは些かおかしい気もしたけど、それでも今の拓海にはあの人のような人が必要だった。彼がいるからこそ走れるというのもあるだろう。子が親に無条件で懐くような、尊敬から生まれる師弟関係のような。2人の関係はものすごくプラトニックだと思った。

「拓海は、涼介さんのこと好きなんだね」
「好きっつーか、なんか…すげー人だから」
「そういうのが好きっていうんじゃない?拓海って、好きな人以外には興味すら示さないもん」
「そーかぁ?」
「そーよ」

拓海のことをずっと見ていたのだから、それくらいは分からせてくれてもいいじゃない。

「好きな人に嫌われたくないっていうのは当たり前だよ。その気持ちは、大事にするべきだと思う」
「んだよ、また年上ぶりやがって…」
「私の方が先に誕生日来るんだから年上ぶってるんじゃなくて年上なの!」

くだらないやり取りで少しでも拓海の緊張が解れてくれればいい、そう思う私もまた、拓海のことをプラトニックな意味で愛しているのだ。
好きで好きで堪らない、気持ちはあの頃と変わらない。けれど確実に一歩一歩進んでいく拓海を間近で見ていられるというその特権が、今の私にとっては何よりもかけがえのないものだった。



神様もう少しだけ、彼の隣に私を






End.