Read my lips.


セックスの時に声を出さないのは、癖のようなものだった。

声を出さないとはいっても、喘がないのとは違う。気持ちよかったり痛かったり、どっちでもないけれど嗚咽が堪え切れないときも。とりあえず喘がないことはない。声を出さないというのはすなわち、私語をしないということだ。恐らくそれが涼介にも感染ったのだろう。彼はアダルトビデオに出てくるような常套句をあたしに囁くことは決してしなかった。教えた通り、身体の隅々の快感を探り当てることに必死になるだけ。

あたしがまだ涼介と清い関係だった頃。18才の男の子とのセックスはどんなものだろうと想像してみたけどいいのか悪いのか分からなかった。大体にして彼は女の子に人気があるがそれまで1人孤高に生きてきたのだから、経験も何もない。あるのは人並みの知識と、好奇心のみだったのだ。
いつ言い出してくるのかと結構心待ちにしていたのに、彼はキスのその先を求めては来なかった。それどころかディープなものをも拒むような雰囲気だった。一体どこの中学生だ、と思いはしたものの、そういえば自分が18の頃なんてそこまで猛烈にセックスがしたいなんて思わなかったなと若かりし頃を思い出した。
けれどそれはあくまで女ならの話で、男の子は20前後がピークだと性教育の授業で学んだことも同時に思い出す。だったらおかしいじゃないか。どうして彼は、あたしの身体を求めないんだろうか。

とうとう痺れを切らしたあたしは、率直に聞いてみることにした。涼介はあたしとセックスしたい?したくない?せめてもう少し恥じらいのある感じにした方がよかったのかもしれないが、はっきり言わなくて伝わらなかったら虚しいと思いなるべく要点を簡潔に含んだつもりだった。案の定少し照れる様子を見せた涼介だったが、意外にも返答は早かった。

「したくないと言えば嘘になる。けど、あまり自信がないんだ」

初めてだから、という台詞に心動かされるのは男だけだと思っていたから、まさか自分がこんなにも欲をそそられるなんて思ってもみなかった。涼介はことごとく「男」というイメージを崩していく。容姿端麗、年下で、万能で、走り屋で。どの要素がそうさせるのかは分からないけれど、こんなにも素直な恋愛は初めてだった。

初めてだっていいから、涼介とセックスしたいと思った。それは手を繋ぎたいとかキスをしたいと思う感覚とほぼ同じだった。残念なのはあたしが初めてじゃないところだと、心底過去の自分を恨んだ。しかしどうしようもないことなので数秒で恨むのを止めて涼介に向きなおった。

「涼介の初めて、あたしにください」

我ながら、古典的だと呆れた。





嫌がっている様子はなかったけれど、初体験を済ませても涼介から求められることはなかった。おかしいくらいに健全で、まるで欲のない。そんな人間がこの世にいるものかと思ったが、実際目の前にいるのだから認めるしかないだろう。今日だってついさっき自分から半ば襲いかかるようにして始めてしまったくらいだ。まさかあたしががっつきすぎなんだろうか。抱き締めているクッションがかわいそうな位に潰れているのに気付きながらも、ベッドで1人、恋人との性関係について考えていた。もちろん隣には涼介がいるのだが。

事後の気怠い身体は嫌いだと、そう思っていた。楽しみといえばベッドに灰皿を持ち込んだ一服くらいだと。まあ今でも大してその認識は変わっちゃいないんだけど、隣に涼介がいると少しだけほっとする気がした。
何度も言うが、涼介は決して自分からあたしのことを求めない。どうしてなのか聞いてもそんなものは生理的なことだから向こうも答えにくいだろう、そう思ってあたしはその疑問を先延ばしに先延ばしにしていた。要するにただ、あたし相手に勃たないと言われるのが怖いだけなのだが。

求めれば応えてくれる、今はそれだけでよかった。

「あ…涼介」
「ん?」
「しばらく着替えのとき気をつけて。爪、伸びてたみたい」

涼介の背中には、出血するほどではないがあたしの爪跡がしっかりと残ってしまっていた。誰かに見られるような位置じゃないけれど、見られれば何の名残なのかはすぐに分かってしまうだろう。

「珍しい」
「何が?」
「いつも跡を残さないように気を付けてるだろ、は」

気付かれないように巧妙にやっていたつもりだったのに、彼は聡明である。あたしの恋人にしておくにはやはり勿体ない気がしてしまった。

いつ消えてもいいように。思い出さないように。忘れられるように。
何も痕跡を残さないのは、あたしなりの生きる術だった。残してしまえばきりがない、未練も思い出もセックスの味も。

「残したら涼介ファンに後ろから刺されそうじゃない」
「刺されてもいいくらい好きになってくれないのか?」
「それはできない」

本当はもう、刺されたって文句を言わないくらいに惚れているのかもしれない。けれどそれを認めるのがなんとも悔しくて、できない、ともう一度言った。すると涼介が、おもむろにあたしの首筋に顔を埋める。柔らかな感触の後に、チリ、と痛みが走った。

「俺は刺しに来られたら嬉しい」
「どうして」
の恋人だって、認められたみたいで」

恋愛をするときは、いつも自分の方が優勢で、いつも自分の方が冷静でいたいと思っていた。これまでずっとそうだったし、これからもずっとそうだと、思っていた過去の自分にグッド・バイ。

今は、のめり込む恋愛というのも悪くないなと思う。いや実際にのめり込んでいる最中は自分がのめり込んでいるかどうかなんて客観的に判断することはできないのだ。そう、よくある話。なんでそんな男と付き合ってるのか理解できない、浮気はするわ博打はするわ、そんなのとは早く別れた方が身のためよ、新しい男さがしなさい。そんな恋愛を幾度となく傍観してきたあたしは、最初こそ彼女たちに忠告していたものの、最近は面倒になってひたすら放置しておくことにしていた。言っても聞かないのだから無駄なのだ。
自分にとって利益にならない他人とどうしてそこまで親密な関係でいられるのか不思議でたまらなかったのだが、今思うと彼女たちはそう、正しく恋愛にのめり込んでいる最中だったのだ。何が得で何が損かなんて判断できないし、したとしてもそれは一般論とは大きく異なる結果になるだろう。恋愛中毒。言葉にすると少しロマンチックというか素敵な意味合いを含んでいそうだが生憎あたしはそんな麻薬に手を伸ばしたいという気持ちを持たなかった。薬物乱用はダメ・ゼッタイ。

話を戻すけれどとにかく過去のあたしはのめり込む恋愛に対しては侮蔑とほんの少しの憐みしか感じなかったのに、今はどうかというと「のめり込む恋愛というのも悪くないなと思う」わけだ。それはあたし自身が変わったというよりも恐らくあたしの目の前に、のめり込まないことには攻略不可能な相手が現れたからであろう。高橋涼介というその男はあたしの余裕も冷静さも客観的な思考も総て奪っていった。今も目の前で、刺されたいなどとほざいては笑う。そうして涼介が笑うたびにあたしの中で「好き」という気持ちが大きく膨れていく。

「来週、」
「うん」
「来週もまた会えるな」
「会えるね」

涼介はあたしよりも年下である。出会ったのは彼が高校3年生の冬で、付き合い始めたのは高校3年の冬だ。要するに出会ってから付き合うまでにそんなに時間がかからなかった。そうして彼が大学に行ってからもずっと、付き合い続けている。付き合いはそんなに暑苦しいものではなくしかし深いものだった。今までならば恋人と会う時間を作るなんて考えを持たなかったあたしがわざわざ仕事をやりくりしてまで会おうと思うくらいだ。彼に会うことが全くマイナスの方向に働かないのである。

週末一緒に過ごそうか。そんな文句を囁かれれば過去のあたしは面倒臭いと感じていた。どうしてたまの休日をあんたのために使わなきゃならないの。平日せっせと働くのだから休日くらい1人でのんびりさせてほしい。すなわち彼氏というものが家でのんびりするのに邪魔な存在でしかなかった。それを打破した存在こそが、彼である。

「ねェ、涼介」
「ん?」



よく聞いて。(ずっと、貴方を待っていたんだと思う)






End.