恋しゃんせ。(スタートライン)


プロジェクトDに参加してほしい。もちろん返事はすぐにとは言わないから、よく考えて決めてくれ。

「始動は春から…か」

今日の昼間、赤城のロータリー兄弟の兄の方が私の元にやってきた。ハチロクの整備をしているのが私だと、どこの筋からか分からないけれど情報を入手してわざわざ職場まで出向いてくれたらしい。
私にとってはまたとないチャンスだと思った。県外へ出て、色々な走り屋を見ることもできる。コースに合わせて短時間でセッティングを仕上げるというのは難しいと思ったけれど、同時にそれは胸が高鳴る条件でもあった。

試したい。

自分の腕がどこまで通用するのか、試してみたい。それはきっとドライバーが勝負するときの気持ちによく似ている。私は直接車に乗るわけじゃないけれど、自分が仕上げた車がどこまで勝負できるのか知りたいというのはこの職をしていれば必ず思うこと。だから、そういう面での返事は、イエス以外にありえないのだけど。

私は、拓海への気持ちにうまく整理が付いていない。最近は好きっていう気持ちが重たくて苦しいとさえ思うし、それでもやっぱり今の関係以上に踏み出す勇気もない。だからどっちつかずのまま、あのクリスマスイブから随分経ってしまった。
茂木なつきは東京へ行くそうだ。けど彼女がここからいなくなったところで何も変わることなんてない。結局私は、いくら条件が揃っても自分の気持ちをアピールすることなんてできないのかもしれない。意気地なし、と嘲笑った瞬間にまた目尻が熱くなった。





翌朝、目が腫れていないか心配だったけれどそんなに目立つこともなく私はほっと胸を撫で下ろした。なんでかというと、今日は拓海が来る予定だったからだ。もし目が腫れているようだったら朝一で眼下に行って薬をもらって、拓海が来る午後までにはどうにか普段通りの顔にしておかなきゃなんて柄にもなく考えていた。ポケットに忍ばせている小さな鏡を取り出して、よし大丈夫と独りごちる。

「お前、何してんだ?」
「あ、拓海。早かったね」
「ちょっとな」

冷めるとまずいと思って、と言って拓海が差し出したのは、商店街の惣菜屋さんの紙袋だった。促すように、ん、と押しつけられて、それが紛れもなく私のためのものだと認識する。受け取ってみると袋の底はじんわり温かかった。

「たい焼き…?」
「あのさ、俺、春からはここにハチロク持ってこねーから」
「え?」
「高橋涼介って、お前も知ってるだろ。あの人のチームに入ろうと思って」
「それってレッドサンズじゃなくて、新しく出来るやつ?」
「よく知ってるな」

そりゃそうだ、だって昨日私はそのチームに入らないかと誘われたばかりだもの、と言いそうになって口を噤んだ。

「そのチームに入ったら、専属のメカニックがつくんだって。だから…その。お前には色々と世話んなったし…」
「それでたい焼きだったんだ」
「安くて悪かったな」

口を尖らせて拗ねたように呟く拓海。そういえば私、拓海から何かをもらうなんて初めてかもしれない。うん、そうだ、初めてだ。そう思うと嬉しくて、思わず紙袋をぎゅっと握りしめた。少しの間沈黙が続いた後、拓海が口を開く。

「…プロになりたいんだ」
「プロのレーサーになるってこと?」
「笑うか?」
「笑わないけど」
「そっか…」
「プロジェクトDで、色々勉強しなよ。車のこと」

私の言葉にしっかりと頷くその仕草を見て、拓海もついに夢を据えたんだなと感じた。今まで走ることに特別な野望を抱いていたわけじゃない拓海がその夢によってどう変わっていくかと考えると、好奇心が疼いて堪らなかった。きっと今までよりももっと、走りに貪欲になっていくのだろう。
拓海が変わっていく。そのとき私はどうするつもりなのか。私だけ取り残されるつもりはさらさらない。私だって自分の追い求める夢は既に据えている。だからそれに向かって突き進むことが、唯一、私が彼と対等でいられる術。

隣に立ちたいというより、負けたくないと思った。負けられないと思った。

はどうするんだ?春から」
「…私も、やりたいことがあるから」
「お前ってすげーよな。何の迷いもなくやりたいことがあるって言えるの、やっぱすげーよ」
「じゃあ、今の拓海も十分すげーんじゃないの?」

そう言うと拓海が笑ってくれたので、私は何故か、これまで辛かった思いが一気に消え去っていく気がした。拓海のことは依然として好きだと思うけれど、今はそれよりも、自分のやりたいことが目の前にあるから。手を伸ばさずに指を咥えて見ているだけなんてできない。スタートの合図を待つまでもなく、走りだしてしまいたい勢いなのだ。

「ありがとな、

いえこちらこそ、と言いたい気分だった。やっぱり私をこんな気分にさせられるのは拓海だけで、拓海を好きな気持ちは決して途絶えることはないだろうけど、今ならそれを新しい挑戦へのエネルギーに換えていけると思った。


きっとそれは、恋だったのね。


失恋したわけでも相思相愛でもなかっただけで。





End.